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神社

2024年11月24日 (日)

呼ばわり山という今熊山の今熊神社と安閑天皇の頃とは

最近はそれほど高くない山登りに行くことが多くなってきましたが、今回は今熊山に行きました。

登山口には今熊神社遥拝殿があります。

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今熊神社の創建は、安閑天皇の時代に紀州の熊野本宮大社を勧請して、今熊野宮と号して

祀ったものと伝えられています。

今熊神社は今熊山山頂にあるため、山登りしなくても参拝できるように登山口に遥拝殿があります。

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ここでも既に標高280メートルです。

先月行った小峰公園に近いので、あきる野市かと思っていましたが八王子市上川町になります。

安閑天皇って何時代だっただろうかと考えながら坂道を登っていきました。

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かなり暖かい日だったのですが、今熊山登山道を登っていくと山の中で木陰でもあり、かなり温度は低く感じられます。

↑山の木々も日向と日陰で見え方が全く異なっていて、コントラストがきれいです。

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↑途中にはゴツゴツした岩の上を登るところもあります。

この辺りに天狗岩があったのらしいですが、わかりませんでした。

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↑やがてベンチやトイレもあり、北から東に向け展望も開けたところに着きました。

ここはまだ頂上ではなくあと少し先のようです。

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2024年10月20日 (日)

地理院地図で大書きしてある大澄山と草花にある草花神社

国土地理院の地図はホームページでも地理院地図として見ることができます。

多摩川沿いのあきる野市に「大澄山」と大きな文字で記載がされています。

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あまり聞いたことはないけれど、あえて目立つ書かれ方をしてあるので行ってみました。

草花という地名ですが、以前は草花村だったということで、のどかな風景を想像させるいい名前です。

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↑南から北への坂道と先の長い階段の上に草花神社があります。

奥多摩に近づき標高がどんどん高くなっていく中、多摩川と平井川に挟まれている地形のため、急坂が多く見られます。

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↑石段途中で右に向かい大澄山に登るルートと分岐しています。

まずは草花神社に行きました。

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高いところにありますから古くからこの場所にあるのだろうと思いましたが、江戸時代までは麓にあったものが明治2年(1869)にこの地に移ることとなったそうです。

十二天社でしたが、四社を合祀し草花神社として村社になったということです。

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↑坂の下で標高150メートルでしたが、この境内では170メートル以上となりますから、南から南西を遠くまで見渡せます。

平井川の流れているところは130メートルほどです。

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2024年10月 6日 (日)

昭和天皇手植えの枝垂れた杉のある和田乃神社と臨川庭園

青梅駅から先はいきなりローカル線らしくなるJR青梅線で菅谷、一つめには宮ノ平駅があります。

この駅名の由来にもなった和田乃神社が国道411号青梅街道沿いにあります。

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青梅市日向和田2丁目で、古くはここは和田村でした。

和田村の総鎮守として和田明神でしたが、慶長3年(1598)には日向和田村と日影和田村に分村し、和田明神から三島明神と改称しました。

明治維新の際、和田乃神社となりました。

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↑ここには昭和天皇の手植えの杉があります。

戦後のことかと思いましたが、大正2年(1913)に在学中の皇太子であった昭和天皇であったということです。

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枝垂糸杉ということで、枝垂れている杉は見たことありませんでした。

すぐ近くの日向和田石灰石採石場を見学の際に、和田乃神社にも来られたとのことです。

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江戸時代には三島明神といっていたのは、静岡県の三島神社の分神を賜っての創始であるからということのようです。

境内には道を挟んだ向こうに土俵があります。

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奉納相撲の始まりは、江戸時代初期の寛文年間(1661〜72)といい、日向和田と日影和田に分村してた頃です。

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2024年9月22日 (日)

無形民俗文化財まんぐりの川越市にある八咫神社と寺山堰

川越市上寺山に八咫神社があります。

川越市街地の北西方面で川越北環状線と入間川の間に位置します。

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八咫というと、JFA日本サッカー協会のマークでもお馴染みの八咫烏が祭神なのかと思いましたが、そうではないそうです。

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江戸時代の新編武蔵国風土記稿には八口社と載っており、大正時代初めの入間川堤防工事前には、もう少し北西の小字八ツ口にあったといいます。

八ツ口は、出雲神話で素盞嗚命が退治した頭尾八つに分かれた八岐大蛇からきているようです。

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出雲の簸川を大蛇に見立てたように、毎年氾濫する入間川を治めるために神を祀ったものです。

また、神社の杜に鳥か多く棲んでいたことからこれを八咫烏と考え、社名に八咫をつけたというのもあるようです。

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↑覆殿の隙間から本殿も見ることができました。

まんぐりは、大山信仰を基とした夏祈祷の行事です。

ちょっとエッチな響きですが、そんなことはありません。

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2024年9月15日 (日)

読めないけど延喜式にも載る大麻止乃豆乃天神社のある大丸

稲城市にあったという大丸城跡を1年前に見ました

その城跡のある公園には、はるか下の方に向かう長い階段があり、[「大丸神社近道」と書いてあるのは知っていたのですが、行くと再びここを上って来なければと考えて、行ってはいませんでした。

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最近は、自分の体のことも考え、なるべく登り坂や階段には積極的に挑戦するようにしています。

今回はここもあえて下ってみました。

といっても、標高84メートルから42メートルほどのところに行っただけです。

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↑大丸神社というのかと思いましたが、鳥居には「大麻止乃豆乃天神社」とあります。

数多くののぼり旗にも書かれていますが、なんと読むのでしょう。

よく見ると参道右にひらがなで大きく、「おおまとのつのてんじんじゃ」と書いてありました。

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鳥居から先の石段も進むと社殿があり、63メートルほどのところで、大丸城のあった丘の中腹に位置します。

大麻止乃豆乃天神社の創建年代は不詳ですが、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されているといいます。

これまでもいくつか見てきた、多摩郡八座のうちの一社、大麻止乃豆乃天神社の論社とされています。

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ただし、武蔵御嶽神社も論社とされており、そちらの方が有力ともいわれています。

大丸の方は江戸時代には、丸宮社・丸宮明神と称していました。

「おおまとのつ」とは「大きく丸い平地にある船着き場」という意味ではないかと考えられています。

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2024年8月18日 (日)

貴志嶋神社洞窟と岩山の網代弁天山と山頂景色

あきる野市の網代弁天山に登ってきました。

JR五日市線武蔵増戸駅方面からは秋川を渡るのですが、網代橋は令和元年の台風の影響で車だけでなく歩行者も通行止めとなっており、山田大橋を渡って行きます。

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秋川の橋の辺りの標高は150メートル程で、貴志嶋神の石段前のところで既に235メートルになります。

足利尊氏ご母堂の守護神として勧請されたといいます。

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平成31年4月(2019年で令和元年になる直前)には、30年に一度という弁天像等のご開帳が行われたそうです。

すぐ近くには弁天洞窟があります。

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左側のハート形というか逆三角形の洞窟が奥まで続いているようです。

貴志嶋神社奥の院ということになっています。

あきる野市指定文化財となっている石造大黒天像があり、文明9年(1477)の紀念銘が刻まれています。

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洞内には毘沙門天石像(無銘)もあり、主尊としての弁財天像もあったと推定されています。

中世以来の弁財天信仰の証としても貴重だといいます。

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2024年6月16日 (日)

昭和、明治に次ぐ長期の応永年間からの鰐口もある南畑八幡神社

埼玉県富士見市にある南畑八幡神社に行ってみました。

南畑は富士見市東部の荒川と新河岸川に挟まれた水田の広がる地区になります。

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応永7年(1400)に、足利満兼がこの地を鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進して社領となり、分祀奉斎した時の八幡社だといいます。

足利満兼とは知っていそうで知らない名前ですが、第3代関東公方でした。

室町幕府の足利将軍ではなく、むしろ当時の関東公方と京都の将軍家とは緊張関係にありました。

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ここには八幡社に奉納された鰐口があり、同じく応永年間の銘文の刻まれており、富士見市指定有形文化財となっています。

鰐口(ワニグチ)とは、神社仏閣の堂前にある参詣者が綱で打ち鳴らす大きな鈴のことです。

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応永年間は1397〜1432年までの35年間に及ぶ長さです。

明治時代からの一世一元の制より前までは、元号は期間の短いものが多く、それまでで最長となります。

つまり、昭和と明治に続いて歴代3番目の長さということになります。

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すぐ近くには8年前に見てまわった難波田城跡があります

南畑八幡神社は、天文年間(1532〜55)には難波田城主の難波田弾正が篤く崇敬したといいます。

先程の鰐口にも難波田弾正によって再奉納されたという銘文も刻まれています。

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明治時代には下南畑村の村社となっています。

↑本殿は昭和16年(1941)に川越中学(現高校)内に建てられた奉安殿を移築したものです。

奉安殿は室岡惣七が設計したもので、入間市の旧石川組製紙西洋館や川島町の遠山家住宅を設計した建築家です。

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↑境内社が多くあり、右から稲荷社、八雲社、御嶽社、琴平社、庚申社、天神社と並びます。

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↑境内には多くの立派な木々がありますが、盆栽のような松の木もありました。

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2024年6月 2日 (日)

金子十郎家忠に関わる入間市木蓮寺の瑞泉院と桂川神社

JR八高線金子駅近くの入間市木蓮寺には、地図でみる限り木蓮寺という寺院は見当たりません。

木々の中にあり、寺社のどちらであろうと立ち寄ると、桂川神社がありました。

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上州の赤城神社を勧請したもので、金子氏館の鬼門徐けとして金子十郎家忠によって建立されたといいます。

平安時代終わりから鎌倉時代初期の頃のことです。

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近くにはJR八高線の金子駅がありますが、金子氏とは武蔵七党の一つである村山党に属していた武士です。

村山頼家の三男家範が、ここ入間郡金子郷を本貫地とし、金子氏を称したことが始まりだといいます。

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家範の子である十郎家忠(1138〜1216)は、源義朝に従い、保元・平治の乱に参陣しました。

その後も衣笠城攻や源平合戦にも参陣しました。

↑桂川神社の裏側は斜面で高くなっていますが、数多くの墓石の並ぶ大規模な墓地となっているようです。

行ってみると、入間霊園とともに、看板には公益財団法人瑞泉院メモリアルアカデミーと書かれています。

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↑石柱には金龍山木蓮寺瑞泉禅院とありますが、瑞泉院は既に廃寺となっているようです。

「入間市指定文化財 金子十郎家忠一族宝篋印塔入口」との看板がひときわ目立ちます。

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2024年5月19日 (日)

村社越生神社だが越生ではなく鹿下の方の越生神社と学頭沼

埼玉県越生町の鹿下にある越生神社に行きました。

石柱には村社越生神社とありますし、Googleマップの表示も越生神社です。

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しかし、一般的には越生神社というと、越生町の越生にある方が中心市街地近くですし有名です。

鹿下(カノシタ)は町の北方で、ときがわ町との境界に近いところです。

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↑北に向けての石段を登ると少し広い空間があり社殿があります。

元は根本神社と言われていたそうで、天平年間(729〜48)に行基が東国遊行の時に越生法恩寺を創立して、学寮を当地に選び神事を行なったということです。

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その後も応永年間(1394〜1427)や延徳2年(1490)に再興や再営されたと伝えられています。

寛文8年(1668)に社地が寄付され再修され、明治5年(1872)村社となりました。

明治40年(1907)に日枝神社を合祀して根本神社は越生神社となりました。

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二つの越生神社問題を知るため調べてみると、越生町は明治22年(1889)に9ヶ村が合併しています。

そこには越生村も鹿下村も入っていますから、ここ越生神社の元の根本神社は鹿下村の村社だったということのようです。

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↑ 神社西側の坂道を下ると「学頭沼」があります。

名前に興味を惹かれますが、江戸時代初めの頃の話のようです。

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2024年4月21日 (日)

多摩川に翻弄された青柳村の常夜燈と稲荷神社、どちらかわからない青柳2号墳

平成19年(2007)に日野バイパスができるまでは国道20号として甲州街道であった、都道256号八王子日野線沿いの国立市青柳に「元青柳村の常夜燈」があります。

江戸時代の寛政11年(1799)のものです。

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常夜燈とは聞き慣れたものですが、案内板によれば、秋葉燈とも呼ばれるということで、江戸時代に町を火から守るために油屋近くに建てられたものだそうです。

秋葉というのは火伏せの神である秋葉神社への信仰です。

常夜燈といいながら形は石灯籠です。

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↑甲州街道沿いですから、現在の街灯の役割だとばかり思いましたが、関係あってか無くてか、脇には鳥居があります。

多摩川や府中用水のある南に向いた道の左右には民家への入り口があり、この参道は古くから地元に使われていたことがわかります。

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↑車は通れない参道の先に二の鳥居があり青柳稲荷神社です。

宝暦5年(1755)に創建されたといいますが、ここに青柳村が存在するにあたって重たい経緯があったそうです。

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青柳は昔から多摩川北岸のここ国立市青柳にあったわけではなく、多摩川南岸の現在の府中市本宿の青柳島にありました。

寛文11年(1671)多摩川の大洪水によって青柳島が流失したため、村人たちは四ツ谷村を経てこの地に移住し、新たに青柳村を開拓したということです。

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国立市石田も同じ時、府中市石田から移住してきたようです。

青柳稲荷神社は青柳と石田の鎮守でした。

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