飯能市の大河原氏と八耳堂、軍多利神社のすぐ近くの吾妻峡
飯能市の名栗川近くの観光マップにも載っている八耳堂に行ってみました。
龍崖山の麓になりますが、龍崖山公園とは山を挟んだ反対側、北側になります。

八耳堂は、真言宗の金軸山無量院金蔵寺の仏堂で、太子堂とも呼ばれています。
聖徳太子(厩戸皇子)を祀り、平安時代末期で鎌倉時代直前である保元年間(1156〜8)に建立されたといわれています。

現在の建物は江戸時代の文政3年(1802)に再建したものです。
↑宝篋印塔と大きく書かれていますが、解体修理のとき塔身部に銅板経、舎利種子墨書等が発見され、こうした一括納品物は珍しいそうで飯能市有形文化財に指定されています。

↑八耳堂の奥手には、軍多利神社があります。
鎌倉時代初期の建仁2年(1202)に飯能地方の武士・大河原四郎が創建したと伝えられています。

この辺りの住所は飯能市大河原ですが、飯能河原でも有名なように名栗川の大きな河原があるからこの大字だと思っていました。
大河原氏は、この地方の殿屋敷と呼ばれる場所に居住していたというからこちらが由来でしょうか。
神社は、天和2年(1682)火災にあったのちに再建されたものです。

↑すぐ横の山道への入り口にも二つの鳥居と祠があります。
大河原氏は龍崖山(八耳堂の飯能市による説明板では龍涯山)に砦を造っていましたし、殿屋敷もこの山にあるようです。

金蔵寺と軍多利神社を篤く信仰したといいます。
以前に南側の龍崖山公園からの登山道を少し登っただけで引き返してしまいましたが、今回も山登りでなく名栗川の方に寄ってみました。

河原へ下って行くと、7年前にきたドレミファ橋のところでした。
↑対岸に渡り、今きた方を振り返ってみています。
ここは吾妻峡といわれており、相変わらずいい景色です。

大河原氏が軍多利神社を創建した800年前は、どんな様子だったのでしょう。
それにしても、こんな大きな岩が流されてきたのかと、大雨時の水の流れの強さには驚かされます。

↑また、少し下流に行くと切り立った岩壁も素晴らしいものです。
7年経っても景色はそんなに変わっていないはずですが、それほど覚えてもいないので改めて感動できることはいいことなのか、そうでないかは微妙なところです。
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