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2025年4月

2025年4月27日 (日)

ゴルフ場だらけで分園ばかりの小山田緑地の都市計画決定の不思議な区分

都立公園の小山田緑地に行ってみました。

平成2年(1990)に開園した4.4ヘクタールのところです。

多摩ニュータウンの小田急多摩線唐木田駅や尾根幹線道路の南方になります。

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↑(小山田緑地パンフレットより)

多摩市か八王子市かと思っていましたが、町田市になります。

南東にある駐車場の方から入ると、まず小山田の谷となっています。

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ここにはいくつかの池があり木道も整備されています。

南西に向け球場や運動広場などを過ぎ、坂を上っていくとみはらし広場があります。

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関東の富士見百景の一つにもなっており、西に向けて眺望が開けています。

縦長の敷地の公園なので、北の方に向かいますが、坂道の横には竹林があります。

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様々な景色の見られる公園で、敷地全体のこの南にあるところは本園となっています。

サービスセンター前の一般道の向こうが梅木窪分園となっています。

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↑案内図によれば、この民家すぐ脇の斜めに上がっていく狭いところが入り口のようです。

半信半疑ながら坂道を進んでいくと間違ってはいなかったようです。

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↑うさぎ谷を跨ぐ吊り橋が架かっています。

ちょっとお袈裟な橋かとも思いますが、山と谷の雰囲気を身近に感じられるいい工夫かもしれません。

東端に行けそうなので歩いていくと、間違ってゴルフ場に入ってしまったかと引き返すというところもありました。

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2025年4月20日 (日)

白銀平展望台と富士山と御師岩のある旧高麗川村だった日高市平沢地区

日高市は以前は日高町で、高麗村と高麗川村が合併してできました。

古くから高麗神社のあった由緒ある地名ではあるものの当時は何かと面倒だったでしょう。

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旧高麗川村であった北平沢に、白銀平とか富士山というのを地図で見かけたので行ってみました。

車だったのですが、近くのゴルフ場に停めるわけにもいかないので、高麗川沿いの市の駐車場から歩きました。

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↑20分ほど歩いて一般道から斜面の砂利交じりの道に入ります。

白銀平展望台までさらに20分ほどかかるようです。

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↑坂の途中に鳥居がありますからこの奥の御師岩に行ってみます。

富士山頂の浅間神社の神域にあり、富士講の行者は山中にある美音の滝で身を浄め、この岩に登りみそぎを行い浅間神社で祈祷をしたといいます。

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↑ここには下浅間社の祠があります。

御師岩の上に立ち、足踏みすると不思議な音色が聞こえるそうです。

ここから直接富士山頂へ行けるようですが、まず少し戻り白銀平に行くこととしました。

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↑途中には、白銀観音がありました。

ゴルフ場建設のため麓からここに移されたそうですが、紀年銘は天和2年(1682)とあります。

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↑やがて、白銀平との表示板があり、埼玉の自然百選とも書かれています。

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2025年4月13日 (日)

伊奈町だけでない川口市にもある伊奈氏の赤山陣屋跡

江戸時代の伊奈氏といえば、関東地方の治水事業や新田開発への大きな貢献者です。

利根川や荒川が乱流して荒廃地となっていたものを今のような形に変えました。

伊奈忠次は関八州代官頭で、現在の1都6県の幕府直轄領約30万石の行政・裁判・年貢徴収を取り仕切り、警察権も統括していました。

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伊奈氏屋敷があったところというと、地名にもなっている伊奈町が有名で、伊奈忠次の屋敷跡があります。

↑川口市にも伊奈忠治の赤山陣屋跡があります。

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敷地のかなりの部分は民有地で畑などですが、一部市により公園となっています。

↑南東端では南に向けての東堀があります。

↓同じところから直角に西に向けての南堀があります。

伊奈忠治は忠次の子で、同じく関東代官頭、関東郡代になっています。

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南堀に沿っては桜が植えられておりキレイに咲いていました。

この南堀より左側は家臣屋敷跡だったそうです。

伊奈忠治は父忠次の利根川東遷事業を引き継ぎ完成させ、さらに荒川西遷も行いました。

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↑南堀沿いに赤山城址という石柱があります。

この裏が本丸跡です。

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↑さらに南堀沿いに南西端に行くと、北へ向けての西堀があります。

この右側が本丸、左側が二の丸のあったところです。

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石柱のあったところに戻り北の方に行ってみました。

↑ここには東西方向への北堀があったところにはベンチが置かれて、さらに奥には行けないように見えます。

すぐ近くには外環道が通っています。

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2025年4月 6日 (日)

和同開珎推しの秩父市黒谷と和銅と和同の違いの謎解き

前回書いた、春分の日なのに季節はずれの雪山であった美の山から、なんとか下山してきました。

秩父鉄道の和銅黒谷駅へ向かう途中に、和銅採掘露天掘跡があるので立ち寄りました。

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現地に着くと、まずは目立つのは和同開珎の大きなモニュメントです。

日本通貨発祥の地と書かれています。

昭和時代に歴史で学習したこととは異なるという項目の一つに、日本最古の貨幣は富本銭だったというのがあります。

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すると、ここでは情報が古いということでしょうか。

調べると、貨幣としては富本銭の方が古いものの、流通した通貨としては和同開珎が最古ということでした。

和銅元年(708)にここで和銅が採掘されたことから記念して元号を変え、和同開珎が鋳造、発行されました。

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ここに流れる銅洗堀という小川の面の和銅山に露天掘跡があります。

縦に山頂に向かって続いているのが眼に入ります。

下流を見ていますが、小川に架かる橋を渡り階段を登れば、断層面をえぐる和銅の採掘溝を真上から覗くことができるはずですが、通行止めになっていました。

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通貨名が和銅でなく和同なのは昔から不思議でした。

調べれば、この後150年に渡り作られた12種の皇朝十二銭の銅銭のうち、年号と名称が一致するものは4種しかなく、年号と名称はそもそも一致するのが前提ではありません。

中国の古典にある「天地和同」「万物和同」「上下和同」にある和らぎとか調和の意味の、よいことの前兆を表す言葉としての「和同」ということだそうです。

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↑さらに麓の和銅黒谷駅近くまで行くと、聖神社があります。

創建は和銅元年で、採掘された和銅石13個(神社に現存するのは大小2個)と、元明天皇下賜の銅製の蜈蚣(百足)雌雄一対が御神宝として納められたということです。

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