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51埼玉県

2024年10月13日 (日)

享保の改革の時からある吉田家住宅と埼玉県一乗降客の少ない竹沢駅

東武東上線は池袋駅から寄居駅までの路線ですが、池袋からは遠くても小川町駅行きしかありません。

小川町が終着駅の印象です。

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そんな小川町勝呂には、吉田家住宅という国指定重要文化財があります。

江戸時代の享保6年(1721)に建築された、実年代のわかる埼玉県内で最古の民家です。

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建物の規模は桁行21.8メートル、梁間10.5メートルあります。

茅葺、入母屋造りの大きな民家で、三間広間型と呼ばれるものです。

奥に2間の畳敷きの座敷、手前に広い板間のある江戸時代の典型的なものだそうです。

享保の改革は徳川8代将軍家光の時ですから、本当に時代劇の頃の建物です。

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他でこれまで見てきた文化財の古民家は、閑散としてガランとしているイメージでした。

ここでは飲食店として商売されており、休日のためか子供連れの家族などで賑わっていました。

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↑すぐ裏は山となっている標高150メートル辺りのところです。

すぐ近くには西浦川が流れており、木呂子川と合流して兜川となります。

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その西浦川には砂防ダムらしきものもあります。

大雨の時には結構水量もあるのでしょう。

最寄り駅はJR八高線の竹沢駅になります。

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wikiによると埼玉県内で最も乗降客数の少ない駅ということで、1日30人ほどでした。

ちょっと情報が古かったのでJR東日本ホームページを調べてみましたが、何度見ても竹沢駅が見当たりません。

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↑埼玉県ホームページで謎が解けました。

JR東日本では1日平均の乗車人員を把握できる駅を掲載しているため、無人駅である八高線の各駅は近年載っていないようです。

となると、最少を脱出できたのか、そのままかは不明です。

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2024年9月29日 (日)

西高勾配のため景色では半分不利だけど意外と運動になる龍崖山

飯能市美杉台とともに飯能大河原地区も、ビッグヒルズとして都市機構により開発されました。

137.7ヘクタールの敷地で土地区画整理事業が行われました。

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ここには龍崖山公園があります。

↑公園傍らには龍崖山がありますし、整備された調整池は地下に整備されて緑地保全も図られています。

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龍崖山にはハイキングコースがあり、案内板も充実しています。

公園東側入り口では標高150メートルほどです。

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↑公園から山に入ると、当然ながら急坂となります。

思っていた以上の山道を進んでいきます。

せっかく登ったというのにまた道を下っていき、谷状の土地となり水の流れがあったりもします。

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↑橋であるとともに堰堤にもなっているように見られます。

途中には、燧山(ひうちやま)山頂があります。

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標高234メートルと書かれています。

ここは西に向けて展望が開けているのですが、ちょっと残念なことに工場の屋根が大きく見えています。

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アップダウンがあったものの80メートル以上の標高を登ったはずなのにそう感じられない風景です。

この辺りでは西に向けて勾配がどんどん高くなる地形なので、調べてみると工場のある辺りの標高は203メートルもあるようです。

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↑ここが一つの山の頂上ということで、予想通りまた下り坂です。

しかも鎖が付いた急な坂で、結構いい運動になります。

そしてようやく再び眺望の開けたところに着きました。

見晴台テラスとなっています。

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2024年9月22日 (日)

無形民俗文化財まんぐりの川越市にある八咫神社と寺山堰

川越市上寺山に八咫神社があります。

川越市街地の北西方面で川越北環状線と入間川の間に位置します。

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八咫というと、JFA日本サッカー協会のマークでもお馴染みの八咫烏が祭神なのかと思いましたが、そうではないそうです。

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江戸時代の新編武蔵国風土記稿には八口社と載っており、大正時代初めの入間川堤防工事前には、もう少し北西の小字八ツ口にあったといいます。

八ツ口は、出雲神話で素盞嗚命が退治した頭尾八つに分かれた八岐大蛇からきているようです。

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出雲の簸川を大蛇に見立てたように、毎年氾濫する入間川を治めるために神を祀ったものです。

また、神社の杜に鳥か多く棲んでいたことからこれを八咫烏と考え、社名に八咫をつけたというのもあるようです。

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↑覆殿の隙間から本殿も見ることができました。

まんぐりは、大山信仰を基とした夏祈祷の行事です。

ちょっとエッチな響きですが、そんなことはありません。

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2024年9月 1日 (日)

古くからの盛衰のあった岩殿観音への長い参道と比企能員の判官塚

東松山市にある岩殿観音には3年前にも来ており、その正法寺や岩壁を見てきました

あの時に境内石段の上から見た、こちらに向かい真っ直ぐ進む参道、あそこを通ってみたくて来てみました。

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今回も、東からは埼玉県道212号岩殿観音南戸守線、西へは県道343号岩殿岩井線沿いにある駐車場からです。

つまり、標高では120メートル辺りの県道から凝灰岩の岩壁の高さに相当する階段を下ってきました。

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↑この観音堂などのあるところで標高100メートルです。

前回は涼しい秋の日なのに行くのを躊躇した石段の昇り降りを、この猛暑日にするとは不思議なものです。

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↑まずは石段を下り、700メートル先の参道の入り口まで行きました。

惣門橋という橋が九十九川に架かっており、その名の看板もありました。

この交差点のところには「岩殿観音参道絵図」というのがあります。

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参道には五十戸が門前町を形成しそれぞれに屋号があったと書かれています。

建物は建て替えられて昔ながらの街並みは残っていませんが、屋号の看板が各戸に付けられています。

参道を歩いていくと途中左手に判官塚入り口と書かれています。

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比企大神ともいいますから坂を登って行ってみました。

比企能員を追福するために造られたもので、比企能員の官職である判官(右衛門尉)から「判官塚」と呼ばれているそうです。

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判官贔屓という時の判官です。

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2024年8月 4日 (日)

青梅インター近くの入間市にある無料のパターゴルフ場

JR八高線金子駅周辺の道路に、桂の里公園という案内標識がありました。

どんな公園かとちょっと行ってきました。

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↑想像していたものとは違い、駐車場と管理事務所らしき建物もあります。

案内図をみると、メインはパターゴルフ場となっているようです。

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だったら、そもそも公園ではないんじゃないか、パターゴルフ場と表示しろよなと思ったりもしました。

ただ、休日にも関わらずパターをしている人は誰一人いません。

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入間市とはいってもすぐ近くは圏央道青梅インターがありますから、車では便利なところです。

勝手に敷地に入ってきて、料金も払わずにプレーできるような雰囲気です。

入間市の施設のようですが、実は本当に無料なのです。

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↑建物入り口から入ると、左に貸出用のパターが何本も置いてあります。

また、プレー後に休憩もできる和室が二室ありました。

手書きの予定表がありましたが、日に2組くらいは利用しているみたいでした。

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2024年7月28日 (日)

入間市の豊泉寺にある庭園とそれを造った茶藤翁

入間市の加治丘陵の東南端あたりに豊泉寺があります。

曹洞宗の寺院で、創建は戦国時代の天文元年(1533)と伝えられます。

開基は小田原北条氏の家臣で金子領主の豊泉左近将監です。

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松龍山豊泉寺といい、境内裏一帯が樹齢数百年の古松で龍のような形をしているため、その名を松龍山と唱え、寺名を豊泉寺と称したと伝えられています。

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ここには庭園があるということで来てみました。

本堂の裏側に造られた禅宗式庭園で、明治時代に地元根岸の庭師水村藤四郎によって造られたものです。

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水村藤四郎は当初から庭師であったわけではないようです。

父の茶業を継ぎ、茶の製法研究と品質向上に努め、根通り茶独特の「ちらしより」いう技術を開発しました。

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後年造園業に転じ、東京に出て多くの造園に携わり、帰郷後も作庭にあたったということです。

茶業と造園業という別々の道で実績を残すという見習いたい人です。

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2024年7月21日 (日)

かなりいい街だけど、さらに上を目指す60万都市の川口市

東京から東北方面に電車で向かうと、赤羽駅を越えると荒川を渡り、埼玉県に入り川口市となります。

川口駅はJR京浜東北線しか停まらない駅だとはいえ、隣りの赤羽で乗り換えれば池袋もすぐの便利なところです。

そんな川口駅東口目の前には川口市中央図書館があります。

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キュポ・ラという商業施設と公共施設の入ったビルの5階と6階が図書館となっています。

夜8時まで開館してますし、座席も結構ありましたから、川口駅利用者にとっては会社帰りなどに気軽に利用できて羨ましいものです。

図書館内は撮影禁止でしたが、入り口手前はガラス張りで外を眺望できます。

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この北は、キュポ・ラ広場とバス乗り場のある駅前広場があり、ペデストリアンデッキで駅と周囲のビルが結ばれています。

↑右に川口キャスティ、左は旧川口そごうの建物です。

キュポ・ラ、キャスティ、そごうは3つとも市街地再開発事業により建設されたものです。

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↑駅西口も見渡せますが、同様に市街地再開発事業により整備されています。

大正9年(1920)から川口駅前にあった国の公害資源研究所が筑波研究学園都市に移転することから、まず昭和58年(1983)に川口駅周辺市街地整備構想が策定されました。

そこで、駅東口は商業・業務ゾーン、西口は公共公益文化ゾーンとされました。

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↑西口駅前には川口総合文化センター・リリアと駅前広場が、川口市により整備されました。

このリリアは、平成2年の開館から既に30年以上経っているため、令和6年3月より大規模改修のため閉館されています。

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2024年6月16日 (日)

昭和、明治に次ぐ長期の応永年間からの鰐口もある南畑八幡神社

埼玉県富士見市にある南畑八幡神社に行ってみました。

南畑は富士見市東部の荒川と新河岸川に挟まれた水田の広がる地区になります。

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応永7年(1400)に、足利満兼がこの地を鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進して社領となり、分祀奉斎した時の八幡社だといいます。

足利満兼とは知っていそうで知らない名前ですが、第3代関東公方でした。

室町幕府の足利将軍ではなく、むしろ当時の関東公方と京都の将軍家とは緊張関係にありました。

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ここには八幡社に奉納された鰐口があり、同じく応永年間の銘文の刻まれており、富士見市指定有形文化財となっています。

鰐口(ワニグチ)とは、神社仏閣の堂前にある参詣者が綱で打ち鳴らす大きな鈴のことです。

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応永年間は1397〜1432年までの35年間に及ぶ長さです。

明治時代からの一世一元の制より前までは、元号は期間の短いものが多く、それまでで最長となります。

つまり、昭和と明治に続いて歴代3番目の長さということになります。

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すぐ近くには8年前に見てまわった難波田城跡があります

南畑八幡神社は、天文年間(1532〜55)には難波田城主の難波田弾正が篤く崇敬したといいます。

先程の鰐口にも難波田弾正によって再奉納されたという銘文も刻まれています。

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明治時代には下南畑村の村社となっています。

↑本殿は昭和16年(1941)に川越中学(現高校)内に建てられた奉安殿を移築したものです。

奉安殿は室岡惣七が設計したもので、入間市の旧石川組製紙西洋館や川島町の遠山家住宅を設計した建築家です。

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↑境内社が多くあり、右から稲荷社、八雲社、御嶽社、琴平社、庚申社、天神社と並びます。

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↑境内には多くの立派な木々がありますが、盆栽のような松の木もありました。

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2024年6月 2日 (日)

金子十郎家忠に関わる入間市木蓮寺の瑞泉院と桂川神社

JR八高線金子駅近くの入間市木蓮寺には、地図でみる限り木蓮寺という寺院は見当たりません。

木々の中にあり、寺社のどちらであろうと立ち寄ると、桂川神社がありました。

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上州の赤城神社を勧請したもので、金子氏館の鬼門徐けとして金子十郎家忠によって建立されたといいます。

平安時代終わりから鎌倉時代初期の頃のことです。

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近くにはJR八高線の金子駅がありますが、金子氏とは武蔵七党の一つである村山党に属していた武士です。

村山頼家の三男家範が、ここ入間郡金子郷を本貫地とし、金子氏を称したことが始まりだといいます。

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家範の子である十郎家忠(1138〜1216)は、源義朝に従い、保元・平治の乱に参陣しました。

その後も衣笠城攻や源平合戦にも参陣しました。

↑桂川神社の裏側は斜面で高くなっていますが、数多くの墓石の並ぶ大規模な墓地となっているようです。

行ってみると、入間霊園とともに、看板には公益財団法人瑞泉院メモリアルアカデミーと書かれています。

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↑石柱には金龍山木蓮寺瑞泉禅院とありますが、瑞泉院は既に廃寺となっているようです。

「入間市指定文化財 金子十郎家忠一族宝篋印塔入口」との看板がひときわ目立ちます。

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2024年5月26日 (日)

万葉集東歌に歌われていた越生町大谷の大谷ヶ原萬葉公園

埼玉県越生町の北部にある鹿下越生神社や学頭沼から東の方角にも、やはり大きなため池があります。

といっても、その間には一山あるので南から大きく迂回した先になります。

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堤体の上は自動車は通れなさそうですが、その手前には数台は駐車できそうなスペースがあり、いくつもの案内板や石碑が並んであります。

ため池は大亀沼といい、ここは「大谷ヶ原萬葉公園」となっているようです。

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左から2番目の越生町教育委員会等による公園の説明板によると、万葉集の東歌の一つに歌われているのがこの地だということです。

万葉集といえば、奈良時代の終わり頃にできたという日本で最も古い歌集です。

その中でも東歌は、当時は西日本中心の日本史にあって、珍しく東国のことが対象となっておりこちらに住んでいることから興味深いです。

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右から2番目の石碑は歌碑となっており、その歌が「入間道の 大谷が原のいわいづら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね」と刻まれています。

「大谷が原」が、ここ越生町大谷の大亀沼周辺であるとされています。

この大谷ヶ原歌碑は越生町立図書館前にあったものを令和3年に大亀沼脇へ移設してきたそうです。

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説明板にはここが万葉集に歌われた「大谷ヶ原」だという根拠がいくつか載っています。

室町時代の史料には、大谷に水田があったことを示す記述があり、古くから水田を潤す灌漑用の沼が利用されてきたものと思われています。

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文政7年(1824)刊行の『武蔵名所考』に「大亀の沼とて五反ばかりの池あり、・・・萬葉にイワヰツラをよみたるは此池より生ぜる藺(いぐさ)なるべし」とあります。

明治初年に編纂された『武蔵国郡村誌』には「於保屋我波良 俗に大谷ケ原と云う」と記されています。

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