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2022年7月24日 (日)

見沼で享保の改革により出来なくなった御船祭を磐船祭として復活させた江戸幕府

さいたま市見沼区は見沼田んぼとして有名ですが、名前の通りに古くは沼であったそうです。

沼の主である竜神を祀るために見沼の一番深いところに舟を乗り入れる「御船祭」がはるか昔から行われていました。

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↑さいたま市内各地に竜神伝説があるといいます。

江戸時代になると、3代将軍徳川家光は、財政的基盤としての水田確保のため、見沼田んぼを灌漑用水池とするように命じました。

寛永6年(1629)見沼中央を流れていた芝川が堰き止められ、水深約1メートルの溜池が完成しました。

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さらに、8代将軍吉宗は享保の改革により見沼溜池の新田開発を命じました。

享保12〜3年(1727〜8)に見沼溜池を干拓し、利根川から見沼代用水西縁・東縁を掘って水を引くことにより、この一帯は見沼田んぼとなりました。

↑氷川女體神社は見沼代用水西縁に架かる神橋の北側にあります。

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干拓により、氷川女體神社の根本祭礼であった御船祭が行えなくなり、幕府に申し出をしました。

幕府は新たに祭礼場を造成して、御船祭の代わりに「磐船祭」が行われることとされたのです。

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新たな祭礼場は、氷川女體神社境内の前の見沼の干拓地に柄鏡形に池を掘り、その中に土を盛って造られたといいます。

↑神社境内側から見た、新たに造られた「御幸道」です。

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↑高台にある境内から、参詣路の石段を降り、見沼代用水を渡ったところから、御幸道により祭礼場へと通じるようにされたのです。

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祭礼場は直径30メートルの円形の島で、その中央には四本の竹で囲んだ斎域が設けられ、ここに神輿が渡御します。

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↑振り返って氷川女體神社の方を見ると、真っ直ぐな御幸道が続いているのがわかります。

磐船祭は享保14年(1729)には初めて行われ、幕末から明治の初期頃まで行われました。

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↑御幸道の途中から池に突き出た形で宗像神社があります。

前回見てきた氷川女體神社の12番目の末社になります。

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↑祭礼場のところから見た方が、水中の島という感じがわかります。

磐船祭は途絶えましたが、祭礼場の跡はそのままに残されてきて昭和57年には復元されました。

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↑この祭礼場のあるところも、柄鏡形の池の外側に出て見てみると、島のようになっています。

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↑氷川女體神社の見沼代用水西縁を渡った南側は見沼氷川公園となっています。

広い芝生や池があるのですが、この祭礼場や御幸道、周囲の池のあるところは木々の生い茂った林となっています。

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↑公園内には、唱歌「案山子」発祥の地として案山子の像と歌詞の碑があります。

ここ氷川女體神社周辺が発祥の地とされていますが、作詞した武笠三氏が神社神官の長男だということです。

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コメント

氷川女體神社は台地の縁にあり、祭礼場が低地に突き出ているので、地理院地図とかで見ながら行ってみたいと思っている場所でした。詳細な現地レポートと由緒の説明で、良い記事でした。

コメント有難うございます。
そのように言っていただけると、嬉しいしまた頑張ろうとも思えてきます。
ここには是非行ってみて下さい。今後ともよろしくお願いします。

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