参道で中央高速道路を跨ぎ相模湖も眺望できる與瀬神社(与瀬神社)
相模湖近くの国道20号甲州街道沿いに與瀬神社(与瀬神社)の鳥居があります。
與という字は普段見慣れない漢字ですが、与の旧字体になります。
通称権現山という山の南麓にあり、幼児の虫封じの霊験あらたかな神として有名です。

「虫封じ」といいますが、昔は病気になるのは身体の中にいる虫のせいで、子供が夜泣きしたり、ぐずるのは「かんの虫」のせいだと思われていたいいます。
最近は見かけませんが、以前は宇津救命丸のテレビCМで「かんの虫」と聞いて何の事だろうと思っていたのを思い出します。
神社へと続く長い石畳と石段の参道の脇には、天然記念物の樹齢600年を越える杉の木が茂っているといいます。

↑ニノ鳥居の前の道が旧甲州街道で、この辺りは與瀬宿があったところです。
鉄道も明治34年(1901)の八王子上野原間の中央本線開通時は、相模湖駅ではなく與瀬駅でした。
ところで、ここから先の石段は、最初の石段とはちょっと雰囲気が違います。
上がった先は踊り場というかテラスのようになっています。

↑先は二つの入口があり、左に與瀬神社、右は慈眼寺となっています。
驚くことに下には中央高速道路が走っています。

↑左を見れば、西の甲府方面です。
↓右を見れば、東の東京方面です。

昭和43年(1968)12月20日に開通した高速道路の建設のため、ここにあった與瀬神社の赤鳥居と慈眼寺の鐘楼を現在の位置に移設したと、ここに立つ記念碑に書かれていました。

↑さらに振り返れば、相模湖が見えます。
そしていよいよこの先が山麓の神社らしい景色になります。

↑石段の先には立派な神門があります。
新編相模国風土記等によると、古くは相模川の北岸に在ったお社を現在の所にお祀りしたもので與瀬大権現といっていたそうです。

↑手水舎があり、その先は急角度の石段となっています。
この石段は登るのも大変でしたが、ここを例大祭の時は神輿を担いで下るといいますから凄いことです。

創建は不詳ですが、祭神は日本武尊で、御神像の台坐に享禄(1528~1532)の年代があるといいます。
町の下方である相模川の近くにあった古社を天和2年(1682)にこちらに遷移し、元録年間(1688〜1704)に今の境内の形となったようです。

現存する元録の銘のある石段、宝暦年間に江戸の商人より寄進された神輿等があるといいます。
明治37年(1904)に社殿は消失してしまいましたが、大正3年(1914)に現在の本殿が再建されました。
昭和24年(1949)秋に拝殿が再建されたといいます。

↑本殿すぐ後ろは切り立った山の斜面となっており、右には境内社もあります。
左にも境内社がありますし、帰り道も絶景の相模湖が見られます。
近くで相模湖も見たいので引き続き行ってみました。
.
.
.
« 国立市ではなく府中市にある谷保天満宮発祥の地と用水路と大山道 | トップページ | 與瀬神社(与瀬神社)からの帰り道に立ち寄った相模湖と御供岩 »
「55神奈川県」カテゴリの記事
- 寺家ふるさと村の谷戸田と都史跡の家型横穴墓群や切り通し(2025.10.05)
- 行きルートほど注目されないが帰りルートの岩にも魅力ある石老山(2025.06.22)
- 近いようで遠い藤野の難読でしかもヤマビルが多くいた葛原の金剛山(2024.11.03)
- ネーミングライツのアクアリウムさがみはらと高台にある山門の立派な宗祐寺(2024.03.17)
- 小田急多摩線の田名への延伸計画と田名八幡宮の微妙な時期の改称(2024.03.10)
「神社」カテゴリの記事
- 南向きから江戸の護りのため東向きになった武蔵御嶽神社と2本の巨木(2025.09.07)
- 奥溜から地名が変わった奥富にある歴史ある梅宮神社と富士塚(2025.08.10)
- 和同開珎推しの秩父市黒谷と和銅と和同の違いの謎解き(2025.04.06)
- 加治丘陵の新久高台にある八坂神社からの景色と丘陵からの見え方(2025.03.02)
- 呼ばわり山という今熊山の今熊神社と安閑天皇の頃とは(2024.11.24)
« 国立市ではなく府中市にある谷保天満宮発祥の地と用水路と大山道 | トップページ | 與瀬神社(与瀬神社)からの帰り道に立ち寄った相模湖と御供岩 »

コメント