十社神社にある大類古墳群と鎌倉街道沿いの川角古墳群
苦林古戦場跡にある苦林古墳を見ましたが、そこから数百メートルほどのところに十社神社があります。
10箇所の神社を集めたところかとも思いましたが、これまで行ったところは七所神社のように「所」が付いていました。

ここは「社」です。
調べてみると、苦林古戦場が関係しているようで、足利基氏方で戦死した武将、金井新左衛門ほか9名で合わせて10名の英霊を祀ったと言うことです。
古くは十首明神と称されたそうです。

↑本殿のすぐ後ろには少し高くなったところがあります。
先程まで前方後円墳を見ていたので古墳に見えます。
やはり円墳のようで、大類古墳群の円墳が数多くあるようです。

境内を見ると確かにいくつもの円墳らしきところがあります。
大類古墳群は6世紀後半から7世紀前半の42基もの古墳があるといいますが、このような小さめな古墳が多いようです。

だからこそ独立した個別の古墳名でなく、古墳群と呼ぼれているのでしょうが。
ただし、合戦の戦死者のお墓という言い伝えもあるようです。
毛呂山町にはここから1キロ弱のところに歴史民俗資料館があります。

毛呂山は市ではなく町なのですが、想像していたよりも立派なものでした。
↑案内図を見ると、この周囲には古墳群があるようですし、鎌倉街道も通っていたようです。

↑行ってみると如何にも旧道ですという感じの木々に覆われた鎌倉街道上道(カミツミチ)がありました。
毛呂山町の鎌倉街道は、埼玉県内でも保存状態がとてもよく、文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれています。

↑少し北に向かうと、こちらにも如何にも円墳という感じの小山があります。
ここは川角古墳群といい、大類古墳群から越辺川右岸のやや上流に上った位置で、台地の縁に38基の古墳があります。
古墳群というだけあって、いくつもの円墳があります。

こちらにあるのはは前方後円墳はなく円墳のみで、大類古墳群のものと比べ規模が小さく直径10〜15mほどの古墳が目立ちます。
埴輪の出土もなく、大類古墳群からやや遅れて7世紀初頭から中葉のものと考えられています。

↑毛呂山町歴史民俗資料館の建物前には内部の見える古墳があります。
これは横穴式石室のある西戸2号墳の復元されたものです。
西戸古墳群は同じ毛呂山町で腰辺川流域ですが、大類古墳群や川角古墳群からはやや上流の左岸のところにある古墳時代後期のものです。

西戸2号墳は6世紀末から7世紀初頭に築造されたものですが、8世紀頃の遺物や3人以上人歯も発掘されたいうことで、横穴式石室の特質である追葬がされてといいます。
いつも思うことですが、歴史で習った645年の大化の改新というと西日本の出来事過ぎて東日本での人々の文化や暮らしを考えてもいませんでした。
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