頼朝の祖先である源義家が北向きに建てた武野神社と湧水
小平市花小金井の武蔵野神社にはかつて行きましたが、新座市野寺には武野神社があります。
武蔵野の間違いではなく武野です。

何かと思いましたが、わかってみればそんなに難しい理由ではありませんでした。
武蔵野の「武」と野寺の「野」を採って武野神社としたとのことです。
「たけしの」と読むとのことです。

創建年代は不明ですが、かつては八幡社と云われており八幡山という丘陵の山上に祀られていました。
↑一の鳥居まで石段がありますが、その先にも女坂と男坂に分かれて石段があります。

社伝によれば、永承6年(1051)の前九年の役で八幡太郎義家が奥州へ向かう最中に先勝祈願して、社伝を北向きに再建しました。
それ以来、全国的にも珍しい北向きの神社となっっています。

八幡太郎義家とは、源頼朝や足利尊氏らの祖先であるも源義家です。
鎮守府将軍兼陸奥守であった父、源頼義とともに前九年の役を戦っています。
後三年の役とも併せて、源氏が関東、奥州の武士団と主従関係を結び、東国での基盤を築くこととなりました。

↑社殿の東側に安置されている旧八幡社の本殿は、寛永年間(1624〜44)の建立と伝えられていると新座市教育委員会の案内板に書かれていました。
この境内は八幡山というように高台となっているので、木々の隙間からは北の方へ遠くを見渡せます。

八幡山の麓から湧き出る水により潤わされる耕地の安泰を願って、水源のある山上に祠を立てて祀ったのが武野神社の元だったようです。
今でも豊富な湧水があります。

江戸時代初期に幕府によって作られた「正保の絵図」には、八幡社参道下の湧き水とそこに祀られる辨天社が掲載されています。

武野神社というか八幡社についても、江戸幕府が編纂した地誌書である『新編武蔵風土記稿』において、社殿の修復を平安時代の康平6年(1063)に行ったという記載もあります。
社伝にあるだけでなく、平安時代からこの地にあったということです。

武野神社という名は、明治41年(1908)に栗原村の浅間神社を始めとする八社を合祀した際に、先程も書いたように武蔵野の野寺にあることから付いたといいます。

ここは北西側近くを黒目川が流れていますから、河岸段丘として高くなっているのでしょうか。
↑武野神社の少し南の野寺三丁目と栗原二丁目境の両側には、それぞれ保全緑地と児童遊園があり斜面に林が残されています。
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