伊奈町だけでない川口市にもある伊奈氏の赤山陣屋跡
江戸時代の伊奈氏といえば、関東地方の治水事業や新田開発への大きな貢献者です。
利根川や荒川が乱流して荒廃地となっていたものを今のような形に変えました。
伊奈忠次は関八州代官頭で、現在の1都6県の幕府直轄領約30万石の行政・裁判・年貢徴収を取り仕切り、警察権も統括していました。

伊奈氏屋敷があったところというと、地名にもなっている伊奈町が有名で、伊奈忠次の屋敷跡があります。
↑川口市にも伊奈忠治の赤山陣屋跡があります。

敷地のかなりの部分は民有地で畑などですが、一部市により公園となっています。
↑南東端では南に向けての東堀があります。
↓同じところから直角に西に向けての南堀があります。
伊奈忠治は忠次の子で、同じく関東代官頭、関東郡代になっています。

南堀に沿っては桜が植えられておりキレイに咲いていました。
この南堀より左側は家臣屋敷跡だったそうです。
伊奈忠治は父忠次の利根川東遷事業を引き継ぎ完成させ、さらに荒川西遷も行いました。

↑南堀沿いに赤山城址という石柱があります。
この裏が本丸跡です。

↑さらに南堀沿いに南西端に行くと、北へ向けての西堀があります。
この右側が本丸、左側が二の丸のあったところです。

石柱のあったところに戻り北の方に行ってみました。
↑ここには東西方向への北堀があったところにはベンチが置かれて、さらに奥には行けないように見えます。
すぐ近くには外環道が通っています。

↑最初に載せた案内板によると、北堀の奥に行けそうなので戻ってみました。
北東端で北堀は東堀と繋がっているようです。
さらに奥には行けませんが、ここは堀と土塁があり、当時は6メートルの高低差があったそうです。

↑北東の鬼門を守るため、御陣山稲荷があります。
少し戻り、今度は北堀を西方向に外環道に沿うように進みます。

↑外環道の右手である北側は出丸となっていたそうです。
見ての通り、先の西の方は自然低地となっています。

↑低くなったところから南に向けては西堀です。
先程見た南から北を見た西堀と繋がっています。
左側が本丸、右側が二の丸となります。

↑南西端からさらに西の方を見ると、二の丸の向こうは自然低地となっています。
武士の屋敷、城は江戸時代のものであっても、やはり敵からの攻撃への備えは重視していたようです。

↑最初にいた南東端に戻り東堀よりも東側の山王社のあったところにきました。
ここには小高い丘の上に赤山日枝神社があります。
この築山は空堀掘削の際の土により築かれいるといいます。
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コメント
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赤山陣屋跡が整備されているのは初めて知りました。伊奈町の伊奈氏屋敷跡に行ったことがあるのですが、やはり台地の先端にあり、湿地に囲まれていました。武家の屋敷は敵からの攻撃に備えていたのですね。
利根川東遷、荒川西遷には興味を持っていて、何冊か本も読みました。関東平野における伊奈氏の功績は大きいなと思う次第です。
リンクは伊奈備前守のPR動画です。結構しっかりした出来です。
投稿: ひら | 2025年4月15日 (火) 01時24分
ひらさん、コメント有難うございます。
遅くなってすいません。
利根川東遷、荒川西遷は私も興味があり、今後もいろいろ見ていきたいと思っています。
投稿: すずた | 2025年4月27日 (日) 09時39分