北本市の石戸城とそれを攻める北条氏邦が一夜にして築いたという一夜堤
石戸城は天神山城ともいわれる北本市石戸宿にある城跡です。
室町時代長禄年間(1457~60年)頃の城といいます。
↑荒川沿いの河川敷にある天神下駐車場から見上げていますが、荒川の堤防にもなっている桜堤通りに沿って石戸城はありました。
扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が築城し、北上する北条氏に備えるため、岩付城、松山城、川越城を結ぶ防衛ラインの一部を担っていました。
↑その桜堤通りを南に向かい北を振り返ると、一の郭があったところを道路が分断して通っています。
一の郭の左側が荒川になりますから、西側は要害となっています。
↑さらに南に行くと、五の郭のあった辺りに北本市教育委員会による説明板があります。
奥の方が三の郭になります。
永禄6年(1563)北条、武田連合軍が松山城攻めした時には、援軍のため上杉謙信が上越越えをして石戸城に逗留したといいます。
↑そこにある地図になります。
埼玉県選定重要遺跡となっています。
↑この道を挟んで左側が四の郭になります。
一の郭(左)と二の郭(右)間は急な下り坂で、トンネルに入って行くような感じです。
ここまで風景では戦国の城跡の印象がありませんでしたが、奥に入って行くと別世界になります。
↑一の郭に登ろうにもかなりの急坂です。
北側も東側も沼地となっており、北に向かってこの道は下っていきます。
↑東側にも沼があり、二の郭の北から東側に沿って、今では北本市自然遊歩道となっています。
そして、先には一夜堤があるといいます。
↑二の郭に向けてはやはり急斜面です。
↑その背中側は沼地です。
そして、沼と沼の間に通路があります。
城跡ですから土橋というべきでしょうが、これが一夜堤です。
永禄5年(1562)北条氏邦は、北条氏政の命により秩父・鉢形勢を率いて上杉方のこの城を攻め、時の城主毛利丹後守との激しい攻防戦があった時の話です。
↑東側は台地となっており、渡ってきた堤を振り返ると長さ45メートルほどの長さです。
この時氏邦は、暗夜に乗じて城の東側の谷地に、一夜にして土橋を築き一気に攻め上って勝利したという伝承があり、この土橋が「一夜堤」と呼ばれています。
↑再び桜堤通りに戻り、今度は北から南に一の郭のあったところを見ています。
見事に道路で分断されています。
また、晴れた暑い日だったためか、沼地の辺りから夕立ちが降ってきて、風景は一変してしまいました。
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