豊臣秀吉が一夜にして築いたという石垣山城の石垣を見る(前編)
小田原にある城といえば小田原城が当然有名ですが、もう一つあります。
小田原北条氏の小田原城を攻めるために豊臣秀吉により築かれた石垣山城です。
小田原厚木道路の小田原西インターを出て直進し、東海道新幹線ガードの手前を右折し、70メートル先でもう一度右折して、1.8キロほどひたすら山道を進みます。
↑無料駐車場があり、道路を挟んだすぐ前の斜面に石垣があります。
石垣山は国指定史跡となっており、国立公園の区域内です。
石垣山一夜城歴史公園として整備されています。
石垣山といいますが、元々は笠懸山と呼ばれていました。
天正18年(1590)豊臣秀吉が関東では最初の総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
↑城の縄張内に入り、急な坂を登っていくと途中から北に向けての通路が整備されており、再び石垣が見られます。
馬屋曲輪石垣といい、延長67メートル、高さ6メートル、勾配60°で比較的良好に築城当時の形態が保たれているそうです。
↑石垣の上には馬屋曲輪があります。
馬屋があったのでしょうが、ここは二の丸とも呼ばれています。
石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を貼って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を切り倒し、一夜で城が出来たように見せたからです。
↑櫓台跡と書かれていました。
あまり櫓台には見えませんが、以前はもう少し高かったようです。
次に、石垣山と言うに相応しい石垣を見るために、せっかく登ってきましたが階段を下ります。
↑井戸曲輪といい、谷地形になるところを塞ぎ止めるように周囲に石垣を積み上げて、その底に井戸をつくったものです。
周囲に残る石垣は、一夜城の中で最もよく残っていて当時の石垣構築技術を知ることができるところといいます。
石積みは近江の石工技術者集団である穴太衆(あのうしゅう)による野面積み(のづらづみ)です。
井戸は淀殿の化粧井戸と言われています。
小田原北条氏側からすれば、こんなものまである一夜城を見た小田原城中の将兵は驚愕したし、士気も低下してしまったことでしょう。
しかし、実際には築城にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間を費やしました。
再び階段を上りまして、二の丸の北の端には展望台があります。
ここの標高は240メートルほどで、駐車場が220メートルであったことから、やはり山城であることを感じさせる景色です。
↑北西を見ると、中央は箱根登山鉄道の入生田駅の辺りで、大きな建物は神奈川県立生命の森・地球博物館です。
↑北東を見ると、山の隙間から小田原市街と相模湾が見えます。
小田原北条氏を水陸15万の大軍で包囲して、その本陣として築かれたのがこの石垣山城です。
↑攻める先の小田原城まで約3キロあります。
アップにすると小さく見えました。
中央付近の木のすぐ上です。
石垣山城は山城でありながら5.8ヘクタールと予想以上の広さで見どころもまだまだありますから、次回へと続きます。
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