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2021年7月18日 (日)

吉見町南西部の区画整理事業地内の調整池とちょっと不思議な永府門樋

前回から見ている吉見町は東に荒川、西南に市野川が流れている、輪中とも言えるようなところです。

その町の南西部の市野川沿いでは、25ヘクタールの工業団地として西吉見南部土地区画整理事業が行われました。

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↑工業団地といっても工場ではなく、ベルーナ、プロロジス、日本ロジテムの大きな物流倉庫があります。

国道254号と409号の合流分岐点も近く、自動車交通には便利なのでしょう。

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先程の区画整理事業地の南端には永府公園が整備されており、さらに調整池としての修景池もあるようです。

公園といっても子供が遊ぶような立地でもないです。

多目的広場とはされていますが、特に何もない芝生です。

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まあこの方がのんびりできていいです。

修景池の方も遊歩道のところまで夏草が生えてしまっており、諏訪沼と同じような雰囲気です。

そうはいうものの、調整池ですから水量の管理は当然されています。

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雨水流出抑制施設との看板が設置されており、見ていると機械制御によりいくつかの管から水が水路に排出されています。

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周辺に、吉見町指定文化財で土木学会の近代土木遺産にもなっている永府門樋があるので行ってみました。

永府門樋の吉見町教育委員会による説明板もあります。

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↓説明板は「永府門樋」ですが、なぜか、町ホームページには「永腐門樋」とされています。

「府」の旧字体が「腐」だというわけでもないのでちょっと不思議です。

両者の説明は同内容で、近隣の水田への水源として、明治34年に市野川と農業用水との交点に造られたとあります。

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市野川ではなくて市野川用水のはずですが、これも謎です。

水路幅が5メートル前後で、明治20年から30年前半ごろに造られた樋門は、開口部がアーチ型になるのが一般的です。

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明治34年築造の永府門樋はアーチ型の意匠性と桁型の施工性・実用性を合わせ持っているのが特徴だそうです。

永府門樋は石材部と煉瓦積部との調和が良く、また角だしと呼ばれる装飾も意匠的に大変優れていて、埼玉県内でも桁型樋門で比肩するものは見当たらないといいます。

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↑左から農業用水が流れてきて、右にある永府門樋で市野川用水と合流するのですが、この施設との役割分担は分かりませんでした。

ただ、近年の開発によって多くの樋門が取り壊される中、桁型2連構造の樋門で現存するのは唯一だそうです。

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↑改めて、農業用水の流れてくる北方の田んぼを見ています。

こうした田園風景の中にデザインも考慮した永府門樋を造るなんて。

明治34年といえば120年も前の1901年のことです。

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