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富士塚

2023年5月14日 (日)

青柳氷川神社と移転した富士塚と少し離れた富士塚の青柳浅間神社

狭山市赤坂からホンダ工場の方に向かう草刈街道があります。 その道沿いに、昔のバスターミナルのような雰囲気のちょっとした広場のような敷地があります。

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通りすがりに東側から見ていて何なんだろうと思っていましたが、南側も別の道路に面していて神社でした。

青柳氷川神社で青柳村の村社でした。

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創建年は不詳ですが、村として開拓した際に、丘陵から流れ出る久保川を潅漑用水として尊重し、川沿いのこの地に大宮氷川神社から勧請したものと伝えられています。

江戸時代のことでしょう。

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社殿右には第六天神社、左には稲荷神社があり、ともに明治40年(1907)に合祀されたそうです。

さらに、社殿左側に富士嶽神社があります。

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富士塚や溶岩などもある立派なものです。

かなり昔からあるのかと思いましたが、昭和42年(1967)に東側道路改修に伴いこちらにあるそうです。

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猿の彫り物もありました。

この久保川1キロ少し下流にも富士塚があります。

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2022年7月31日 (日)

ふじみ野市の三角浅間神社の富士塚と地区世帯みんなで参加していた富士講

久しぶりの富士塚の話題ですが、2年前に行った三芳町上富の浅間神社から2キロほどのところです。

ふじみ野市亀ヶ谷の三角浅間神社です。

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合併前の旧大井町の関越自動車道沿いになります。

三角はミスミと読むのかと思いましたがサンカクのようで、この地区の名称です。

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江戸時代の富士山への信仰の流行により各地に築かれた富士塚と浅間大神を祀った浅間神社の一つです。

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↑富士塚というと江戸時代のイメージが強いですが、明治20年代(1887〜1896)の石碑があることから、その頃築かれたものではと考えられています。

三角の富士講の明治30年代の名簿には30名以上の名前があるといいます。

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当時の三角地区の世帯数は同数くらいだそうなので、地域全体が参加する講であったというから驚きです。

↑正面から登山道があり、横には阿夫利神社と書かれた大きな石碑があります。

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↑左側にも登山道がありますが、ふじみ野市指定文化財として三角浅間様旧社殿と書かれています。

 

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2021年8月 8日 (日)

上尾市の県央ふれあいんぐロード沿いの小塚富士塚とアッピーお休み処と畔吉渡し場跡

荒川と入間川の合流地点から上流の荒川サイクリングロードは右岸側にありますが、左岸側にも一部通っています。

開平橋から県央ふれあいんぐロードがあります。

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狭かったり曲がったりしていますが、のんびりポタリングするにはいい道です。

↑下流方向を向いていますが、西野橋という荒川にしては小さな橋のすぐ近くに「浅間様入口」と書かれています。

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↑そこには小塚富士塚がありました。

オヅカと読むようですがオオツカとも呼ばれており、上尾市指定有形民俗文化財となっています。

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↑鳥居の先には南西側から頂上への真っ直ぐな参道があります。

浅間塚、富士塚は江戸時代後半から流行した富士浅間信仰によるものです。

富士山参詣が難しい人も参拝ができるように、富士山を模した塚が祀られたものです。

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↑頂上には文化13年(1816)の石祀と明治26年(1893)の登山大願成就碑があります。

高さは約4、6メートル、一辺約26メートルの方形の塚でした。

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東と南の裾部は民家等で基盤まで削られていますが、その他の部分は残されています。

↑先程の荒川左岸と自転車道が見渡せます。

下りて、ちょっと上流方面も見てみます。

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2021年6月20日 (日)

鎌倉時代からの羽根倉浅間神社と2回も移転した明治時代の羽根倉富士嶽

国道463号浦和所沢バイパスが荒川に架かる羽根倉橋の袂、志木市上宗岡に羽根倉浅間神社があります。

位置的にはバイパス沿いですが、橋梁は堤防の高さに架けられていますから一段低いところになります。

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起源は古く、鎌倉時代の初期になります。

源頼朝が建久5年(1193)に家来を集めて富士の裾野で大がかりな巻狩りを行った際に、宗岡の人達も勢子という鳥や獣を追い出す役として借り出されました。

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そのために翌年の年貢を免除されたので、喜んだ村人達はこれを記念して、荒川堤外の字大野に塚を築き富士浅間を祀ったものだといいます。

江戸時代の1780年以降に富士塚が各地に作られましたが、当時にその富士塚を築いたわけではありませんが富士信仰という意味では約600年も前のことになります。

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室町時代の長禄年間(1457〜60)に荒川が洪水を起こした時に、祠が羽根倉(現在の羽根倉橋の上流)に流れ着き、そこに社殿を建てました。

元の字「大野」の位置がどの程度離れたところなのかはよく分かりませんでした。

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そして明治時代になりこの神社にも富士塚が築かれました。

江戸時代ではなくて明治13年(1880)のことで、羽根倉富士嶽は高さ約10メートルのものでした。

しかし、ややこしいですがこれがその富士塚ではありません。

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2020年4月12日 (日)

富士塚のある三芳町上富の浅間神社と様々な名前の石碑

埼玉県道56号さいたまふじみ野所沢線は、三芳町上富の辺りでは、特産品である「富の川越いも」を生産している農家が軒を連ねることから、「いも街道」と言われています。

その三芳町の北端に近い道路沿いに、浅間神社があります。

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三芳町の設置した文化財の案内柱には、浅間神社と書かれています。

社殿の中の社額には富士嶽神社と書かれていました。

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天保4年(1834)の勧請と伝えられています。

この社殿の北側には富士塚があります。

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八軒家をはじめ近隣の富士講の人々により信仰されていました。

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↑山の中腹には、小室浅間神社という石碑があります。

塚の高さは6メートルほどですが、かなりの急斜面で登山道もなく、上りはなんとか行けるものの、下りはかなり慎重に歩かなければなりません。

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2019年7月 7日 (日)

本富士警察の名前の由来となった本郷にある富士浅間神社と東大内の庭園

文京区本郷に本富士警察という警察署があります。

左隣にある消防署は本郷消防署という名称ですから、警察はなぜ「本富士」なのか不思議でした。

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これまで存在に気付いていなかった神社がすぐ近くのビルの隙間にありました。

そこにあった文京区教育委員会による説明板で謎が解けました。

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ここは明治5年(1872)から昭和40年(1965)まで「本富士町」という町名だったといいます。

なぜかというと、加賀藩本郷邸の跡地であった東京大学本郷キャンパスに「富士浅間神社」があったからだそうです。

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江戸時代には「椿山」と呼ばれる小丘があり、それが「富士山」「富士塚」などと呼ばれ、富士浅間神社が祀られていました。

現在のこの位置ではなく、数百メートルほど離れた東大赤門を入った右側の辺りだそうで、今では面影はありません。

ではここになぜこの場所に神社があるかというと、明治維新により加賀藩本郷邸は明治4年に国に接収されましたことによります。

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そのため、前田家は旧加賀藩邸の南西一角に移転し、祀られていた富士浅間神社もその敷地内に移転しました。

さらに前田家が昭和3年に駒場へ移転して、地元の町会がここを管理しているという経緯だそうです。

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↑神社の道路を挟んだ向かい側には、いいチャーチゴシックの建物があります。

「日本基督教団本郷中央教会」で、昭和時代の建物ですが、東京都登録有形文化財となっています。

また、本富士警察署のすぐ奥にある東大の竜岡門横には、東京都選定歴史的建造物があります。

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2019年6月 9日 (日)

多摩湖自転車道沿いの谷津仙元神社と富士塚とそこから南向きの謎の道

多摩湖の南西の端近くの多摩湖自転車歩行者沿いに富士塚があるというので行って来ました。

外からでは分かりづらいですが、少し高い山が築かれています。

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入口も分かりづらいのですが、ここは谷津仙元神社の北西側からの入口というか参道になります。

住居表示では武蔵村山市中藤ですが、谷津は地名のようですから以前の小字だったのでしょうか。

入っていくと神社の社殿があります。

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その横には教育委員会による案内板があり、市指定無形民俗文化財の谷津仙元神社富士講の説明があります。

これは富士講を信仰行事として続けている都内でも数少ない団体だそうです。

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↑右には谷津仙元富士塚への登り口があります。

神社社殿前の石碑には「身禄山仙元神社」と書かれていましたが、谷津地区に富士講を伝えた富士講中興の祖 食行身禄からついているようです。

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↑頂上は平らな少し広い空間となっており、そこには祠があり、「浅間神社」と書かれています。

読みは同じ「せんげん」ですが、仙元と浅間の違いがありちょっと不思議です。

この日は天気も悪く木々も生い茂っていて見られませんでしたが、ここは標高150メートルほどで本物の富士山が見えるそうです。

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↑先程の南東側からの登山道の他にも、この南西側からの登山道などのいくつかの登り口があります。

上の写真は分かりづらいかもしれませんが、急な上り坂です。

不思議なことに、富士塚とは関係のない、神社社殿の南の方角に向けて謎の道が真っ直ぐに続いていきます。

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2019年5月19日 (日)

東村山市役所近くにある平和塔公園の境塚、あちら側にあるという浅間塚と今後は見られないであろう景色

前を通る時にちょっと気になっている神社の案内板がありました。

東村山市役所や東村山警察署前の府中街道西武新宿線踏切を渡ったすぐ西のところに、平和塔公園があります。

階段の付いた小さな山があるだけの公園で、この名称も不思議でした。

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↑この小山は「境塚」というようで、東村山市教育委員会による説明板があります。

江戸時代に幕府は武蔵野原の新田開発をすすめましたが、延宝、元禄年間には入会地の開墾をめぐって幕藩領主層と自立農民との対立も起りました。

延宝8年(1680)には「境目絵図」がつくられたり、その後村々にはこのような境塚が築かれたということです。

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境塚の上には、昭和36年に平和の女神像が立てられたのでこの公園の名前となったようです。

ここは元「大塚」で、今はなき「小塚」も近くにあったそうです。

説明板には「あちら側にある」という表現で、浅間塚についても書かれています。

しかし、「あちら側」が頂上からも見えないので、住宅街を探し回ってみました。

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↑北の方にそれらしきものがありました。

禁止という看板が見えたので入れないのかと思いましたが、立ち入り禁止ではなく、はりがみ禁止のようで南東側には登れるように階段がありました。

この浅間塚のところにも東村山市教育委員会による説明板がありました。

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この塚は富士塚ではありませんが、頂上に富士信仰の浅間神社が祀られており浅間塚と呼ばれているということです。

江戸時代の文化文政の頃から各地に富士山を模した富士塚も築かれましたが、これは違うようです。

でも、祠はあります。

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2019年4月29日 (月)

平成最後の週末に平成新道を走り、立川の金比羅山に行く

ここ数ヶ月間というもの、「平成最後の」というフレーズが何でもかんでもついていて、聞き飽きるほどです。

とはいうものの、本当に平成があと数日しかないとなると、なんか記念になるところに行っておきたくたくなります。

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「平成新道」という道路が立川にあります。

五日市街道、都道7号線杉並あきる野線の立川市幸町にある「古民家園入口」交差点から北に向かう市道です。

道路名表示板の右端が直角になっていることから、ここが起点部であることがわかります。

進むと、200メートル程でこんもりした森があり、平成新道は西へと向きを変えます。

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↑ここにあるのは川越道緑地です。

かつて川越に向かう道があったのでしょうか。

平成新道は西に向きを変えたので、五日市街道に並行して進むこととなります。

そして隣には、最初の交差点名にもあった古民家園があります。

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↑正しくは川越道緑地古民家園といいますが、園内に移築復元された、立川市指定文化財の小林家住宅などががあります。

小林家住宅は、江戸時代末期に建てられた茅葺の民家ですが、枯山水風に手入れされた庭の方が気に入りました。

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↑平成新道は時折S字カーブを描きながら西へと進みます。

先にある信号は幸福祉会館前という、幸せそうな名前のところです。

道は1キロメートル程の所で芋窪街道、都道43号立川東大和線と交差します。

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ここは多摩モノレールが通っているところです。

せっかくならモノレールが通った時をと思い、この写真を撮るため結構待ちました。

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↑モノレールの桁を潜ると、立川柏町団地沿いのツツジが綺麗です。

この平成新道は全長3キロメートル位しかありません。

都道55号所沢武蔵村山立川線との交差点が、平成新道の起点または終点となります。

道路名表示板の左端が直角になっていることからも、わかります。

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2019年2月10日 (日)

清瀬市にあるけど東久留米市民に管理運営されている三角山と言われる下里富士

野火止用水沿いに「三角山」というバス停があります。

ここには三角山と言われている「下里富士」があります。

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↑南西から見ると、ここだけが高台となっており、富士塚として築かれたことがわかります。

ここにある浅間神社は、南沢氷川神社によって管理されていると書かれています。

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東久留米市内の神社は、ほとんどこの南沢氷川神社によって管理されています。

神社HPには市内神社紹介に、神職が兼任して務める11社の神社の一つとして、旧下里地区の「浅間神社」も記載されています。

ただし、これはちょっと変です。

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↑階段沿いにある「富士浅間神社年中行事」も、「下里氏子会」によって記されています。

下里は東久留米市の地名で、野火止用水の南側が東久留米市、北側が清瀬市になり、ここはその北側ですから清瀬市に存在します。

河川であれば改修工事により流路が変わって、旧河川の境界が残ることがありますが、野火止用水は江戸時代から真っ直ぐに掘られていたと思われます。

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↑同じく階段をさらに登ると、大正14年と記された「富士太々講」による碑が立っています。

階段の向きに対して斜めに立っているのは、富士山の方向を向いているからなのでしょう。

ということは、頂上から富士山が見られるということなのでしょうか。

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