多和目にある樹齢800年の木と高麗川に架かる木造の冠水橋
日高市の田波目という地名のところにいると思っていたところ、200メートルほど北で「多和目」という交差点がありました。
先程立ち寄ったコンビニが日高田波目店だったはずですから、読みが同じで間違いかとも思いましたが当然あっているようです。

↑すぐ近くに多和目天神社があり、こちらはタワメで坂戸市になり、田波目はタバメで日高市のようです。
多和目天神社は、この辺りを支配していた稲生氏の氏神として祀られていたものが村の鎮守となったようです。
かつて、三河国の稲生次郎左衛門が徳川家康に仕え、長篠の戦いなどの武功を立てたといいます。

天正18年(1590)に武蔵国高麗郡入西のうち多和目、和田、善能寺の三ヵ村のほか足立郡数ヵ村を領することになり、明治元年(1868)になるまで続きました。
この神社周辺一帯は稲生屋敷と呼ばれ、神社の西方が安土桃山期の稲生陣屋跡であると伝わっておりGoogleマップでも表示がありました。
しかし、地図上に示された位置にも特に案内表示板などはありません。

↑本殿隣にも鳥居がありますが、そこには大きなカゴノキがあり坂戸市指定天然記念物となっています。
「籠」の木なのかと思いましたが「鹿子」の木だそうで、樹皮が円形に点々と剥落し鹿の子のように見えるということで名付けられました。

昭和59年(1984)にそれが判明するまでは、なんじゃもんじゃの木と呼ばれていたということです。
この木は樹齢1000年とも言われていましたが、樹木医により800年とされました。
それでも、今から800年前といえば鎌倉時代初期ですから、源頼朝の頃から生えていたと思うと感動です。

↑社殿裏にも天然記念物の碑がありますが、こちらは多和目の大杉跡と書かれています。
かつては樹齢1000年を越す杉がありましたが、伊勢湾台風の時に先端が折れてその後枯れてしまいました。
しかし、その二世が植樹され今ではかなり大きくなっています。

↑この辺りでは北に向かって高麗川が流れており、天神社から500メートルほどのところに多和目天神橋があります。
といっても橋名のプレートなど無く、木造の冠水橋です。

1トンの重量制限があるということですから、軽車両というか軽い自動車は通れるようです。
どちら側にも高圧線鉄塔があるので、時代は感じられませんが趣きのある橋です。
橋の向こう側も水田なのでしょう、いい風景です。

西の方には西坂戸の住宅地があるようです、坂戸市は思っていたよりも西側に大きく広がっていたようです。
橋のすぐ上流には高麗川2号堰があります。
やはり今どきの堰らしく魚道が右岸側に整備されています。

この堰や橋の右岸側一帯は、多和目レクリエーション施設というところになっています。
名前の大袈裟さの割には広場と遊歩道があるくらいですが、キャンプ場として利用していそうな車は停まっていました。
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