三輪城、沢山城は公的なものには出てこないが土塁や空堀の残る素晴らしい城跡
町田市三輪に沢山城または三輪城といわれる城跡があります。
町田市ホームページなどには載っていないので知りませんでしたが、近くに行った際に立ち寄ってみました。

沢谷戸自然公園の北側の山の中にあるということです。
公園内からの登り口を探しても見つかりませんでしたが、南西端の入り口の奥にそれらしき階段があります。

公園とのフェンス沿いの雑草の多い通路を登っていくと、横には小さな墓地などがあります。
さらに、蚊に刺されながらクモの巣をよけ、ヘビに注意しながら半信半疑で進むと、これは城跡らしいと感じられるものがありました。

↑両側は土塁で間には空堀のようです。
しかも、想像していた以上に深く立派なものです。

↑少し行くと、三輪七面山の山主名で、団体の方はお戻り下さいという立札があり、ここは民有地であることがわかります。
テレビ等の取材や犬の散歩もやめるよう書かれています。

↑お参りするつもりなので行かせてもらうこととして、二の郭と思われる高台に一旦登ると、その先の鳥居の奥に再び下り階段があります。
その低くなった先はまた高くなっています。

↑この低いところは空堀のようです。
右側である南に向けては公園がある方向で、下り急斜面になっています。

↑左側は先は広くなっていて、三の郭となっていた空間があるようです。
二つめの鳥居の先は、登り階段があり社殿があります。

一の郭があり高くなったところは櫓台があり、現在は七面大明神が祀られいます。
地主である荻野氏の好意でこうして立ち入ることができるようになっています。

↑この社殿というかお堂の裏側の南東に向けては、やはり下りの急斜面となっています。
二の郭との間の空堀から、お堂のある一の郭の方を見上げてみると、結構な高低差があります。

戦国時代に小田原北条氏の北条氏照が、三輪より城米を江ノ島に送るようにとの書状が残されています。
そのことから天正年間(1573〜92)にはこの城はあったようです。

↑北の方は木々が多くて見通せないのですが、戻る途中、北西に視界の広がったところがあったので見てみると、ここが周囲より高い位置であることがわかります。
改めて沢谷戸自然公園に戻り、先程いた沢山城、三輪城を見上げると、攻め込みづらそうな山城です。

実際にはここで戦があったかはわかりませんが、いずれにしろ1590年の豊臣秀吉による小田原攻めにより廃城となってしまったのでしょう。
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