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2021年10月 3日 (日)

大河ドラマを目指している太田道灌の山吹の里と如意にある関東最古の如意輪観音

埼玉県道30号飯能寄居線バイパス沿いの越生町の山吹大橋交差点近くに「山吹の里歴史公園」があります。

腰辺川に架かるその橋があり、渡ればJR八高線と東武越生線の越生駅の近くです。

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↑史跡とありますが、伝山吹の里として埼玉県指定旧跡となっているようです。

越生町は太田道灌と縁があるようで「伝山吹の里」、「太田道真(道灌の父)退隠地」、道灌生誕の地とされる「山枝庵」などの史跡や文化財があります。

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↑右には水車小屋、そして左の建物の手前にはノボリ旗があり「太田道灌を大河ドラマに」と書かれており、署名帳もあります。

道灌ゆかりの自治体や民間団体による「太田道灌をNHK大河ドラマに!推進実行委員会」というのがあり、平成26年から署名活動を行っているそうです。

また、道灌の足跡や伝説は、関東一円に残されていますが、会長に生誕地として越生町長、副会長には終焉地として伊勢原市長と道灌山のある荒川区長がなっています。

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↑この山吹の里については、江戸城築城で有名な太田道灌が若い頃の話です。

鷹狩りの途中にわか雨に遭い、蓑を借りに貧しい民家を訪ねました。

すると、出てきた少女は何も言わずに一枝の山吹を差し出したといいます。

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こうした公園にはよくある案内図が見当たりませんが、石段があるので登ってみました。

↑思いの外、長い石段でしたが登り切ると広場になっており、木々の隙間からながら越生駅周辺を見渡せます。

ですが、この広場というか空地は特に何があるというわけではなく、四阿とベンチがあるだけです。

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山吹の里の話に戻りますと、その時道灌には山吹の意味が理解出来ませんでした。

後に「蓑がない」悲しさを「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞかなしき」という古い和歌に託した少女の想いを知りました。

自分を恥じた道灌は歌道を志し、文武両道の名将になったという逸話の故地だという事です。

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石段を登ってきましたが、もう一つ別のルートもあったようです。

ただし、男坂女坂のように勾配が違うわけでも無さそうです。

↑上から見て左側の石段の方がいい景色を見ることができました。

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↑公園頂上の広場から直接距離では300メートルほどのところに、埼玉県指定文化財があるようなので行ってみました。

直進しては来られないのでかなり迂回することとなりましたが、如意輪観音堂があります。

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観音堂の本尊である「木造如意輪観音半跏像」は、関東最古の在銘彫刻です。

応保2年(1162)との墨書銘があるといいますから平安時代末期のものです。

総高104.2センチメートルだといいます。

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如意の観音様として親しまれているといいますが、この辺りは先程いた公園頂上の広場も含めて地名の大字は「如意」なのです。

ニョイというのは珍しいなあと思い調べたら、ネオイと読むと知り、さらに驚きました。

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↑木造の御堂の中にあるのかと思いましたが、隣にもう少し頑丈そうな建築物があるのでこちらで大切に保管されているのでしょう。

平安時代の観音様があるのですから、地名の由来ともなっている位は当たり前なのかもしれません。

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