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遺跡・古墳

2026年1月25日 (日)

月の岬といわれ華頂宮邸があり4000年前の遺跡もある三田台

前回見て来た亀塚公園は海側からは20メートルほど高い位置なので、東側には長い階段があります。

江戸時代までは下った先の東海道際が海だった訳ですから、眺望が開けていました。

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かつては観月の名所として知られ「月の岬」といわれていたところです。

亀塚公園の西側の塀は公園らしからぬもので違和感があります。

港区立公園なのですが国有地を借りていると表示されてもいます。

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ここは華頂宮邸があったところなのでそうです。

華頂宮家とは、明治維新期に四つあった皇室宮家の一つである伏見宮家の伏見宮邦家親王第十二王子、華頂宮博経親王により創設されたものです。

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↑東へ下りた先には旧東海道、今は国道15号沿いに御田八幡神社があります。

高輪崖線斜面に向けての石段があります。

平安時代に指定された延喜式式内社のうち武蔵国荏原郡では二社が載っています。

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式内社は平安時代の延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳に記載された神社です。

これも1100年前のものです。

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荏原郡は、現在の品川区、目黒区、大田区辺りですが、江戸時代より前は港区や中央区も含まれていました。

御田八幡神社はその一社である稗田(草冠に稗、ヒエダ)の論社となっています。

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↑再び階段を上り高台に戻ると、亀塚公園とは住宅を挟んで三田台公園があります。

ここも華頂宮邸敷地だったところですが、港区立公園になっていますが区内で唯一の遺跡公園です。

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上の写真で後ろにあるNTTデータ三田ビルでは4000年前の伊皿子貝塚が発掘されました。

↑その貝層断面が剥離保存されています。

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↑縄文時代の復元住居もあります。

これも伊皿子貝塚遺跡で発掘されたものです。

江戸時代に徳川家康によって整備されるまでは江戸は荒地だったとはいわれますが、1100年前、4000年前にもこうしてここでの人々の営みはあったことがわかります。

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↑これらの西を通る聖坂は、田町から高輪に入ると二本榎通りとなり、さらに南西には旧高松宮邸、高松皇族邸あります。

ここは仙洞御所として令和2年から4年まで上皇上皇后の御仮寓所となっていました。

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↑さらに西は国道1号の通る白金高輪駅のところが谷で低くなっているのに、白金台に向けて再び高くなるという地形です。

現在は東京都職員白金住宅が解体されて見通しがいいですが、ここに都立新国際高等学校が建設されるということです。

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2026年1月18日 (日)

高輪崖線ともいえる高低差にある古墳時代、平安時代、江戸時代の遺跡

高輪ゲートシティ開発の際、明治時代の鉄道敷設のための高輪築堤が見つかって大きく報道されました。

当時は海だったところに線路を敷いたということで、あそこは陸地ではなかったのです。

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↑国道15号にある高輪大木戸が江戸時代の東海道では海岸沿いだったということですから、この国道沿いの住友不動産東京三田ガーデンタワーとサウスタワー間の公共空地も100年前は海沿いだったはずです。

この奥の丘上には、都指定旧跡の元和キリシタン遺跡があります。

また、智福寺跡とも石柱には記されています。

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400年前の江戸三代将軍・徳川家光の時、元和9年(1623)に50人のキリシタンを処刑したところで、跡地は後に海見山智福寺となっていました。

その智福寺は、高い崖下という立地のために明治時代、大正時代の崖崩れもあったことから、昭和41年(1966)練馬区上石神井に移転しています。

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↑三田台とは高輪崖線ともいえる20メートルほどの高低差があり、今では通路にはエレベーターが設置されています。

この崖上では、1000年前の平安時代の寛仁4年(1020)には更級日記においての記載があります。

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菅原孝標の女(娘)が書いたもので、父と上総国府(千葉県市原市)から京都に戻る時、竹芝寺に泊まった際の話があります。

↑高くなったところを南北に通る聖坂に面してある、この済海寺が竹芝寺ではないかとされています。

今風な建物で境内には「最初のフランス公使宿館跡」との都指定旧跡があります。

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日記には、武蔵野の情景が想定とは違う、黒っぽい砂泥の浜辺と蘆や荻の生い茂る原野が続くと綴られています。

江戸時代に徳川家康が幕府を開くまで、江戸は日比谷入江があり、そんなところだったともいいます。

済海寺前の聖坂は古代東海道ともいえる幹線道でした。

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↑すぐ南には亀塚公園があります。

ここにある亀塚という古墳と考えられる人造の塚があり、台地側である西から見ています。

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発掘調査で埋葬施設や周溝は確認されませんでしたが、埋葬施設の可能性のある土杭の存在や盛り土の築造方法が古墳と共通性があることからその可能性は高いようです。

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↑その頂部には「亀山碑」という石碑があります。

江戸時代の寛延3年(1750)、上野国沼田藩主・土岐頼熈によって建てられました。

更級日記にある物語の竹芝寺は三田済海寺がその跡地に当たると、この亀山碑に刻まれています。

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ですが、済海寺がそうであるとは限らないという説もあり、竹芝寺の明確な位置は分かってはいません。

逆の東側ですが、亀塚は高さ4、4メートル、径35メートルで方形ですが後世の削平、改変もあるため古墳の形はわかっていません。

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古墳は本当に古い時代の話だし、更級日記も1000年も前のもので、しかも作者が52歳の時に13歳の時の記憶を書いているのですから、あまり正確性を求めても仕方がないでしょう。

この周辺には様々な歴史的遺跡があるのでもう少し見て回ります。

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2025年12月14日 (日)

1400年前の浅羽野古墳にある土屋神社の1000年前の大スギと浅羽ビオトープ

東武東上線坂戸駅から徒歩20分ほどの住宅街に土屋神社はあります。

ここには古墳があり大スギがあり万葉歌碑もあるというので来ました。

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一ノ鳥居から短いながら杉並木となっており、ニノ鳥居の奥に社殿がありました。

その後ろに大杉はあるようです。

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今から1400年前の、古墳時代終わり頃である7世紀後半に造られた円墳の上に、土屋神社の社殿があるということです。

7世紀後半はもう古墳はないイメージでしたが、ここでは築造されていたようです。

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↑本殿は拝殿よりも一段高いところにあります。

本殿の下に横穴式石室があったことから土屋と名付けられたようです。

古墳は浅羽野1号墳と名付けられています。

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その後ろに神木スギが立っています。樹齢が千年を超えると言われています。

1000年前というと平安時代の「光る君へ」の頃です。

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神木スギは、高さ18メートル、幹まわり8、5メートル、根回り11、3メートルあります。

まさに巨木と言えます。

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枯れているようにも見えましたが、先の方に葉が付いている部分もありました。

枯れ枝の伐採を行なったり、樹勢回復のために根元の土壌を栄養のある土に替えたりしているそうです。

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↑裏側から少し離れて見ると、やはり小高い丘の上で円墳の上だというのがわかります。

また、ここには万葉歌碑が立っています。

奈良時代末期には編纂されていた万葉集に浅羽野と歌われているとのことです。

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「くれなゐの浅葉の野らに刈る草(かや)の 束の間も吾を忘らすな」

この歌は、「浅羽野の草は刈り取られてしまうが、その束の間も私を忘れないで」ということだと書かれています。

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↑西の高麗川沿いには浅羽ビオトープがありました。

万葉歌碑の説明板によると、「浅羽野」の地名は、万葉集に歌われているよう古く、平安時代の辞書である「和名抄」にも入間郡「麻羽」の名が記されています。

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ビオトープ内は季節のせいか、水が流れているかのところにも水流はありませんでした。

それが自然そのものなのでしょう。

「をかし」をしみじみと感じる風景でした。

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2024年2月 4日 (日)

はにわの丘はちょっと微妙なところだけど桜山窯跡群はすごいところ

いつものように地図を眺めていたら、はにわの丘というところが東松山市にありました。

関越自動車道の東松山サービスエリアの少し北東になります。

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↑「ひきのみち」と名付けられた歩行者自転車用道路の弁天山橋から、南の練馬方面を見たものです。

ひきのみちを東に進むと、「はにわの丘」があります。

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古墳時代後期である1450年前の須恵器や埴輪の窯の跡が見つかっています。

平成14年(2002)の東松山市教育委員会による説明板ですから、552年頃ということになります。

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日本に仏教が伝来したのが538年とか552年とか言われますから、その頃のものかと思うとやっぱり悠久の昔です。

昭和55年(1980)に行われた発掘調査で、ここに須恵器の窯跡2基があったということです。

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土器の中で、須恵器というものがよくわかっていませんでしたが、青灰色の1200度ほどの高い温度で焼かれた焼き物だということです。

それまでの縄文土器や弥生土器、土師器のように野焼きで作れるものではないところが大きな違いです。

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↑斜面に沿って舟底型に長さ7メートル、深さ1メートルほどに穴を掘り、その上に天井を付ける登り窯です。

低い方に焚き口、高い方に煙道があり、高温にできるため硬く引き締まった土器ができるようになりました。

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2023年9月24日 (日)

7世紀の三輪白坂横穴群と三輪という地名の由来にもなっている椙山神社

前回、予想を上回る素晴らしさの町田市の三輪城跡を見てまわりましたが、そのすぐ横の坂道には遺跡がありました。

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三輪白坂横穴群で町田市指定史跡になっています

崖面に横穴を掘った古墳時代における有力者のお墓です。

この崖が凝灰岩のような白っぽい岩石なので白坂なのか、城坂から来ているのかどちらかなのでしょう。

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三輪白坂横穴群は二つの群13基あり、この第一支群は6基あります。

鶴見川のすぐ近くですが、三輪城を築こうとするくらいですから高低差のある地形です。坂道の途中の斜面で標高50メートルほどのところに位置します。

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内部には川原石が敷詰められて、遺骨とともに刀子や須恵器が発見され7世紀に造られたと想定されます。

見学できるのはこの2基だけです。

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↑この東の鶴見川に沿った崖には第二支群の7基があり標高35メートル付近に位置します。

この鶴見川すぐ下流沿いの三輪小学校があります。

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開校前の発掘調査では、町田市内では珍らしい弥生時代後期の住居址二軒土器二個を組み合わせた墓などが発見されました。

斜面に立地しているため、高い位置の裏門側に案内板だけがありました。

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2023年4月23日 (日)

蛇行する槻川に囲まれた天然の要害である小倉城跡

ときがわ町にある小倉城跡は平成20年に国指定史跡となっています。

嵐山町の菅谷館跡、杉山城、吉見町の松山城跡とともに比企城館跡群として指定されました。

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↑城山と呼ばれる山の山頂から中腹にある戦国時代の山城で、攻守一体で様々な工夫が凝らされたもので削平地を連ねています。

車で行けば、大福寺前に駐車場もあります。

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↑そこにあったコースマップで見ると、上の方から右下に向かい流れている川と下にあるのは同じ川です。

この槻川は、右端欄外のすぐ先でヘアピンカーブして、今度は下では右から左に流れています。

つまり、小倉城のある城山は三方を槻川に囲まれていることになります。

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↑大福寺裏手にも登山道はあるのですが、それは戦国時代にはなかった道だというので、マップでの右、つまり北へ向かいます。

6分程歩いたところに山への入り口がありました。

小倉城の城主は、江戸時代の新編武蔵風土記稿では、戦国時代の小田原北条氏の重臣遠山氏を、武蔵志では遠山氏あるいは上田氏と伝えています。

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↑急坂を東から北へしばらく登ると尾根道になり、それを南に進むと桝形虎口があります。

この奥には郭1があり、ここでは内側の岩盤を直角に掘削して敵がまっすぐ進めないようにするため通行を規制する役割があります。

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最初に見たのがここなので、柵があり小倉城跡では郭内には入れないのかと思いましたが、それはここだけのようです。

この桝形虎口周辺区域では岩盤崩落危険箇所があるため安全柵が設置されているということです。

後ほど触れますが、ここの岩質が結晶片岩なので割れやすいため崩落もしやすくなっているようです。

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↑南にある郭1はもう少し高い土塁の向こうになります。

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2023年3月 5日 (日)

3つの北峰古墳群と合祀されなお残っている北峰稲荷神社と大日如来石像

坂戸市に北峰古墳群があるといいます。

葛川左岸の台地上に存在している古墳群で、周辺の古墳群と合わせて入西古墳群ともいわれています。

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↑Googleマップに表示されていたので来たのですが、北峰12号古墳です。

駐車場の奥のためか古タイヤが置かれているし、言われなければ古墳とは思えません。

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↑裏である南から見るとこんな感じで、高さ11メートルの円墳ということです。

すぐ近くには13号古墳もあるのですが、道路に面しておらずどう行くのか考えてしまいます。

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↑南に回り、北峰稲荷神社から行けるようです。

周辺の神社が明治41年(1908)に合祀され、大正元年(1912)にはここ北峰の稲荷社も入西神社に合祀されました。

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合祀後、戦後の農地改革でほとんどの神社の社有地は無くなりましたが、北峰稲荷神社はこうして残っています。

社殿よりも目立つ北峰集会所がありますから、地域の協力でしょうか。

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このすぐ横に北峰13号墳があります。

22.8メートルの高さがあり、こちらの方が古墳らしさはあります。

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2022年9月 4日 (日)

ねじれまくりの入西のビャクシンと石上神社古墳と成願寺

埼玉県指定の天然記念物にもなっている「入西のビャクシン」を見に行きました。

坂戸市北大塚の石上神社にあり、ここは石上神社古墳でもあります。

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↑前方後円墳だといいますが、東側から見ると石段の上に社殿のあるところが円墳、その右が方墳になっているようにも見えます。

成願寺2号墳ともいい、円墳だという説もあります。

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↑石段を上がりきると、社殿とともにその右にインパクトのある木があります。

入西のビャクシンといい、昭和6年(1931)には埼玉県天然記念物に指定されています。

当時ここは入西村でした。

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幹が右回りにねじれていることから「ねじれっ木」と呼ばれているそうです。

想像以上に見事にねじれています。

ビャクシンは、臨済宗の寺院に多く植えられており、ここ石上神社も近くにある臨済宗成願寺の境内だったようです。

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樹高約12メートル、幹周り約3、5メートル、直径約1メートルと平成25年に坂戸市教育委員会の案内板に書かれていますが、それからも10年近く経っているのでさらに大きくなっているようです。

北側からも石上神社への参道があります。

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前方後円墳の原型を留めていないので、円墳かどちらかわかりません。

北西側からは全体像が見られますが、やはり古墳の形はわかりません。

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2022年3月27日 (日)

坂戸市にある6世紀中頃の雷電塚古墳と周囲の円墳

坂戸市には古墳時代後期である6世紀中頃に造られたと考えられる古墳があります。

雷電塚古墳という前方後円墳です。

東側から見ると、右が後円部で左が前方部です。

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この名称は何のことかと思いましたが、後円部の墳頂に「雷電社」があるので雷電塚と名がつきました。

意外でしたが、坂戸市内では7基もの前方後円墳が確認されており、そのうちの1基です。

前方後円墳というとかなりの有力者の墓というイメージがあります。

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古墳の全長は47メートル、後円部の直径は25、5メートル、高さは3、8メートルあります。

西側の前方部と後円部の一部が削られていますが、前方後円墳の形状がよく残っているといい、埼玉県指定史跡となっています。

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周溝の中からは、円筒埴輪の破片をはじめ、朝顔形埴輪、須恵器などが出土しました。

これらの遺物から古墳を築造した年代は六世紀中頃と考えられたということです。

538年に日本に仏教が伝来した頃のことと思うと歴史を感じます。

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また、雷電塚古墳の周辺を調査した結果、これまでに10基の円墳の周溝が発見されました。

今は墳丘が削られてしまいましたが、雷電塚古墳の周りには多くの円墳が造られていたと考えられています。

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↑先程のものを1号墳といい、2号墳はすぐ南にあります。

径15メートル程の円墳だということですが、はっきりとは形がわかりません。

こちらも墳頂に祠があります。

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2022年3月 7日 (月)

志木市の斜面林にある背戸湧水と市唯一という塚の山古墳

東武東上線柳瀬川駅周辺では、柳瀬川のすぐ近くは志木ニュータウンなどのある平地となっていますが、周囲は河岸段丘としてであろう高低差があります。

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ここは武蔵野台地の外縁部に長い年月をかけて自然に形成された場所であり、志木市内に残る貴重な斜面林ということです。

斜面林という言葉をあまり聞いたことはありませんでしたが、調べてみると結構使われる用語のようです。

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ここには湧水もあるようで、背戸湧水と呼ばれているようです。

以前は飲料水にも使われていたといいますが、当然に現在はダメです。

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↑あまり水は湧き出ているように見えませんでしたが、そこからの水の流れはあるようでした。

湧水のあるところを上の方から見てみましたが、この林だけでなく周辺も含めて浸み込んだ雨水がこの斜面で湧いてくるのでしょう。

斜面の上部からも見てみました。

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土地区画整理事業が行われる際に宅地化することも検討されましたが、貴重な緑を保全しようと残されたとのことです。

志木市による西原ふれあい第三公園となっており、6200平方メートルの広さとなっています。

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幅は30メートル弱で南北に280メートル程の細長い形の公園です。

↑南にある公園入り口も含め、東側は高台になっており、その入口に何やら立派な門構えがあります。

そして、ここには古墳もあるというので見に来ました。

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