鎌倉時代からの羽根倉浅間神社と2回も移転した明治時代の羽根倉富士嶽
国道463号浦和所沢バイパスが荒川に架かる羽根倉橋の袂、志木市上宗岡に羽根倉浅間神社があります。
位置的にはバイパス沿いですが、橋梁は堤防の高さに架けられていますから一段低いところになります。

起源は古く、鎌倉時代の初期になります。
源頼朝が建久5年(1193)に家来を集めて富士の裾野で大がかりな巻狩りを行った際に、宗岡の人達も勢子という鳥や獣を追い出す役として借り出されました。

そのために翌年の年貢を免除されたので、喜んだ村人達はこれを記念して、荒川堤外の字大野に塚を築き富士浅間を祀ったものだといいます。
江戸時代の1780年以降に富士塚が各地に作られましたが、当時にその富士塚を築いたわけではありませんが富士信仰という意味では約600年も前のことになります。

室町時代の長禄年間(1457〜60)に荒川が洪水を起こした時に、祠が羽根倉(現在の羽根倉橋の上流)に流れ着き、そこに社殿を建てました。
元の字「大野」の位置がどの程度離れたところなのかはよく分かりませんでした。

そして明治時代になりこの神社にも富士塚が築かれました。
江戸時代ではなくて明治13年(1880)のことで、羽根倉富士嶽は高さ約10メートルのものでした。
しかし、ややこしいですがこれがその富士塚ではありません。

荒川の河川改修事業のため昭和4年(1929)頃に堤内に移転しました。
さらに、県道改修事業により昭和45年(1970)に現在の位置に移転したといいます。
「危険!登らないで下さい」と書かれています。

↑社殿のある側の方に登山道はあるようです。
見かけは丈夫そうですが、やはり登るのはやめておきました。
黒ボクと言われる富士山の溶岩が数多くあるようです。

↑登山の代わりにという訳でもないですが、国道バイパスのある上の方から見てみます。
羽根倉富士嶽とその奥に社殿が見えます。
荒川堤防上の県道からも見てみました。

右下の方に胎内穴らしきものもあることが分かります。
二度も移転しなければいけなかったのに、このようにして富士塚が残っているとは関係者の方々の努力に感謝しなければいけません。
石像物の寄進者名からは地元の宗岡だけでなく、近隣地域からの信仰も集めていたそうです。
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