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2024年12月15日 (日)

五常の滝から物見山、高指山、日和田山への長い歴史を感じるハイキングコース(後篇)

前回から続き、武蔵横手駅を出発していくつかの山を辿り、高指山の次の日和田山を目指しています。

これまで急な登り坂はなかったのですが、最後にちょっとだけ急斜面を登ると日和田山頂に到着です。

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標高305メートルですから、実はこれまでの山よりも低いということになります。

山頂の広場はベンチもいくつかありますが、人もどこよりも多くいました。

ここから見える市街地がどこなのだろうと、現地で結構考えてしまいました。

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飯能にしては想定しているビルがないけれど、では一体どこなのだろうと。

結局見えているのは東方向で、日高の市街地と考える以外なさそうです。

ここまで街が広がっているとは失礼ながら思っていませんでした。

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↑頂上から少し下ると金刀毘羅神社があります。

この斜面の岩石が目を惹きますが、この岩はこの辺りで結構見かけたのでやはり興味を持っていました。

調べたら、2億年前の堆積岩であるチャートが露頭しているのだそうです。

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↑振り返れば景色が良く、高麗駅周辺の巾着田とそれを形作っている川の大きく湾曲した流れが見えます。

こうした流れによる地形も2億年という想像のつかない昔の岩石も、時の経過の長大さを改めて感じさせられます。

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ここからの下りは男坂と女坂に分かれていますが、男坂はかなり急なようで数多くのガイドブックが女坂の通行を推奨しています。

↑上りの側から見た男坂と女坂の分岐には石造物の諸神社があり、文政10年 (1827)の物です。

またここには金刀毘羅神社の一の鳥居があります。

ここまで来ると間もなく登山口で、東屋やトイレなどがあります。

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↑車通りの多い一般道に出ると、木々に覆われた小高い丘があります。

九万八千神社という珍しい名称のところです。

現地に説明板は特になく、戻って調べても詳しくは分かりませんが、九万が高麗、八千が新羅に由来するものという説が多くありました。

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語呂合わせで高麗はわかりますが、八千で新羅というのは理解できません。

祭神は八千矛命ということから付いた名なのでしょうか。

高麗川はこの神社にあるところから巾着袋の形のように大きく迂回して流れているので、ちょうど紐を締める位置になります。

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↑池にように見えますが高麗川の鹿台堰があるところです。

巾着田に水を引き込むための堰です。

九万八千神社にある辺りは硬い岩石なので水は迂回しているのでしょう。

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↑ すぐ近くには水天の碑があります。

この前の道は川越と秩父を結ぶ旧街道でした。

石碑は天保15年(1844)に繰り返された干魃、大洪水などの天災や水難事故を鎮めるために建立されたものです。

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↑武蔵横手駅から出発した、本日のゴールである高麗駅はすぐです。

駅前のトーテンポールのようなものは何やら見覚えがあります。

4年前に高麗神社にもあって見ましたが、「将軍標」という魔除けや道標としての朝鮮半島での風習です。

改めて高麗郡ができて1300年というと長い歴史も感じますが、2億年という想像もつかない昔の岩石を見れば感覚も変わり最近のことにも思えます。

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