宝来という地名とそこにある福寿庵の江戸時代の石像石仏群
さいたま市西区に宝来という縁起の良さそうなバス停がありました。
場所的には荒川左岸沿いである東側で、JR川越線指扇駅近くです。

国道16号大宮西バイパスの近くでもあります。
江戸時代の寛永から正保年間(1624〜48)は宝来野と呼ばれる原野で、秣(まぐさ)場だったといいます。

天和2年(1682)荒川に水除堤が築かれて土地が開墾され、上宝来村、下宝来村となりました。
交差点名も宝来で、宝が来るということですからちょっと近くを見てまわりました。

↑福寿庵がありますが、福寿とこちらも縁起の良い名前です。
ここにある福寿庵百観音はさいたま市有形民俗文化財になっています。

102体の木造銅造の観音像は建物内にあり、これは元禄14年(1701)から享保8年(1723)の間に勧請されたそうです。
荒川沿いのための度重なる水害で、流失や破損などを被っても、補い修理されてきました。
ここにはいくつもの石像や石仏もあり、建物裏手には屋根付きの庚申塔があります。

↑これは元禄10年(1697)の合掌した青面金剛立像です。
↓さらにその裏側には3つあり、右は百万遍念仏供養塔で享和元年(1801)のものです。

中央と右はどちらも道標のようで、寛政10年(1798)と刻まれています。
3つ並んではいますが、同じ江戸時代とはいえ100年もの開きがあり移されたものなのでしょう。

↑観音堂右手にも石像石仏はあり、六地蔵菩薩があります。
右端に地蔵大菩薩と書かれており天保2年(1832)と刻まれています。
Googleマップによると、左から4つめには正徳4年(1714)と刻まれているそうです。

↑この右には比較的新しそうな地蔵菩薩像が立っていますが、下にある石碑には文化13年(1816)と刻まれており墓石のようです。

↑この福寿庵の道を挟んだ隣には八雲神社がありました。
比較的新しそうな社殿ですが、由緒等は分かりませんでした。

↑このすぐ近くの中宝来公園と中宝来自治会館です。
wikiによると上宝来村と下宝来村のができた時、村名はその前途を祝す意味で名付けたとありましたが、そもそも宝来野と言われていたのがなぜかはわかりません。
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