畠山重忠がいたという菅谷館跡と埼玉県立嵐山史跡の博物館
嵐山町の国道254号を走っていて興味があり行ってみたいと思うながら、これまで行けていないところがありました。
埼玉県立嵐山史跡の博物館です。

ここには隣接して菅谷館跡という城跡もあるといいます。
↑左側が国道バイパスですが、入り口からすぐそれに沿うように空堀があり、気分も盛り上がります。
駐車場の奥が博物館ですが、その目の前には土塁があります。

まずは城跡見学の予習も兼ねて入館料100円を支払い、博物館に入ります。
県立博物館だし、安いとはいえ一応有料なので期待していたのですが、展示されているものは量的にも質的にも、失礼ながらよく市町村にある歴史博物館にあるものとと同じようなものでした。

博物館敷地も含めて城内なので、建物裏口から出るとすぐに菅谷館跡です。
この城跡の方は期待以上によく保存されており、空堀も結構深く大きなものでした。

毒ヘビ(マムシ)注意との看板は有り難いのですが、どう注意すればいいものかいつも悩んでしまいます。
夏の城跡巡りは、スズメバチ対策や雑草の多さも含め厳しいものがあります。

↑本郭の周りは空堀とともに高い土塁もあります。
これらは、戦国時代に数度にわたる改築を受けて城郭として整備拡大されたものと考えられています。
菅谷館跡は昭和48年(1973)に国指定史跡となりました。

↑本郭前の土塁は出枡形となっており、敵の進行方向に対して側面から攻撃する横矢掛ができるようになっています。
都幾川沿いの高台に立地しているため、城跡を向こう側に行くと急斜面となっており、そちらからは攻め込みづらい立地です。

戻るのがきつそうですが、ちょっと行ってみました。
しばらく下って行くと行くと都幾川です。

再び上に戻りましたが、戦国時代より前の鎌倉時代には、ここには武蔵武士の畠山重忠が居住していたといいます。
三の郭の高くなったところには畠山重忠像があります。

源頼朝から厚く信頼されその死後も和田義盛らとともに有力御家人の一人でした。
しかし、鎌倉殿の十三人にもあったように、北条時政の陰謀により二俣川の戦いで亡くなりました。
鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡には、その時「菅屋館」から出陣したと書かれており、この菅谷館跡と見られています。

↑西の郭から三の郭に行く間には木橋あったということで復元されています。
その三の郭に入るところには蔀土塁があります。

蔀はシトミと読み、衝立てという意味ですから目隠しのための土塁ということです。
改めて、本郭と二の郭間の土塁を見てみましたが、やはり大きなものであり当時はもっと急斜面で深かったであろうことから、攻め込みづらかったことでしょう。

平成20年には菅谷館跡だけでなく、周辺の松山城跡、小倉城跡、杉山城跡とともに「比企城館跡群」として国指定史跡となっています。
数ヶ月前には小倉城跡に行きましたので、いずれ他の2か所にも行ってみたいものです。
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