あまり見かけたことのない戦国時代に石積みがあり大堀切や切通しも立派な小倉城跡
ときがわ町、嵐山町、小川町境界付近にあり、国指定史跡にもなっている小倉城跡を郭1、郭2と前回見てきました。
さらに、様々な工夫が凝らされた山城らしいところがあります。

郭2の南側には大堀切があり、そのさらに南にある郭4との間を仕切っています。
↑この奥がクランク状の形となっており、上段にのぼり旗があるところが郭2です。

両側には竪堀があり尾根道を完全に遮断していました。
当時はここに木橋が架けられていたようです。

↑郭2より少し低い位置にあるのが郭4です。
こうした説明だけでは全体像が伝わりづらいので、ときがわ町によるパンフレットにも載っている復元想像図です。

前回触れたように西を流れる槻川が北で向きを変え、さらに東を流れていくという、川に囲まれた小倉城跡ですから、南側から来る敵をまず迎え討つのが郭4になります。

↑この郭4へは南から急な斜面となっており、ここには虎口があったようです。
北から郭1、郭2、郭4と南に見てきましたが、郭1から東へ一段下がったところには郭3があります。

↑その間には、切通しがあります。
岩盤の地面ながら幅5メートル、高さ3メートルもの大きさです。

当時は木橋があったようですが、現在も木橋があります。
観光用に復元したものかと思ったら、工事用とのことで橋は通行禁止でした。
この郭3を支えている石積みがあります。

↑郭3の斜面下となる東側から石積みが見られます。
写真の上の方になります。
発掘調査で、郭をコの字に囲むように最大高5メートル、長さ120メートルもの大規模な石積普請が発見されました。

緑泥石片岩という板状に割れる特徴のある岩なので、長辺を正面に揃えて積んであります。
ここには大量にあり、また割れやすいのでここだけでなく、城内で数多く石積みに活用されているようです。
戦国時代の石積みは珍しいのかと思いましたが、この辺りでは他にもあるそうです。

↑最初にきた駐車場もある大福寺平場は、小倉城の居館があったところで考えられています。
この寺にある位牌は、城主である遠山右衛門大夫藤原光景の夫人のものといい、ときがわ町指定有形文化財となっています。

↑近くには田黒日枝神社があります。
こちらも藤原光景が守護神として、元亀元年(1570)に近江国の日吉大社を勧請して創建したと伝えられています。

江戸時代は田黒村の鎮守で大福寺が別当を勤めていました。
小倉城の郭3より東の下方にあった腰郭に鎮座していた熊野神社を大正時代に合祀して、また熊野神社社殿を当地へ移築したといいます。

↑城跡のすぐ東を近くを流れている槻川ですが、こちら側からは断崖で河原に下りて行けません。
少し北に行くと、北向きの流れが南向きに変わる流れが緩やかなところがあります。

嵐山町の駐車場もある観光地ともなっているところです。
この川で防御もする小倉城があった頃は、どんな様子だったのでしょうか。
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