藤原四家のうち式家の神社である上宮大澤神社で平安時代の歴史上の人物を復習
新小金井街道の小金井市貫井南町に「上宮大澤神社入口」という標識がありました。
大澤(大沢)と言えば、もっと東にある三鷹市の地名なので、興味があり立ち寄ってみました。
境内と道路と駐車場の境がよくわかりませんし、中には住宅もあるようですが、全体が神社の敷地なのでしょうか。

狭いながらも美しい竹林に立つ神社案内板によると、創建は平安時代である天慶年間(938〜945)といいます。
藤原外記壽治(げきひさはる)が、大澤の池の上のこの地が山紫水明のいいところなので、大澤氏を名乗るとともに神社を創始したといいます。
大化の新で知られる中臣鎌足が藤原姓を賜わり藤原氏の祖となっていますが、その子孫だといいます。

↑7名の祭神が記載されていましたが、古事記や日本書紀に登場する神々ではない、歴史上実在の人物もいるようなのでそれぞれを調べてみました。
まず①「天児屋根命」は古事記・日本書紀にも載っている神になりますが、中臣氏・藤原氏の太祖神です。
②「藤御食子命(中臣氏)」は中臣御食子のことで鎌足の父になります。

↑鳥居から本殿までの距離は短く、右には社務所があります。
寒い日々なので、午後なのに手水鉢の水は一部凍っていました。

続いて、③ 「藤宇合命(藤原式家)」は藤原宇合(うまかい)のことです。
平安時代に非常に栄華を極める藤原氏の礎を築いたと言えるのは、奈良時代の藤原不比等です。
不比等は中臣鎌足の子で、その4人の子は北家、南家、京家、式家の藤原四家を形成します。
うち式家の祖が藤原宇合です。
本殿の前まで行くと参拝者を感知して雅楽が流れます。

④「藤百川命」は藤原百川(ももかわ)のことで、宇合の子です。
⑤「平高望」は高望王ともいわれ、桓武天皇の曾孫で桓武平氏の祖となっています。
東国で俘囚の乱を鎮めため上総介となりました。
その子孫が東国で土着していき、平将門はその孫になります。

藤原忠文が征東大将軍として平将門の乱を鎮圧することとなり、それに藤原外記壽治は従軍しました。
承平天慶の乱といわれる、939年から常陸、下野、上野の国府を襲った平将門の乱は、翌年に平貞盛や藤原秀郷により鎮圧されました。
残念ながら、藤原忠文(及び藤原外記壽治)活躍の場とはならなかったようです。

⑥「平頼望」は山川の日本史用語集なども調べてみましたが不明でした。
平高望は武士としての祖ではありますが、藤原氏と同様に東国の平和に尽くしたというとことなのでしょうか。
↓行った時には、なぜ境内社が藤原稲荷大明神というのかわかりませんでしたが、戻ってから藤原氏ゆかりなのだとわかりました。

⑦「藤壽治」は藤原百川の嗣子の藤原壽治のことで、上宮大澤神社を天慶年間に創始しましたが、その際、この地の大澤の池を気に入ったということでした。
祭神については、日本史の復習をして一応わかりましたが、当初の疑問など解消していないこともありますので、神社境内ではないけど、数十メートルのところに池があるようなので、この後行ってみることとしました。
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