武田徳川が争い、難攻不落の名城といわれた高天神城跡に行く
高天神城は、静岡県掛川市にある標高132mの鶴翁山を中心に造られた山城です。
「難攻不落の名城」や「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝で、小笠山の北を通る東海道を牽制できる立地条件にある重要な城であったため、徳川氏と武田氏が争奪戦を繰り広げました。
北側と南側に入り口があるようですが、今回は車で行ったので駐車場の数の多そうな北口から行きました。
のどかな田園風景の中に山があります。
高天神城跡は国指定史跡となっており、山の上には高天神社があり参道として、そしてハイキングコースとしても登れるようになっています。
しかし、土曜日の夕方に行きましたが、車は数台止まっていたものの、結局、山中というか城跡内では誰ともすれ違いませんでした。
まず、搦手門跡の方から登って行きます。
この城の北と東と南の斜面は、断崖絶壁という感じで、急な階段をハーハー息を切らせながら登っていきます。
その階段も三日月井戸のところでは、ヘアピンカーブのように曲がっており、いかにも攻めにくそうです。
室町時代に今川氏により築かれたとされ、今川氏の滅亡後、徳川家康の持ち城となり、小笠原長忠が城主となりました。
武田信玄が1571年(元亀2年)に攻めますが落とせず、1574年(天正2年)、信玄の息子・勝頼が二万の大軍で攻め、ついに開城させ、まず徳川方から武田方の城になりました。
↑少し平らなところがあり、かな井戸のある井戸曲輪跡に到着です。
ここを境に東峰と西峰に分かれています。
それぞれが独立した城のようになってますが、東峰と西峰を合わせて1つの城を形成する一城別郭式の縄張りとなっています。
では、東峰に登っていきましょう。
また階段です。
3年前に見に行った横須賀城を拠点に高天神城の奪還を目指すこととなりますが、長篠・設楽原の合戦に勝利した家康は、勢いづいています。
1577年(天正5年)ごろから周囲に砦(とりで)をつくって包囲し、城への補給路を断つ作戦に出ました。
城主岡部元信は武田軍の援軍を依頼したが勝頼は来ず、1581年(天正9年)年3月22日、家康が高天神城の奪還に成功しました。
↑登っていくと、やがて、少し広くなった本丸跡です。
ここが城内でも一番広い曲輪だそうですが、そうは感じられません。
東峰の一番高いところは、本丸の東南の御前曲輪です。
江戸時代に西の丸に移されるまでは、ここに高天神社があったことからと呼ばれています。
観光地化したいのでしょうか、周りの景色に似つかわしくないものがあります。
この天守台らしきものは、昭和9年から20年まで模擬天守のあった跡です。
そして、眼下には田園風景が広がっており、いかに高いところにあるかがわかります。
ここから東南に降りていくと、城の東端に三の丸跡があります。
土塁もあります。
ここは東方からの攻撃に備えており、見晴らしがよく利き、監視に使われていたようです。
さて、再び少し上ってから、また坂を下り、井戸曲輪のあったところまで戻ります。
ここから今度は西峰に行きますが、この続きは次回ご案内します。
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