川崎市は相模国でなく武蔵国だったことを思い出させてくれる武州柿生琴平神社
小田急線の新百合ヶ丘駅は大きな駅ですが、その南側に王禅寺地区があります。
川崎市麻生区になります。
柿生大橋ができる以前は、車で東名川崎インターから多摩地区に行こうとする時には、王禅寺付近は道が分かりづらかったので生田の方から大きく迂回したものです。

↑その王禅寺地区で、武州柿生琴平神社という看板をよく見かけますので行ってみました。
朱塗りの大きな鳥居で幅14メートル、高さ13メートルあるといいます。
夏越の大祓いの茅の輪があり、また夏詣と書かれた幟もあります。

↑本殿かと思われた奥にある建物は「儀式殿」とされており、本殿は別にあるようです。
由緒としては、室町時代末期の元亀元年(1570)から神明社が祀られていたと伝えられています。
地元に残る古文書では、正徳元年(1711)以前には「伊勢山」と呼ばれる現境内地に社殿、小祠があったそうです。

後方の丘というか森がその伊勢山でその上に本殿があるのかと思いましたが、ちょっと違うようです。
文政9年(1826)には王禅寺村名主の志村文之丞により四国金刀比羅宮の御祭神を勧請し、神明社・琴平社の合社となったといいます。

↑文化元年(1804)の創建であると伝えられている銭洗弁財天もあります。
元々は王禅寺内に建立されていたものがここに再建されました。
小さな山の斜面にあるため湧水でしょうか。

ところで、神社の名称の「武州」とは武蔵国のことですが、一瞬不思議に思いました。
東京都と埼玉県は武蔵国、神奈川県は相模国だったと一般的には思っているからです。
しかし、川崎市と横浜市の大部分は武蔵国であったことを改めて思い出しました。
都筑郡は武蔵国に属しており、現在の横浜市都筑区よりずっと広範囲で、王禅寺村も都筑郡です。

↑こちらの境内社、福寿稲荷大明神は群馬県の嬬恋稲荷総社から文政7年(1824)に御神霊を移し弘化3年(1847)の再建で改称したものです。
多賀社・塩釜社・稲荷社の三社を総称して「お多賀さん」と呼びならわしているそうです。

琴平神社は、割と最近ともいえる昭和55年(1980)に「神明社・琴平社合社」としていた社名を現在のように改称しました。
儀式殿の鳥居に向かって右の方、方角では北の方に長い石段があります。

こちらに武州柿生琴平神社の本殿があるようです。
石垣の切れ目のところからも先もまだ石段は続きますから、結構な高さがあります。
こちらが伊勢山ということです。

↑石段の途中から振り返り見ると、交差点の向こう側に大きな参集殿や鳥居などが見えます。
何度もお参りするにはこの石段は確かにキツイでしょうから、あのような場所に儀式殿などがあった方が便利なのでしょう。
石段上の本殿やその周囲の様子を引き続き見て行くこととします。
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