城山の森北側の田園風景と想像を超えていた多和目城の高麗川断崖
坂戸市にある多和目城跡と城山の森を見てまわってきました。
崖崩れによる通行止めで、これまで全く水辺に行くことができませんでしたが、森の北側には水路があるようなので行ってみました。

まず、森の敷地内北西側ですが、木々の隙間から下の方に水があるようにも見えます。
この向こうには八高線が通っているはずですが、やはり見えません。
さらに北へ下り坂を下っていくと、空気感が変わり気温も少し高くなった気がします。

↑坂を下りきると、森の北西端より北の方角に向けて急に視界が広がります。
広い田畑があり、目の前には小川が流れています。

↑前回掲載と同じ坂戸市「城山の森」パンフにあった地図です。
城山は名前の通りに小さな山となっており、こちら側は城としては水堀になっていたのでしょうか。

↑時計回りに進んでいくと、同様の田畑とともに太陽光発電のパネルも見られます。
これは「新しき村」という武者小路実篤らにより創設されたという施設のようです。
ということは坂戸市ではなく毛呂山町です。

↑地図にもあるように森の北端には池がありました。
広い城山の森に降った雨や地下水が流れ込んでくるようです。

元の入り口に南東に向けて戻る登り坂は、道だか川跡だか分からない感じでした。
結局ここでは見ることの出来なかった高麗川と断崖を見られるところを目指すこととしました。

↑川の対岸に出ることは意外と難しく、東側を2キロほど大回りする道しかなく、高麗川の城山橋を渡りました。
堰の向こうに城山が見えます。
多和目城は南側が断崖になっているとは聞いていましたが、予想以上のものでした。

土塁と空堀が城の周囲を囲っていて東西110メートル、南北65メートルというのは城跡に実際に行っても実感できませんでした。
土塁の一部が折れ曲がって腰曲輪があり、敵の侵入を防御というのもわかりませんでしたが、南は完全に防御できています。

城の歴史は不明なのですが、狭山市柏原の長谷川家に伝わる安永8年(1779年)の文書に多和目城のことかという記載があるといいます。
室町時代の大永4年(1524年)河越城主の扇谷上杉氏が毛呂城を攻めた際に「田波目大かけ城」とあるというのです。

↑同じ堰のところで高麗川の下流方向を見ると、断崖が嘘のように全くない景色となります。
「大かけ」というのが地理的特徴とも坂戸市による説明板にありましたが、大崖ということなのでしょうか
また、多和目と田波目のことも半年前から疑問は残ったままです。
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