元荒川にあるのに利根導水事業として管理されている末田須賀堰と船からも行くのか武蔵第六天神社
元荒川といえば荒川西遷前までの荒川の流れですが、さいたま市岩槻区から坂戸市への境界付近の永代橋という橋が大きな堰となっています。
ちょっと立ち寄ってみました。

元荒川にこんなに大きな堰があるとは知りませんでしたが、水資源機構が管理しているものでした。
末田須賀堰といい、利根導水総合事業所所管です。

元荒川は利根導水とは関係なさそうなのに不思議なので調べてみました。
ホームページの末田須賀堰の説明によると、元荒川流域の約1500ヘクタールの農地に農業用水を取水するために堰上流水位を一定にしているといいます。

元荒川の水だけでは十分でないため見沼代用水の十六間堰から配水し、見沼代用水路と一体的に管理しているとのことです。
確かに、元荒川は荒川から離され熊谷市佐谷田が起点となっていますから水量が多いとは思えません。

周囲の水田にためにどこからか水を調達しなければいけませんから、見沼代用水から取り入れることとし、それを管理する水資源機構という流れになっていました。
田植えの時期には現在のような水量では足りないですから、必要なことでしょう。

↑左岸側を少し上流に向けて500メートルほど歩いてみましたら、神社か寺院のようなところがあり、土手沿いの道が周囲とはちょっと違う形状です。
それこそもっと水量の多い時には、船着き場から上がっていけるような階段がついています。

↑階段を上がった先は社殿の裏側となっており、武蔵第六天神社といいます。
まさに撮影しているこの場所には藤棚らしきものとベンチがありましたが、その藤の木は樹齢数百年だそうです。
でも、そのことを知りませんでしたから写真は撮っていません。

武蔵第六天神社の創建は天明2年(1782)で、疫病除けや病気平癒にご利益があるといい「大戸の第六天様」と呼ばれているそうです。
江戸時代の岩槻城下が繁栄していた当時は、日光に行く人々が日光街道から少し外れて来ていたとも書かれていました。

元荒川からも参拝者が訪れていたかについては、特に説明板等にも書かれてはいませんでした。
ただし、江戸時代は元荒川で物資輸送の船が行き交い、末田河岸、須賀河岸があったといいますから、船で来るのも自然だったかもしれません。

↑さらに1キロほど上流に行くと、大野島水管橋がありました。
水管だけでなく人道橋となっているので右岸側に渡ってみたものです。

↑橋の上からは意外と広い元荒川がよく見渡せ、下流に向けて見れば奥に咲くほどの武蔵第六天神社があります。
高圧鉄塔と高圧線がなければ昔の田園風景のようです。
でも古くの河川は暴れ川でこんなに河原はきれいに整備されていなかったでしょう。
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