毛呂山町にある前方後円墳の苦林古墳と太平記にも書かれた苦林野古戦場
埼玉県毛呂山町に苦林というところがあり、苦林古墳または大類1号墳といわれる前方後円墳があります。
近くを流れる腰辺川右岸の毛呂山町川勝から坂戸市塚原には古墳が100基以上あり、苦林古墳群とも呼ばれています。

苦林古墳群は、埼玉県の地名の由来ともなった埼玉古墳群に次ぐ、県内の前方後円墳の密集地だといいます。
この苦林古墳は全長23メートルの古墳時代後期のものです。
手前が前方部、右奥は後円部となっており、前方部の上に説明板や碑がありますが、雑草が生い茂り入って行きづらくなってます。

毛呂山町指定史跡となっており、上記は町教育委員会の説明板にあったものです。
以前行った行田市の埼玉古墳群とはちょっと規模的にもイメージが違い過ぎるので調べてみたら、埼玉古墳群は前方後円墳が8基で苦林古墳群は5基あるというので、確かにその通りのようです。

さらに町公式サイトなど調べていくと、特にこの辺り42基の古墳は大類古墳群といい、ここは大類1号墳といいます。
大類古墳群は、6世紀後半から7世紀初頭を中心に古墳の築造が進んだと考えれており、円筒埴輪も出土しています。

鎌倉街道沿いのこの辺りは中世には苦林野といわれており、貞治2年(1363)には大規模な合戦である苦林野合戦が起きました。
苦林野古戦場は埼玉県指定旧跡となっています。
前方部に説明板とともに大きな碑がありました。
苦林古戦場之遺跡碑と書かれています。

古いものかと思いましたが、裏を見ると明治8年(1875)4月でした。
しかし、後方部にあるのはもう少し古い江戸時代のものでした。

↑苦林野合戦供養塔は文化10年(1813)建立されましたもので、町指定有形民俗文化財に指定されています。
正面に千手観音の浮き彫り像、側面には六観音が刻まれています。
背面には貞治4年(1365)6月17日にこの地で、足利基氏、芳賀禅可両軍の戦があったことが刻まれています(案内板では貞治2年)

このことは14世紀後半頃の軍記物語『太平記』にも描かれています。
↑芳賀高貞が「小塚」に上り基氏軍を窺うところが記されおり物見に使ったその小塚が苦林古墳と考えられています。

戦いの経緯は、足利尊氏の子である足利基氏が鎌倉公方となり、補佐役の関東管領に上杉憲顕を起用し、下野の武将宇都宮氏綱の越後守護職を剥奪し憲顕に与えました。
そのため、宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可が憲顕を襲撃したものです。

足利基氏は総勢3000人余りの軍勢を率いて鎌倉街道を進み、芳賀禅可は嫡子高貞と次男高家に800騎を与えて戦いました。
基氏軍と芳賀軍は、苦林野付近を舞台に激しい戦いを繰り広げ、足利基氏側が勝利し芳賀軍は宇都宮へ敗退したということでした。
住宅が建っているこの辺りでそんな戦いがあったとは、今となっては不思議な気もします。
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