木偏に山で杣という字の杣保葛神社と本殿と建武年間の青石塔婆
青梅市藤橋に杣保葛神社があります。
東京都道埼玉県道63号青梅入間線沿いで霞川の近くです。
参道の左には消防団詰め所が、右には地区公民館か自治会館らしき建物があり、古くからの地域との繋がりを感じさせる神社です。

神社の名前を何気なく書きましたが、実は漢字変換するための入力の際、読みに困ってしまいました。
木偏に山でソマと読み、杣とは樹木を植えて材木を取る山のことだそうです。

杣保葛はソマホカズラと読みます。 不思議な名前だと思いましたが、明治43年(1910)に杣保神社と葛神社が合社されたものです。
覆殿からは本殿を見ることができます。

杣保神社は元亀・天正年間(1570〜92)の藤橋城主である平山越前守重吉の域内鎮護のため愛宕社として祀られたものといわれます。
葛神社は牛頭天王社として愛宕社に祀られていましたが、平山氏の再建といわれています。

↑立派な彫り物も見ることができます。
大正年間に拝殿を新築し、同時に本殿の覆舎を造ったといいますから、本殿は明治43年に合社した時のものでしょうか。

江戸時代の新編武蔵国風土記稿によると、牛頭天王社は旧藤橋村の鎮守社であり、どちらも宝泉寺の持であったといいます。
その宝泉寺はあえて探さなくてもすぐに見つけることができます。

↑杣保葛神社の奥というか一体の敷地というような位置にあります。
こちらは応永元年(1394)の開創といいます。

この寺の本尊阿弥陀如来は文亀4年(1504)の胎内銘があり、文亀年間に再興したのはやはり平山越前守重吉と伝えられています。
寺内に二十一基の青石塔婆があるといいますが、二基は青梅市指定有形文化財となっています。

↑右は、建武4年(1337)造立で、胎蔵界大日如来の種子と梵字の光明真言が刻まれています。
左は応安7年(1374)造立で、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩が刻まれています。

建武年間といえば、後醍醐天皇の建武の新政のあったころ、室町時代でも前期の南北朝期のものですから、戦国時代よりもさらに時代が遡ります。
↑その青石塔婆のあるところから見ると、正面に見えるのが杣保葛神社の本殿裏側、左が宝泉寺本堂となります。
今のような神仏分離がされていない時代が感じられます。
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