フォト
無料ブログはココログ

ポタリングブログのランキング

神社

2025年9月 7日 (日)

南向きから江戸の護りのため東向きになった武蔵御嶽神社と2本の巨木

ぷち登山を涼しくするのを目的に、御岳山にあるロックガーデンや滝めぐりを前回お伝えしてきました。

武蔵御嶽神社にも当然行っています。

標高831メートルのケーブルカー御岳山駅から想像していたよりは急な坂道で参道を登っていくと、大木が目に入ります。

Img_6298a

「御岳の神代ケヤキ」で国の天然記念物に指定されています。

幹回り8.2メートル、高さ30メートルで樹齢は1000年とも言われていると言います。

Img_6300a

日本武尊が東征の際の植えたという伝説があります。

名前の神代はそこから来ているようですが、となると1900年前のことになってしまいます。

そもそも1000年という樹齢も確認されたものではないようです。

Img_6301a

↑武蔵御嶽神社の石段ですが、330段ほどあるということです。

創建は10代崇神天皇7年と伝えられ、文書に残る記録としては、天平8年(736)僧の行基が東国鎮護を祈願して金剛蔵王権現像を安置したとあります。

創建当時は南向きだった社殿は、江戸時代の慶長5年(1605)にも徳川家康将軍により江戸のでしょうか守護のため東向きに改められました。

Img_6303a

↑この拝殿は東向きですが、5代徳川綱吉将軍の時に江戸の西の護りとして建て替えられたものです。

入母屋造で元禄13年(1700)に改築されたものが、明治時代に檜皮葺から銅板瓦屋根に改修されています。

Img_6313a

↑本殿は神明造で明治11年(1878)に造営されたものです。

↓常磐堅磐社(トキハカキハシャ)は旧本殿です。

Img_6306a

永正8年(1511)建立の流造で、国指定重要美術品、東京都指定有形文化財となっています。 令和時代に漆の塗り替えをしたので綺麗です。

さらに、玉垣内の最も奥にある奥宮遥拝所があります。

Img_6312a

奥の院である日本武尊を祀る男具那社(オグナシャ)が標高1077メートルの山の峰にあります。

続きを読む "南向きから江戸の護りのため東向きになった武蔵御嶽神社と2本の巨木" »

2025年8月10日 (日)

奥溜から地名が変わった奥富にある歴史ある梅宮神社と富士塚

入間川右岸の狭山市上奥富から入間川を渡る道は、狭山環状有料道路でした。

今では、2021年7月に無料開放されています。

その道の近くに梅宮神社があります。

Img_6223a

この地区は平安時代に、京都西院の勅旨田として開田されたそうです。

西院とは淳和天皇の退位後の京都四条にあった御所です。

嵯峨天皇の第二皇子で、武蔵守となった源朝臣信公が当地を開拓したということです。

Img_6218a

梅宮神社はその際、承和5年(838)に山城国葛野郡梅津郷(現在の京都市右京区)の梅宮大社から分霊され創建されました。

現在の社殿は安政4年(1857)に再建されたものです。

Img_6215a

本殿を守る覆殿の後ろ側にも屋根が付けられています。

御神木の覆殿というところでしょうか。

Img_6216a

拝殿入り口は大きく開かれており、中を見ることができます。

桃園三傑図が飾られており、江戸時代後期の雲谷派の画家・雪山堤等琳により文政3年(1820)に描かれたものです。

Img_6225a

狭山市指定有形文化財となっています。

続きを読む "奥溜から地名が変わった奥富にある歴史ある梅宮神社と富士塚" »

2025年4月 6日 (日)

和同開珎推しの秩父市黒谷と和銅と和同の違いの謎解き

前回書いた、春分の日なのに季節はずれの雪山であった美の山から、なんとか下山してきました。

秩父鉄道の和銅黒谷駅へ向かう途中に、和銅採掘露天掘跡があるので立ち寄りました。

Img_5670a

現地に着くと、まずは目立つのは和同開珎の大きなモニュメントです。

日本通貨発祥の地と書かれています。

昭和時代に歴史で学習したこととは異なるという項目の一つに、日本最古の貨幣は富本銭だったというのがあります。

Img_5674a

すると、ここでは情報が古いということでしょうか。

調べると、貨幣としては富本銭の方が古いものの、流通した通貨としては和同開珎が最古ということでした。

和銅元年(708)にここで和銅が採掘されたことから記念して元号を変え、和同開珎が鋳造、発行されました。

Img_5675a

ここに流れる銅洗堀という小川の面の和銅山に露天掘跡があります。

縦に山頂に向かって続いているのが眼に入ります。

下流を見ていますが、小川に架かる橋を渡り階段を登れば、断層面をえぐる和銅の採掘溝を真上から覗くことができるはずですが、通行止めになっていました。

Img_5672a

通貨名が和銅でなく和同なのは昔から不思議でした。

調べれば、この後150年に渡り作られた12種の皇朝十二銭の銅銭のうち、年号と名称が一致するものは4種しかなく、年号と名称はそもそも一致するのが前提ではありません。

中国の古典にある「天地和同」「万物和同」「上下和同」にある和らぎとか調和の意味の、よいことの前兆を表す言葉としての「和同」ということだそうです。

Img_5680a

↑さらに麓の和銅黒谷駅近くまで行くと、聖神社があります。

創建は和銅元年で、採掘された和銅石13個(神社に現存するのは大小2個)と、元明天皇下賜の銅製の蜈蚣(百足)雌雄一対が御神宝として納められたということです。

続きを読む "和同開珎推しの秩父市黒谷と和銅と和同の違いの謎解き" »

2025年3月 2日 (日)

加治丘陵の新久高台にある八坂神社からの景色と丘陵からの見え方

前回から見てきた仏子駅周辺から加治丘陵の間の坂を登ったところの続きになります。

小谷田と新久の境界の坂道を北へ下った後、西寄りのいちょう通りで南へ上がってきました。

Img_5570a

さらに、八坂神社前バス停からヘアピンカーブのように北へ向きを変えて高台へ上がります。

↑八坂神社鳥居が右側にあります。

Img_5572a

↑ここで南を振り返ると、住宅街とともに西には開発されていない加治丘陵の木々や芝生のような斜面が見えます。

神社は辺りを見下ろすような位置にあるということです。

Img_5573a

ここは入間市大字新久ですが、江戸時代には新久村で、神社は牛頭天王社として村の鎮守社でした。

新たに新田開発されたことに新久という地名は因むといいます。

今ではすっかり住宅街となっています。

Img_5575a

創建は不詳ですが建仁年間(1201〜04)に創建された龍圓寺の鬼門除けとして祀られたといいます。

社殿は新しくきれいで、あえて見せるコンクリート壁が割といい雰囲気を出しています。

Img_5576a

拝殿と本殿に分かれた立派なものです。

本殿扉の装飾金具も金色に輝いています。

標高は154メートルでこのすぐ右側つまり東側は大字小谷田になります。

続きを読む "加治丘陵の新久高台にある八坂神社からの景色と丘陵からの見え方" »

2024年11月24日 (日)

呼ばわり山という今熊山の今熊神社と安閑天皇の頃とは

最近はそれほど高くない山登りに行くことが多くなってきましたが、今回は今熊山に行きました。

登山口には今熊神社遥拝殿があります。

Img_5270a

今熊神社の創建は、安閑天皇の時代に紀州の熊野本宮大社を勧請して、今熊野宮と号して

祀ったものと伝えられています。

今熊神社は今熊山山頂にあるため、山登りしなくても参拝できるように登山口に遥拝殿があります。

Img_5271a

ここでも既に標高280メートルです。

先月行った小峰公園に近いので、あきる野市かと思っていましたが八王子市上川町になります。

安閑天皇って何時代だっただろうかと考えながら坂道を登っていきました。

Img_5274a

かなり暖かい日だったのですが、今熊山登山道を登っていくと山の中で木陰でもあり、かなり温度は低く感じられます。

↑山の木々も日向と日陰で見え方が全く異なっていて、コントラストがきれいです。

Img_5276a

↑途中にはゴツゴツした岩の上を登るところもあります。

この辺りに天狗岩があったのらしいですが、わかりませんでした。

Img_5280a

↑やがてベンチやトイレもあり、北から東に向け展望も開けたところに着きました。

ここはまだ頂上ではなくあと少し先のようです。

続きを読む "呼ばわり山という今熊山の今熊神社と安閑天皇の頃とは" »

2024年10月20日 (日)

地理院地図で大書きしてある大澄山と草花にある草花神社

国土地理院の地図はホームページでも地理院地図として見ることができます。

多摩川沿いのあきる野市に「大澄山」と大きな文字で記載がされています。

Daichou

あまり聞いたことはないけれど、あえて目立つ書かれ方をしてあるので行ってみました。

草花という地名ですが、以前は草花村だったということで、のどかな風景を想像させるいい名前です。

Img_5140a

↑南から北への坂道と先の長い階段の上に草花神社があります。

奥多摩に近づき標高がどんどん高くなっていく中、多摩川と平井川に挟まれている地形のため、急坂が多く見られます。

Img_5143a

↑石段途中で右に向かい大澄山に登るルートと分岐しています。

まずは草花神社に行きました。

Img_5144a

高いところにありますから古くからこの場所にあるのだろうと思いましたが、江戸時代までは麓にあったものが明治2年(1869)にこの地に移ることとなったそうです。

十二天社でしたが、四社を合祀し草花神社として村社になったということです。

Img_5145a

↑坂の下で標高150メートルでしたが、この境内では170メートル以上となりますから、南から南西を遠くまで見渡せます。

平井川の流れているところは130メートルほどです。

続きを読む "地理院地図で大書きしてある大澄山と草花にある草花神社" »

2024年10月 6日 (日)

昭和天皇手植えの枝垂れた杉のある和田乃神社と臨川庭園

青梅駅から先はいきなりローカル線らしくなるJR青梅線で菅谷、一つめには宮ノ平駅があります。

この駅名の由来にもなった和田乃神社が国道411号青梅街道沿いにあります。

Img_5128a

青梅市日向和田2丁目で、古くはここは和田村でした。

和田村の総鎮守として和田明神でしたが、慶長3年(1598)には日向和田村と日影和田村に分村し、和田明神から三島明神と改称しました。

明治維新の際、和田乃神社となりました。

Img_5130ua

↑ここには昭和天皇の手植えの杉があります。

戦後のことかと思いましたが、大正2年(1913)に在学中の皇太子であった昭和天皇であったということです。

Img_5131a

枝垂糸杉ということで、枝垂れている杉は見たことありませんでした。

すぐ近くの日向和田石灰石採石場を見学の際に、和田乃神社にも来られたとのことです。

Img_5132a

江戸時代には三島明神といっていたのは、静岡県の三島神社の分神を賜っての創始であるからということのようです。

境内には道を挟んだ向こうに土俵があります。

Img_5134ua

奉納相撲の始まりは、江戸時代初期の寛文年間(1661〜72)といい、日向和田と日影和田に分村してた頃です。

続きを読む "昭和天皇手植えの枝垂れた杉のある和田乃神社と臨川庭園" »

2024年9月22日 (日)

無形民俗文化財まんぐりの川越市にある八咫神社と寺山堰

川越市上寺山に八咫神社があります。

川越市街地の北西方面で川越北環状線と入間川の間に位置します。

Img_5061a

八咫というと、JFA日本サッカー協会のマークでもお馴染みの八咫烏が祭神なのかと思いましたが、そうではないそうです。

Img_5063a

江戸時代の新編武蔵国風土記稿には八口社と載っており、大正時代初めの入間川堤防工事前には、もう少し北西の小字八ツ口にあったといいます。

八ツ口は、出雲神話で素盞嗚命が退治した頭尾八つに分かれた八岐大蛇からきているようです。

Img_5066a

出雲の簸川を大蛇に見立てたように、毎年氾濫する入間川を治めるために神を祀ったものです。

また、神社の杜に鳥か多く棲んでいたことからこれを八咫烏と考え、社名に八咫をつけたというのもあるようです。

Img_5065a

↑覆殿の隙間から本殿も見ることができました。

まんぐりは、大山信仰を基とした夏祈祷の行事です。

ちょっとエッチな響きですが、そんなことはありません。

Img_5062a

続きを読む "無形民俗文化財まんぐりの川越市にある八咫神社と寺山堰" »

2024年9月15日 (日)

読めないけど延喜式にも載る大麻止乃豆乃天神社のある大丸

稲城市にあったという大丸城跡を1年前に見ました

その城跡のある公園には、はるか下の方に向かう長い階段があり、[「大丸神社近道」と書いてあるのは知っていたのですが、行くと再びここを上って来なければと考えて、行ってはいませんでした。

Img_5049a

最近は、自分の体のことも考え、なるべく登り坂や階段には積極的に挑戦するようにしています。

今回はここもあえて下ってみました。

といっても、標高84メートルから42メートルほどのところに行っただけです。

Img_5051a

↑大丸神社というのかと思いましたが、鳥居には「大麻止乃豆乃天神社」とあります。

数多くののぼり旗にも書かれていますが、なんと読むのでしょう。

よく見ると参道右にひらがなで大きく、「おおまとのつのてんじんじゃ」と書いてありました。

Img_5052a

鳥居から先の石段も進むと社殿があり、63メートルほどのところで、大丸城のあった丘の中腹に位置します。

大麻止乃豆乃天神社の創建年代は不詳ですが、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されているといいます。

これまでもいくつか見てきた、多摩郡八座のうちの一社、大麻止乃豆乃天神社の論社とされています。

Img_5053a

ただし、武蔵御嶽神社も論社とされており、そちらの方が有力ともいわれています。

大丸の方は江戸時代には、丸宮社・丸宮明神と称していました。

「おおまとのつ」とは「大きく丸い平地にある船着き場」という意味ではないかと考えられています。

Img_5055a

続きを読む "読めないけど延喜式にも載る大麻止乃豆乃天神社のある大丸" »

2024年8月18日 (日)

貴志嶋神社洞窟と岩山の網代弁天山と山頂景色

あきる野市の網代弁天山に登ってきました。

JR五日市線武蔵増戸駅方面からは秋川を渡るのですが、網代橋は令和元年の台風の影響で車だけでなく歩行者も通行止めとなっており、山田大橋を渡って行きます。

Img_4985a

秋川の橋の辺りの標高は150メートル程で、貴志嶋神の石段前のところで既に235メートルになります。

足利尊氏ご母堂の守護神として勧請されたといいます。

Img_4984a

平成31年4月(2019年で令和元年になる直前)には、30年に一度という弁天像等のご開帳が行われたそうです。

すぐ近くには弁天洞窟があります。

Img_4980a

左側のハート形というか逆三角形の洞窟が奥まで続いているようです。

貴志嶋神社奥の院ということになっています。

あきる野市指定文化財となっている石造大黒天像があり、文明9年(1477)の紀念銘が刻まれています。

Img_4983a

洞内には毘沙門天石像(無銘)もあり、主尊としての弁財天像もあったと推定されています。

中世以来の弁財天信仰の証としても貴重だといいます。

続きを読む "貴志嶋神社洞窟と岩山の網代弁天山と山頂景色" »

より以前の記事一覧