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06東大和市

2022年10月 2日 (日)

多摩湖沿いにあり意外と高低差もあるが木道で歩きやすい狭山緑地

多摩湖や狭山湖は貯水池であるため、築堤のところ以外は多摩湖自転車より敷地内には入ることが出来ません。

湖の南側の道路沿いにある鬱蒼とした林も入れないと思っている人も多いことでしょう。

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↑しかし、東大和市狭山緑地として入れるところがあります。

多摩湖の上池と下池の間の堰堤上の道路を跨ぐ自転車道橋の東詰辺りに入り口があります。

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↑その西口から入って南へ割とすぐに休憩広場(展望広場)があり、南方に向けて遠くが見渡せます。

建替えが進み高層化されてきた都営住宅の村山アパートが見えます。

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↑緑地内は狭山丘陵で結構アップダウンがあります。

厳島神社への標識があったので行ってみると、2年前に麓の方から行ったことのあるところでした。

こちらにこうして繋がっているとは、あの時は知りませんでした。

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歩きやすいように木道が設置されています。

↑谷戸が切り込んでくる地形なので、下ったと思うとすぐにまた上がっていくようになっています。

敷地内の標高は100メートルから140メートルといいますから、結構な高低差があります。

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↑また一旦下り、谷戸深くに住宅があり道路が切り込んでくるところを越えると、再び登り坂で木道が整備されています。

緑地内にもいくつかの通路がありますが、行き先標識があるのでわかりやすくなっています。

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2020年12月27日 (日)

東大和市前身の高木村外五ヶ村の役場があった高木神社と塩釜神社

東大和市内の青梅街道を走る西武バスに「塩釜神社前」というバス停があります。

また、道路沿いには「安産の守神 塩釜神社」という大きな看板もあります。

矢印の方向に行き、公園とともに神社のあるところを見ると、ちょっと想定とは違っています。

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↑「高木神社」と書かれておりその社務所があります。

まず、ここで目を引いたのは「東大和市旧跡 高木村外五ヶ村連合戸長役場跡」という説明表示板です。

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東大和市は、明治時代初期には高木、清水、狭山、奈良橋、蔵敷、芋窪の六ヶ村に分かれていました。

その村ごとに戸長が選出されていましたが、明治17年(1884)に町村制度の大改正が行われ、500戸を基準として連合した地域に、一人の官選の戸長をおくことになりました。

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六ヶ村を一区域として、戸長がここにあった戸長役場で事務を執ったというものです。

ほぼ現在の東大和市域の原型が作られたというもので、東大和市旧跡に指定されています。

↑建物はありませんが、書類入れだった土蔵だけは残っています。

そして、塩釜神社があります。

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大正15年(1926)建立の「国幣中社塩竈神社分社」という碑が立っています。

宮城県塩釜市にある塩釜神社から分祀してもらった個人の土地の屋敷神だったものを、明治10年(1877)にここに勧請したといいます。

ここは予想外に、高木神社の末社という位置付けのようで、その高木神社との位置関係はこんな感じです。

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↑右側にあるのが、先程見た塩釜神社の鳥居と社殿です。

さらに大きな鳥居と社殿が左側にある高木神社を見てみます。

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2020年5月24日 (日)

都内に2箇所しか残っていない蔵敷高札場と2つの本殿があるような厳島神社

江戸時代に禁制や法令を伝えるための板札である高札を掲げたところを高札場といいます。
当時はそこらじゅうにありましたが、現在は都内に二箇所しか残っていません。
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↑その一つが蔵敷高札場で、東京都旧跡に指定されています。
慶長8年(1603)の年貢に関する高札が最初に掲示されたものといいますが、この年は徳川家康が江戸幕府を開幕した年ですから驚きです。
青梅街道沿いにありますが、蔵敷のバス停の待合所のようなイメージで、これまで気付きませんでした。
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高札場とはもっと大きな高いものだと思い込んでいましたが、この蔵敷のものは比較的小さめです。
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蔵敷高札場の近くの青梅街道沿いに厳島神社という看板があり、こちらも気になっていました。
↑狭山丘陵に登っていくところに蔵敷厳島神社の鳥居があります。
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↑鳥居をくぐると、参道の石段です。
以前は弁天社といわれ、創建は永禄12年(1569)または天正6年(1588)とされています。
前回見た蔵敷熊野神社と同様に、内野家と小嶋家文書で若干の違いがあるようです。
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石段を登り切ると社殿があります。
こちらが本殿のようですが、両脇にはなぜか階段があります。

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2020年5月17日 (日)

数少ない聖徳太子信仰の太子堂のあるクラシキではないゾウシキと蔵敷熊野神社からの眺望

かつては、一万円札にも五千円札にも肖像画が描かれていた聖徳太子はとてつもない偉人であり、しかも超人であるように習ってきました。
しかし、今ではあの絵のモデルはそもそも本人か不明として、「伝聖徳太子画像」とされています。
実在しなかったかもしれないともいわれ、少なくとも厩戸皇子、厩戸王と書かれています。
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↑以前はヒーローですから、ここには江戸時代に聖徳太子を信仰する太子堂があり、「蔵敷太子堂」として東大和市史跡に指定されています。
多摩郡山口領では太子堂はここだけにしかないそうです。
山口領とは、現在の東大和市、武蔵村山市、東村山市一帯と一部の周辺市の範囲です。
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この裏は狭山丘陵になっており、上には神社らしきものが見えますから行ってみました。
蔵敷は、クラシキと読むものと思い込んでいましたが、ゾウシキだそうです。
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そこには、蔵敷熊野神社があります。
丘陵の斜面に建てられており、急な石段の上にあります。
鳥居後ろの石碑には、武蔵国多摩郡蔵敷村、村社熊野宮と書かれています。
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明治15年に鳥居、石階、石橋が造られたと刻まれているようです。
↑参道左には、もう一つ別の参道もあるようです。
まずは、右側の石段を登ります。

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2019年11月17日 (日)

縄文時代の八幡谷戸の高台に立つ奈良橋八幡神社と幼稚園と東大和市を一望できる眺め

鎌倉時代に発達した鎌倉街道上道が東村山市を南北に貫いていますが、その支道が東大和市にあるといいます。

伝鎌倉街道ということで、奈良橋辺りを南北に通っており、市立郷土博物館前の道になります。

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↑八幡通りと名付けられており、その名の通り、八幡神社があります。

地名から奈良橋八幡神社といわれているようです。

道路も多摩湖のある狭山丘陵に向けて登り坂になっていますが、神社に向けての階段も急傾斜です。

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↑階段を登り切ったところで、参道を右に向きを変え、一の鳥居があります。

ここからの参道はかなり広くなっているというか、奥から車で入って来られるようで駐車場と道路が一体となったような構造です。

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↑社務所らしき建物の奥には幼稚園があります。

大和八幡幼稚園といいますが、確かになぜか神社に併設されている幼稚園をよく見かけます。

広い土地があるからなのでしょうか。

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↑手水舎やニノ鳥居の手前に、可愛らしい幼稚園の入り口があるという不思議な光景です。

この駐車場横の林の中には、八幡谷戸遺跡の説明板がありました。

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縄文時代中期の土器や石器、竪穴住居跡が良好な状態で保存されていたとあります。

こうした所によくある復元住居やその穴などの展示物はありませんでした。

先程の道路拡幅工事に先立つ切通し斜面部の発掘調査では大量の遺物が見つかったと書かれていましたから、ちょっと残念です。

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2018年6月 3日 (日)

東大和市にある都内最古で唯一の室町時代に建立された豊鹿島神社は都指定文化財

建築物の東京都指定文化財というと、大抵はどこかでは聞いたことのあるような有名なものが多くあります。

一覧を見ていて、私が失礼ながらよく知らなかった神社が東大和市にありました。

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↑旧青梅街道の芋窪の辺りから北に向かって行くと、その神社の鳥居があります。

右側ののぼりには「鳥居では一礼を」と書かれており、つい忘れがちですがその通りです。

参道を進み階段を上ると豊鹿島神社の社殿があります。

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この神社の本殿は文正元年(1466年)の造営とのことで、都内にある最古かつ唯一の室町時代の神社建築です。

↑前はよく理解していませんでしたが、今はいくつかの神社を巡ったのでわかってきた、こちらは拝殿です。

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↑後ろにあるはずの本殿ですが、大切な文化財といいことで覆殿の中にあるようです。

この覆殿も趣きのある建物です。

ですが、残念なことに本殿は全く見えません。

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隙間から見ることさえ出来なくなっています。

本殿は一間社流造で間口170.7cm、奥行152.4cmだそうです。

社殿の裏側は狭山丘陵の斜面となっており、急坂となっています。

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↑いくつかの境内社があるようです。

豊鹿島社は社伝によれば、文武天皇の慶雲4年(707年)に創建されたといいますから、奈良時代よりも前です。

かつては鹿島大明神でしたが、明治時代以降に「豊」のついた現在の名称になったようです。

境内社の中には、いくつもの鳥居が立っているものもあります。

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2016年11月27日 (日)

東大和市内の空堀川の河道を大きく変える河川改修の様子を4年半前と見較べる

空堀川の河川改修工事は、東大和市内でここ数年間だいぶ進んでいるようですから、その様子を見てまわりました。

清瀬市や東村山市などの下流側ではほとんど改修工事も完了し、両岸の河川管理用通路が自転車歩行者道として開放されていますが、以前にはこの高木橋の辺りから上流側ではまだ工事中で直進できませんでした。

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↑ここで北から奈良橋川が合流するのですが、その合流地点の工事が行われています。

奈良橋川が鋼矢板に囲まれて作られていますが、この合流位置は少しだけ東側にズラされたようです。

↓ここはまだまだ工事中ですが、地図右側のこの合流部より上流(左)ではほとんど工事は完了しています。

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新青梅街道沿いではニトリやコジマなどの商業施設や飲食店が並んでいて、よく渋滞している南高木交差点のすぐ北側の辺りです。

そして、この高木橋の少し上流から、空堀川の流路が大きく変わっています。

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↑左側の南からの細い流れが空堀川だったのですが、右側に新しい広い河川が出来ていて、こちらがメインの流路となっています。

西から東に向かって蛇行しながら流れていた空堀川は、西から東へ真っ直ぐに流れるようになっています。

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↑新河川の上流には護岸や両側の通路が出来ており、この旧河川の南方面への流れがあったはずのところは、すっかり塞がれて残った鋼矢板の間には雑草が生い茂っています。

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4年半ほど前に空堀川の源泉を探す旅をした時、ここを通った時の写真を見ると、当時は空堀川が細い流れでここを北から南(左から右)へ流れていたのがわかります。

↓当時にはこの振り返った背中側には、庚申橋調整池排水機場がありました。

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新河川の予定地内にはいくつかの河道内調整池が作られていました。

河川改修工事は一気には出来ないため、用地取得出来たところから、洪水時の水を貯留する施設を先行して整備していたようです。

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↑現在は旧河川はすっかり塞がれて、河川沿いの自転車道が出来ていますが、ここだけは左岸(北側)の通路は通れなくなっており、この排水機場は現在もあります。

さらに上流方面を見ていきます。

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2016年9月 4日 (日)

復旧工事現場を3回に渡って見に行ってきた西武多摩湖線のかなり早い開通

前回ご報告したように、台風9号の影響で立ち往生していた西武多摩湖線の電車は、約一週間ぶりに牽引されて、現地から搬出されました。

法面崩壊による土砂流入と架線柱の倒壊という大きな被害ですから、復旧まで一ヶ月程度かかると西武鉄道は報道発表していました。

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↑8月28日の電車が動かされる時の様子では、この上り電車の進行方向である武蔵大和駅方面(右側)の架線柱はありますが、左側には架線柱は立ってなく、架線は手前側の下の方に垂れ下がった状態だし、法面もかなり崩壊していました。

それが当初予定よりだいぶ早く、9月6日(火)には開通するということが西武鉄道より報道発表されたので、復旧後の様子を9月3日(土)夕方に再び見に行ってみました。

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↑ブルーシートの位置から見てみると、確かに、左側には新しい架線柱が立てられ、架線も張られていました。

しかし、まだ、線路の上に何やら覆工板かゴムシートかわかりませんが敷かれており、これは西武遊園地駅方面にしばらく続きます。

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↑8月28日の150mほど西武遊園地駅寄りの様子ですが、この部分は線路を剥がして作業をしているのだと思っていました。

ここは唯一、近接している道路から出入りできるところなのです。

↓9月3日に改めてよく見て気付きましたが、こうして小型重機が通れるように線路の上に土嚢を乗せて、さらにその上に覆工板を敷いているようです。

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西武鉄道HPでは9月2日(金)現在では、8月25日レール撤去は既に行われて、レール敷設はまだ行われていないことになっています。

では、線路を新たに敷くとしたら、土曜日にこのような状況で、火曜日の開通に間に合うのでしょうか。

月曜日には試運転もするでしょうから、日曜日にはレールが敷設?され、少なくともこの覆工板が無くなっていなくてはいけないはずです。

ということで、9月4日(日)夕方、またまた見に行きました。

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↑翌日の同じ位置には、見事に線路はきれいに敷かれており、上には何も無くなっていました。

事故から約2週間ぶりに線路が姿を現し、明日は試運転も行われることでしょう。

法面崩壊したところがどのように変化したかも、工事前後での様子を見てみます。

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2016年8月28日 (日)

台風で動けなくなっていた西武多摩湖線の電車を見に行ったら牽引して動きだした

台風9号により各地で被害がありましたが、西武多摩湖線では法面(線路わきの斜面)崩壊による線路への土砂流入で、電車が持ち上げられてしまい動けなくなってしまいました。

そのため、8月22日(月)昼頃から萩山駅から西武遊園地駅間で運休となっており、復旧には1か月程度かかる見込みといいます。

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ニュース、新聞の報道によれば、線路の両側が法面とのことですから、場所は多摩湖沿いの都立狭山公園のすぐ横のはずなので、見に行ってみました。

↑本日8月28日(日)15時過ぎ、電車の進行方向の前面に機関車のような車両が連結されて、作業が行われています。

奥が西武遊園地駅、手前が武蔵大和駅、国分寺駅行きの電車は手前に向かって走っていたところで、左側は狭山公園になります。

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↑ブルーシートで覆われたところが崩壊した法面ですが、すぐ横が住宅地でびっくりしました。

住宅に被害がなく良かったです。

しばらく電車は動けないものかと思っていましたが、短い警笛が鳴って、少し動きました。

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流入した土砂で動けなくなっていたということでしたが、無事土砂を取り除き、動かせたのでしょう。

少し動かしてから、再び復旧作業をするのかと思い、最後尾の方を見に行こうかと歩いていると、再び短い警笛が鳴って、電車がゆっくり動き出します。

普段は公園内でもあまり人のいないエリアですが、今日は家族連れや高級そうなカメラを持った鉄ちゃんらしき人など数多くの人がいます。

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雨上がりで土はツルツルした斜面ですが、走り出す人もいます。

私も、見やすいところに戻ります。

↑武蔵大和駅ホーム近くまで、ゆっくりしたスピードで先頭車両が来ます。

係員の方々が目視で、歩きながら安全を確認しながらの走行ですから、まさに歩くのと同じ速さです。

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↑4両編成の最後部の車両も武蔵大和駅ホームに到着です。

月曜日に立ち往生して、ようやく日曜日に次の駅に到着です。

この後、どこまで行くのか追いかけてみましょうか。

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2015年11月 1日 (日)

柳瀬川の支流である東村山市、東大和市を流れる前川の源泉を探しに行く

2か月ほど前には、都県境の柳瀬川支流の「北川」の源泉をたどって、多摩湖近くの宅部池に行きました。

今回は、同じく柳瀬川支流の「前川」の源泉探しに、久しぶりに自転車で出かけます。

西武新宿線すぐ脇の北川と柳瀬川の合流地点である二瀬橋から数百m上流で、前川と北川は合流しています。

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↑この前は右の「北川」に沿っていきましたが、今回は左の「前川」です。

標高は60mほどです。

この辺りは住宅街であり、また久米川古戦場跡のすぐ近くでもあります。

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↑徳蔵寺橋の向こうに見えるのが、徳蔵寺ですが、国重要文化財に指定されている「元弘の板碑」があるところです。

今回は立ち寄りませんでしたが、徳蔵寺板碑保存館があり、その他にも数多くの板碑が展示されているようです。

川沿いの道も途切れがちで、西武西武園線も川から少し離れた踏切で横断します。

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↑水流に段差があり、周囲は木の生い茂った涼しげな風景です。

やがて、弁天橋という名の不思議な橋があります。

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川の上流は南西方向ですが、この西には弁天池公園があり、その名の通りに小さな池がありますから、この水も前川に流れ込んでいるのでしょうか。

東村山駅の近くを通り、シチズンの東村山総合グランドがある辺りからは、前川に沿って道があります。

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しばらく進むと、高架の西武多摩湖線の武蔵大和駅の近くから、川は道路下に入ってしまいます。

この駅の向こう側は東大和市になります。

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ここでは交差点改良工事が進められており、自動車の流れは少し変更されるようです

工事前は橋の向こうは開渠となっており、水の流れが見えていたはずですが、道路工事とともに暗渠化されてしまいました。

多摩湖自転車道を走っていると、鉄道をトンネルでくぐり、ここらの交差点を渡ると、平坦な道から急に坂道になるところです。

200mほどの暗渠から顔をだした前川は、すっかり水量が少なくなっています。

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どうしてなのでしょうか。

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