茅ヶ崎城址は横浜市都筑区にあり中世城郭の空堀や土塁が良好な状態で見られる
茅ヶ崎城と言われれば、普通の人なら茅ヶ崎市にあると思いますが、しかし、なぜか横浜市都筑区にあったという城です。
ここにも茅ヶ崎という地名なので、この名がついています。
さらに、そもそも横浜市に都筑区なんてあったかなとも思いましたが、1994年(平成6年)に発足した比較的新しい区だそうです。
港北ニュータウンのある辺りといえば、場所のイメージがわかる方も多いことでしょうか、港北区の一部だったはずです。

横浜市営地下鉄のセンター南駅から歩車分離された自転車歩行者道を300~400mほど歩くと、小高い丘のようになっています。
↑ここが茅ヶ崎城址公園として中世城郭がとても良好な状態で保存されている所です。
南側の方から入口を探しましたが見当たらないので、西側に沿って行くと北に入口はあるようです
↑さすが、中世の山城らしく、入口からすぐに急な階段です。
もう一カ所がメインともいえる入り口で、そちらはもう少し先にありスロープとなっていました。
そちらから少し上ると、広い空間が広がっていますが、そこは北郭です。
「くるわ」はこのように郭と書いたり、曲輪だったりしますが、ここでは郭のようです。
ここには案内板があり、それによると、
茅ヶ崎城址は、空堀、郭、土塁などが良好な状態で残る貴重な中世城郭遺跡で、早渕川を北に望む自然の丘を利用して築城されているとあります。
14世紀末〜15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなり、16世紀中頃にはニ重土塁とその間に空堀が設けられましたとあります。
築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定されています。
北郭、中郭、西郭、東郭があるようですが、北郭は比較的低い位置になります。
次に、空堀だったところの通路を通り、西郭に向かいます。
↑折れ曲がった辺りに北側の城の入り口である虎口(小口)があったのではないかと推定されているようです。
虎口のところは狭い通路となっており、上から城の防御のための攻撃をしやすいようになっていました。
この先を右に曲がると、西郭になります。
こちらはあまり広い平場とはなっていませんでした。
西郭から南側に沿ってさらに進みますが、中郭との間の空堀とともに土塁があります。
空堀を掘った土を築いて堤にしたものが土塁なので、一体的に造られます。
土塁は大きい程、防御効果は高いといいますが、こうして見てみると、簡単に登れそうにも見えます。
発掘調査によれば、当時は70度という急な角度の斜面だったそうです。
また、雑草などが生えていなく、しかも水で濡らしたりして攻めにくくしていたようです。
↑左に上ると中郭、右に下ると東郭と分岐していますので、まず中郭に行きます。
↓中郭はかなり広い空間となっており、南側(左側)の土塁は二重土塁となっているようです。
この二重土塁というのは後北条氏独特のものといいます。
自分の側をこうして二段にすることで防御しやすくしているようです。
確かに単なる急斜面では攻撃側も苦労しますが、防御側もやり難いでしょう。
地面に何やらありますが、建物の遺構の位置を示してあります。
この公園こは説明看板が数多くあり、とても参考になります。
中郭は住居城だったのではないかと調査したところ、多数の柱穴、土坑があり、この遺構の位置には倉庫や土倉があったことがわかったようです。
居住していた建物は見つかっていません。
ここ茅ヶ崎城址は、まだまだ面白そうなところがあるので、次回に続きます。
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