石と舟とみち道標の意味と鎌倉街道に沿っている石段を下っていく厳島神社
JR高崎線の北本駅西口駅前からの西中央通りは都市計画道路らしい道幅の広い道です。
埼玉県道57号さいたま鴻巣線との高尾氷川神社入口交差点まで続いています。

↑そこには、北本市指定歴史資料の道標があります。
享保12年(1727)に建立された「これより石と舟とみち」という道標です。

↑この「石と舟と」とは石戸河岸のことといいます。
近くを流れる荒川は江戸時代から大正時代頃までの長い間、舟運として利用されていました。
鴻巣市の馬室から石戸宿へ通じる道は鎌倉街道と伝えられています。

↑道標から80メートル程の区間は自動車も通れなくなっていて、伝鎌倉街道という表示板もあります。
この道沿いは古道の風情が残っています。

↑道なりに200メートルほど進むと高尾氷川神社があります。
平安時代の貞観11年(869)創建と伝えられる古社です。
しかし、室町時代中頃の文明5年(1473)武蔵国一宮の大宮氷川神社を分祀したということです。

高尾村等の鎮守で明治時代には村社となっています。
この周辺は高尾宮岡ふるさと緑の景観地となっています。
また、辺り一帯は縄文時代の遺跡があり多くの遺物が出土しており、かつて大きな集落がありました。

↑道を挟んでいますが、境内社として厳島神社があります。
鳥居の奥の階段を下りて参拝するという珍しい様式の神社です。

宮岡の谷津の湧水点に鎮座し、社殿が低地にあるためです。
龍が杉の大木から昇天したという「龍燈杉伝説」があり、元禄14年(1701)大風によりこの杉が倒れてしましました。

その跡を掘り上げて島を造り弁財天が祀られました。
この辺りは神社が多く、すぐ隣りは須賀神社です。
安土桃山時代の天正年間(1573〜91)創建と伝えられています。

明治時代には荒井村の村社で、荒井の天王様と親しまれていました。
あれ、高尾村ではないのかなと不思議に思いました。

高尾厳島神社とこの荒井須賀神社は隣接してますが、ちょうど村境だったようです。
現在の住所名も北本市高尾と荒井になっています。
ただし、須賀神社は高尾の範囲内にあるけど、荒井の飛び地になっているようです。

↑さらに南へ200メートルほど進むと、北向き地蔵がありました。
享保14年(1729)に建立されたもので道標にもなっています。
意外なところにも歴史を感じさせるいい道があるものです。
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コメント
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当方、鎌倉街道上道沿いに住んでいますが、北本のほうにも伝鎌倉街道があるのですね。古来からの神社があるころを鑑みると、やはり重要な道だったのだろうと思われますね。
湧水点に建てられた厳島弁財天はとても興味深いです。
いつも更新を楽しみにしております。
投稿: ひら | 2022年9月12日 (月) 22時07分
ひらさん、コメント有難うございました。
鎌倉街道は確かにいくつかあるようですが、いずれも魅了的な道であり
それぞれ行ってみたいものです。
投稿: すずた | 2022年9月18日 (日) 10時48分