東大和市前身の高木村外五ヶ村の役場があった高木神社と塩釜神社
東大和市内の青梅街道を走る西武バスに「塩釜神社前」というバス停があります。
また、道路沿いには「安産の守神 塩釜神社」という大きな看板もあります。
矢印の方向に行き、公園とともに神社のあるところを見ると、ちょっと想定とは違っています。
↑「高木神社」と書かれておりその社務所があります。
まず、ここで目を引いたのは「東大和市旧跡 高木村外五ヶ村連合戸長役場跡」という説明表示板です。
東大和市は、明治時代初期には高木、清水、狭山、奈良橋、蔵敷、芋窪の六ヶ村に分かれていました。
その村ごとに戸長が選出されていましたが、明治17年(1884)に町村制度の大改正が行われ、500戸を基準として連合した地域に、一人の官選の戸長をおくことになりました。
六ヶ村を一区域として、戸長がここにあった戸長役場で事務を執ったというものです。
ほぼ現在の東大和市域の原型が作られたというもので、東大和市旧跡に指定されています。
↑建物はありませんが、書類入れだった土蔵だけは残っています。
そして、塩釜神社があります。
大正15年(1926)建立の「国幣中社塩竈神社分社」という碑が立っています。
宮城県塩釜市にある塩釜神社から分祀してもらった個人の土地の屋敷神だったものを、明治10年(1877)にここに勧請したといいます。
ここは予想外に、高木神社の末社という位置付けのようで、その高木神社との位置関係はこんな感じです。
↑右側にあるのが、先程見た塩釜神社の鳥居と社殿です。
さらに大きな鳥居と社殿が左側にある高木神社を見てみます。
↑先程は東側の道路から入りましたが、南側の道路沿いには立派な参道入口があり、ここを進むと高木神社です。
創建年は詳かではありませんが、宝暦8年(1758)に再建したといいますから、少なくとも江戸時代末期にはあったようです。
地元の鎮守としての高木神社に対して、周辺も含めて参拝者が訪れる塩釜神社のために看板は設置したのでしょうか。
古くは高木神社、その後、尉殿権現社といい、明治13(1880)に再び高木神社と再び改称したそうです。
東大和市の前身の話ですが、大正8年(1919)に六村が合併し、大和村が誕生しました。
「大和」の名はそれまでの村々が大きく和してやっていこうという願いをこめてつけられたものだそうです。
高木神社ではかつて獅子舞が行われていました。
その高木獅子舞に使用していた獅子頭は、江戸後期のものとされ、市指定文化財となっています。
↑そのためでしょう、かなり目を引く獅子舞の像があります。
↑神社南側入口の鳥居隣には庚申塔や馬頭観音像があり、歴史を感じさせます。
大和村はベッドタウン化による人口増加とともに、昭和29年(1954)には大和町に、昭和45年(1970)には東大和市となり、2020年は市制施行50周年の記念すべき年となっています。
今では、西武新宿線や新青梅街道のある南側の方が栄えており、市役所もそちらにありますが、以前は青梅街道の通るこちらの方が中心街だったことでしょう。
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