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遺跡・古墳

2024年2月 4日 (日)

はにわの丘はちょっと微妙なところだけど桜山窯跡群はすごいところ

いつものように地図を眺めていたら、はにわの丘というところが東松山市にありました。

関越自動車道の東松山サービスエリアの少し北東になります。

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↑「ひきのみち」と名付けられた歩行者自転車用道路の弁天山橋から、南の練馬方面を見たものです。

ひきのみちを東に進むと、「はにわの丘」があります。

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古墳時代後期である1450年前の須恵器や埴輪の窯の跡が見つかっています。

平成14年(2002)の東松山市教育委員会による説明板ですから、552年頃ということになります。

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日本に仏教が伝来したのが538年とか552年とか言われますから、その頃のものかと思うとやっぱり悠久の昔です。

昭和55年(1980)に行われた発掘調査で、ここに須恵器の窯跡2基があったということです。

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土器の中で、須恵器というものがよくわかっていませんでしたが、青灰色の1200度ほどの高い温度で焼かれた焼き物だということです。

それまでの縄文土器や弥生土器、土師器のように野焼きで作れるものではないところが大きな違いです。

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↑斜面に沿って舟底型に長さ7メートル、深さ1メートルほどに穴を掘り、その上に天井を付ける登り窯です。

低い方に焚き口、高い方に煙道があり、高温にできるため硬く引き締まった土器ができるようになりました。

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2023年9月24日 (日)

7世紀の三輪白坂横穴群と三輪という地名の由来にもなっている椙山神社

前回、予想を上回る素晴らしさの町田市の三輪城跡を見てまわりましたが、そのすぐ横の坂道には遺跡がありました。

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三輪白坂横穴群で町田市指定史跡になっています

崖面に横穴を掘った古墳時代における有力者のお墓です。

この崖が凝灰岩のような白っぽい岩石なので白坂なのか、城坂から来ているのかどちらかなのでしょう。

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三輪白坂横穴群は二つの群13基あり、この第一支群は6基あります。

鶴見川のすぐ近くですが、三輪城を築こうとするくらいですから高低差のある地形です。坂道の途中の斜面で標高50メートルほどのところに位置します。

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内部には川原石が敷詰められて、遺骨とともに刀子や須恵器が発見され7世紀に造られたと想定されます。

見学できるのはこの2基だけです。

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↑この東の鶴見川に沿った崖には第二支群の7基があり標高35メートル付近に位置します。

この鶴見川すぐ下流沿いの三輪小学校があります。

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開校前の発掘調査では、町田市内では珍らしい弥生時代後期の住居址二軒土器二個を組み合わせた墓などが発見されました。

斜面に立地しているため、高い位置の裏門側に案内板だけがありました。

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2023年4月23日 (日)

蛇行する槻川に囲まれた天然の要害である小倉城跡

ときがわ町にある小倉城跡は平成20年に国指定史跡となっています。

嵐山町の菅谷館跡、杉山城、吉見町の松山城跡とともに比企城館跡群として指定されました。

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↑城山と呼ばれる山の山頂から中腹にある戦国時代の山城で、攻守一体で様々な工夫が凝らされたもので削平地を連ねています。

車で行けば、大福寺前に駐車場もあります。

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↑そこにあったコースマップで見ると、上の方から右下に向かい流れている川と下にあるのは同じ川です。

この槻川は、右端欄外のすぐ先でヘアピンカーブして、今度は下では右から左に流れています。

つまり、小倉城のある城山は三方を槻川に囲まれていることになります。

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↑大福寺裏手にも登山道はあるのですが、それは戦国時代にはなかった道だというので、マップでの右、つまり北へ向かいます。

6分程歩いたところに山への入り口がありました。

小倉城の城主は、江戸時代の新編武蔵風土記稿では、戦国時代の小田原北条氏の重臣遠山氏を、武蔵志では遠山氏あるいは上田氏と伝えています。

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↑急坂を東から北へしばらく登ると尾根道になり、それを南に進むと桝形虎口があります。

この奥には郭1があり、ここでは内側の岩盤を直角に掘削して敵がまっすぐ進めないようにするため通行を規制する役割があります。

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最初に見たのがここなので、柵があり小倉城跡では郭内には入れないのかと思いましたが、それはここだけのようです。

この桝形虎口周辺区域では岩盤崩落危険箇所があるため安全柵が設置されているということです。

後ほど触れますが、ここの岩質が結晶片岩なので割れやすいため崩落もしやすくなっているようです。

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↑南にある郭1はもう少し高い土塁の向こうになります。

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2023年3月 5日 (日)

3つの北峰古墳群と合祀されなお残っている北峰稲荷神社と大日如来石像

坂戸市に北峰古墳群があるといいます。

葛川左岸の台地上に存在している古墳群で、周辺の古墳群と合わせて入西古墳群ともいわれています。

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↑Googleマップに表示されていたので来たのですが、北峰12号古墳です。

駐車場の奥のためか古タイヤが置かれているし、言われなければ古墳とは思えません。

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↑裏である南から見るとこんな感じで、高さ11メートルの円墳ということです。

すぐ近くには13号古墳もあるのですが、道路に面しておらずどう行くのか考えてしまいます。

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↑南に回り、北峰稲荷神社から行けるようです。

周辺の神社が明治41年(1908)に合祀され、大正元年(1912)にはここ北峰の稲荷社も入西神社に合祀されました。

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合祀後、戦後の農地改革でほとんどの神社の社有地は無くなりましたが、北峰稲荷神社はこうして残っています。

社殿よりも目立つ北峰集会所がありますから、地域の協力でしょうか。

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このすぐ横に北峰13号墳があります。

22.8メートルの高さがあり、こちらの方が古墳らしさはあります。

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2022年9月 4日 (日)

ねじれまくりの入西のビャクシンと石上神社古墳と成願寺

埼玉県指定の天然記念物にもなっている「入西のビャクシン」を見に行きました。

坂戸市北大塚の石上神社にあり、ここは石上神社古墳でもあります。

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↑前方後円墳だといいますが、東側から見ると石段の上に社殿のあるところが円墳、その右が方墳になっているようにも見えます。

成願寺2号墳ともいい、円墳だという説もあります。

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↑石段を上がりきると、社殿とともにその右にインパクトのある木があります。

入西のビャクシンといい、昭和6年(1931)には埼玉県天然記念物に指定されています。

当時ここは入西村でした。

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幹が右回りにねじれていることから「ねじれっ木」と呼ばれているそうです。

想像以上に見事にねじれています。

ビャクシンは、臨済宗の寺院に多く植えられており、ここ石上神社も近くにある臨済宗成願寺の境内だったようです。

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樹高約12メートル、幹周り約3、5メートル、直径約1メートルと平成25年に坂戸市教育委員会の案内板に書かれていますが、それからも10年近く経っているのでさらに大きくなっているようです。

北側からも石上神社への参道があります。

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前方後円墳の原型を留めていないので、円墳かどちらかわかりません。

北西側からは全体像が見られますが、やはり古墳の形はわかりません。

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2022年3月27日 (日)

坂戸市にある6世紀中頃の雷電塚古墳と周囲の円墳

坂戸市には古墳時代後期である6世紀中頃に造られたと考えられる古墳があります。

雷電塚古墳という前方後円墳です。

東側から見ると、右が後円部で左が前方部です。

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この名称は何のことかと思いましたが、後円部の墳頂に「雷電社」があるので雷電塚と名がつきました。

意外でしたが、坂戸市内では7基もの前方後円墳が確認されており、そのうちの1基です。

前方後円墳というとかなりの有力者の墓というイメージがあります。

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古墳の全長は47メートル、後円部の直径は25、5メートル、高さは3、8メートルあります。

西側の前方部と後円部の一部が削られていますが、前方後円墳の形状がよく残っているといい、埼玉県指定史跡となっています。

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周溝の中からは、円筒埴輪の破片をはじめ、朝顔形埴輪、須恵器などが出土しました。

これらの遺物から古墳を築造した年代は六世紀中頃と考えられたということです。

538年に日本に仏教が伝来した頃のことと思うと歴史を感じます。

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また、雷電塚古墳の周辺を調査した結果、これまでに10基の円墳の周溝が発見されました。

今は墳丘が削られてしまいましたが、雷電塚古墳の周りには多くの円墳が造られていたと考えられています。

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↑先程のものを1号墳といい、2号墳はすぐ南にあります。

径15メートル程の円墳だということですが、はっきりとは形がわかりません。

こちらも墳頂に祠があります。

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2022年3月 7日 (月)

志木市の斜面林にある背戸湧水と市唯一という塚の山古墳

東武東上線柳瀬川駅周辺では、柳瀬川のすぐ近くは志木ニュータウンなどのある平地となっていますが、周囲は河岸段丘としてであろう高低差があります。

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ここは武蔵野台地の外縁部に長い年月をかけて自然に形成された場所であり、志木市内に残る貴重な斜面林ということです。

斜面林という言葉をあまり聞いたことはありませんでしたが、調べてみると結構使われる用語のようです。

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ここには湧水もあるようで、背戸湧水と呼ばれているようです。

以前は飲料水にも使われていたといいますが、当然に現在はダメです。

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↑あまり水は湧き出ているように見えませんでしたが、そこからの水の流れはあるようでした。

湧水のあるところを上の方から見てみましたが、この林だけでなく周辺も含めて浸み込んだ雨水がこの斜面で湧いてくるのでしょう。

斜面の上部からも見てみました。

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土地区画整理事業が行われる際に宅地化することも検討されましたが、貴重な緑を保全しようと残されたとのことです。

志木市による西原ふれあい第三公園となっており、6200平方メートルの広さとなっています。

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幅は30メートル弱で南北に280メートル程の細長い形の公園です。

↑南にある公園入り口も含め、東側は高台になっており、その入口に何やら立派な門構えがあります。

そして、ここには古墳もあるというので見に来ました。

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2022年2月20日 (日)

国宝との碑もある桶川市の4世紀後半に築造された熊野神社神社古墳

桶川市川田谷には埼玉県最古級の時期に位置付けられる古墳があるといいます。

4世紀後半に築造された熊野神社古墳です。

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古墳上には熊野神社があり、別当寺である天長6年(829)慈覚大師により開基されたという天長寺とともに勧請されたと考えられています。

1000年以上も前の平安時代のことですが、古墳から見れば500年も後のことです。

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かつて神社は小さな木の祠で、周囲には杉や欅の大木が多数生え、盛り土の高さも現在の社殿の屋根位までありました。

昭和3年(1928)にこの祠を改築するに当たり盛り土を掘削したところ、粘土槨が発見され、中から勾玉や紡錘車など多数の遺物が出土しました。

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↑社殿の横には国宝出土品之碑があります。

しかし、古墳出土品は国指定重要文化財となっており、国宝指定まではされていません。

昭和25年(1950)施行の文化財保護法で国宝は「重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」とされています。

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では嘘が書かれているのかと言えば、そういうわけでもないようです。

旧法である古社寺保存法、国宝保存法では国宝と有形文化財は区分されてなく、国指定の有形文化財はすべて「国宝」と称されていました。

熊野神社古墳の出土品は、いわば「旧国宝」ということになります。

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2021年12月19日 (日)

武蔵国分寺創建期の瓦が焼かれていた40キロも離れた鳩山窯跡群の登り窯

前回、街の幸福度ランキング1位の鳩山町のことを書きましたが、その鳩山町には南比企窯跡群と呼ばれる東日本最大級の窯跡群があります。

鳩山町を中心に嵐山町、ときがわ町、東松山市に広がり、6世紀初頭から10世紀前半頃まで、須恵器や瓦を製造していました。

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鳩山町の農村公園南側の辺りでは7世紀後半から8世紀中頃にかけて大量の瓦が焼かれました。

天平13年(741)の聖武天皇による国分寺建立の詔により各国に建てられた国分寺ですが、武蔵国のものは東京都国分寺市にありました。

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↑ここには埼玉県指定史跡の「石田国分寺瓦窯跡」があります。

遥か40キロメートルも離れていますが、ここで焼かれた瓦が使われたといいます。

当時は運搬だって大変だったでしょうから不思議です。

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焼き物作りには大量の粘土と水、燃料となる薪が必要だそうです。

鳩山町周辺では良質の粘土が採れ、丘陵には豊かな森と窯をつくるのに適したなだらかな斜面があったからということです。

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発掘調査によると3〜5基の瓦窯跡が並んでありました。

武蔵国国分寺創建期の屋根瓦を焼いた最大規模の窯跡で8割は鳩山窯跡群産だということです。

やはり、なぜこの距離なのにいうモヤモヤは解消しませんが。

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↑さらに数十メートル北には「石田1号窯跡」があります。

須恵器と瓦を焼いていた7世紀後半の瓦陶兼業窯跡で、鳩山町では最古のものです。

窯跡だといっても、どんなものかイメージが湧いてこなかったのですが、ここの案内板の写真でようやく少しわかりました。

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2021年8月29日 (日)

十社神社にある大類古墳群と鎌倉街道沿いの川角古墳群

苦林古戦場跡にある苦林古墳を見ましたが、そこから数百メートルほどのところに十社神社があります。

10箇所の神社を集めたところかとも思いましたが、これまで行ったところは七所神社のように「所」が付いていました。

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ここは「社」です。

調べてみると、苦林古戦場が関係しているようで、足利基氏方で戦死した武将、金井新左衛門ほか9名で合わせて10名の英霊を祀ったと言うことです。

古くは十首明神と称されたそうです。

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↑本殿のすぐ後ろには少し高くなったところがあります。

先程まで前方後円墳を見ていたので古墳に見えます。

やはり円墳のようで、大類古墳群の円墳が数多くあるようです。

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境内を見ると確かにいくつもの円墳らしきところがあります。

大類古墳群は6世紀後半から7世紀前半の42基もの古墳があるといいますが、このような小さめな古墳が多いようです。

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だからこそ独立した個別の古墳名でなく、古墳群と呼ぼれているのでしょうが。

ただし、合戦の戦死者のお墓という言い伝えもあるようです。

毛呂山町にはここから1キロ弱のところに歴史民俗資料館があります。

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毛呂山は市ではなく町なのですが、想像していたよりも立派なものでした。

↑案内図を見ると、この周囲には古墳群があるようですし、鎌倉街道も通っていたようです。

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