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2019年8月26日 (月)

霞川の水源に係るもう一つの説は平将門の後裔を名乗る三田氏が創建した天寧寺

前回は、青梅市の霞川の上流端から西へ鉄道公園や永山公園方向に向かいました。

風の子太陽の子広場内の池やその奥にある山々の谷戸が、霞川の水源となっているようでした。

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↑しかし、調べてみると、この「霞川上流端」との標識のある交通公園入口交差点から、川の水源は北の方角にあるという説もあるようです。

つまり、都道28号青梅飯能線成木街道の北の方向になりますから、霞川はここで直角に曲がっていることになります。

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↑北に向かい進んでいくと、道路下にあり見られなかった河の流れが、根ケ布交差点で都道から分かれる天寧寺坂通り沿いにありました。

さらに進むと、その天寧寺の総門の横を参道に沿って流れてくる水流があります。

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元々この地には平将門創建と伝えられる真言宗高峯寺があったといいます。

現在ここにある高峰山天寧寺は、領主でありすぐ近くの勝沼城主であった三田氏が文亀年間(1501〜1504年)に創建した寺院です。

この天寧寺の奥に霞川の水源の「霞池」があるというのです。

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↑総門から山道を進むと、山門は左にありますから、この川を渡ることとなります。

鐘楼にある大英元年(1521)に三田政定が寄進した銅鐘には、三田氏が平将門の後裔と記されています。

山門は楼門形式の立派なものです。

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江戸時代の宝暦10年(1760)のものです。

天寧寺境域は東京都史跡に指定されているといいますから、水源の池だけでなく、寺院内の建築物にも期待が膨らみます。

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↑中雀門は比較的新しそうながら、江戸時代末期の嘉永6年(1853)のものです。

天寧寺は江戸時代の伽藍建築が多く残り、中世以来の禅宗寺院構造を良く伝えているといいます。

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↑本堂(法堂)は宝永4年(1707)に再建されたものです。

伽藍の多くは元々茅葺でしたが、現在は銅板葺に改められています。

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↑川の流れの方は、住職の住居らしい立ち入ることの出来ないところから流れて来ています。

↓山門と中雀門の間に池がありますが、これが霞池ではないようですし、先程の川の流れとも繋がっていません。

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Google マップで見ると、確かに本堂の奥に池があるようです。

しかし、本堂の裏側に行くルートがありません。

隙間から見ても見えません。

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帰り際に、総門近くで見た霞丘陵風致地区案内板を見ると、中央右寄りの天寧寺辺りから左に向けて小布市川の流れは成木川へと繋がっていきます。

上の方にある霞川への流れは書かれていませんでした。

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現地調査の結果からは、風の子太陽の子広場説の方が有力に感じられました。

そうは言うものの、三田氏は青梅・羽村・昭島地域を鎌倉時代から戦国時代まで支配していましたが、あの新皇を称していた平将門の後裔とは

スケールが大きいし、霞川の水源が霞池というのは、如何にもという感じではあります。

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