日本初の木造で復元された掛川城天守閣
東海道新幹線に乗ると、左右どちらの窓側に座るか悩んでしまいます。
進行方向左側3人掛けの窓からは、海が見られます。
右側2人掛けの窓からは、富士山が見られます。
結局、右です。雲のかかっていることもありますが、この日は良く見えました。
新幹線から写真を撮るのは初めてでしたが、防音壁や電線や架線柱などがあり、意外と難しいものでした。
さて、この日は所用があって、静岡県掛川市に来ました。
昭和39年(1964年)開通から20数年間、静岡駅と浜松駅の間に新幹線の駅はありませんでしたが、昭和63年(1988年)に、掛川駅にもこだま号が止まるようになりました。
南口はどこにでもよく見かける、いかにも新幹線の駅という雰囲気ですが、こちらの北口は木造駅舎です。↑
昭和15年(1940年)に建てられたもので、新幹線停車駅としては唯一の木造駅舎だそうで、木造駅舎保存運動により、元の資材を活用して耐震化工事を行い、平成26年(2014年)1月26日に供用開始したとのことです。
ところで、電車で旅をするときは車窓を見ていて、様々な新しい建物が建ったりするのを楽しみに見ていますが、東海道新幹線に乗っていて、ある日当然、城が建ってびっくりしたことがありました。
これまでも、鉄筋コンクリート造で復元された城はありましたが、平成6年(1994年)に日本で初めて木造で復元されたという、掛川城天守閣です。
140年ぶりに再建されました。
戦国時代に駿河の守護大名であった今川氏が、遠江支配の拠点として重臣朝比奈氏に築かせたといわれています。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれると、永禄11年(1568年)義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠もりました。
徳川家康がここを攻めましたが、この時、井戸から立ち込めた霧が城を包み、攻撃から城を守ったという「霧吹き井戸」です。↓
長期にわたる攻防の末、和睦により開城され、家康領として重臣石川氏が入り、武田氏侵攻の防御の拠点となりました。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が全国平定し、徳川家康が関東に移されると、掛川城には秀吉配下の山内一豊が入りました。
山内一豊の妻が有名ですが、その一豊が天守閣をつくったのです。
では、そこに入ってみます。(入館料410円でした。)
確かに木造です。
青森ヒバを使っているということで、調達が大変で工事に時間がかかってしまったとのことです。
やはり、せっかく復元するのなら、鉄筋コンクリートよりも木造がいいです。
天守からは、南向きには掛川の街並みが一望できます。
江戸時代には、徳川家康の異父弟の松平定勝や子、太田道灌の子孫など譜代大名の居城として栄えました。
安政元年(1854年)の安政の東海大地震により、天守閣など大半が損壊し、一部を除き再建されることなく、明治維新を迎え廃城となりました。
当時、江戸時代の終わりころですが、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて、御殿、太鼓櫓などは再建されました。
↑江戸時代に再建された太鼓櫓
御殿から天守閣を見ると、美しいです。
東海の名城と謳われていました。
国重要文化財である御殿も見てきましたが、続きはまた今度。
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