7世紀の東山道武蔵路
大化の改新より後の7世紀後半、だいたい天智・天武天皇の頃、日本全国を五畿七道(都のある近畿5か国と7つの行政府)に分け、諸国の国府と都への行き来のための道路網が整備されました。
その遺跡が国分寺市の西国分寺駅近くにあります。

↑小学校の跡地の一部ですが、両側の芝生のない部分が、当時の道路の側溝があったところで、道幅は12mになります。

東山道武蔵路です。
東山道は、都から東海道と北陸道の間の山中の国々が属しており、そこを結ぶルートですが、東京都と埼玉県のある武蔵国は東海道に属しているはずです。
なぜ、東山道なのか不思議ですが、当初は行政区としては東山道に配属されていたそうです。
上野国(今の群馬県)新田から武蔵国府へ結んだ支路が、東山道武蔵路です。
北へ少しに向かってみると、旧国鉄中央鉄道学園跡地でも、遺跡が残されています。

↑300mほどの距離が広い歩道となっており、点字ブロック以外の両端に色のついた部分が側溝跡が発掘されたところです。
12mの道幅は、7世紀に人馬が行き来するための道としては驚く幅です。
これが全国にあったわけですから、すごいことです。
側溝は底面が一定でなく、ところどころ途切れているため、現在のような排水のための側溝ではなく、道路幅を明示するものだったようです。
この中央鉄道学園跡地には団地や都立公園などがありますが、空いてる空間もあります。
何ができるのでしょうか。

ここは、都立多摩図書館建設予定地です。
現在は立川市にあって、マガジンバンクとして雑誌を重点的に取り扱っていますが、老朽化によりこちらに移転建替をするとのことで、平成28年3月開館予定です。
まあ、こうした遺構のあるところに図書館というのは似合っているかもしれません。
この道路跡の歩道を、車道が斜めに横切った先にある、情報通信政策研究所と日本芸術学園の間の道にも、側溝跡が残されています。

さらに、ここには谷部へ下る切り通し部分の側溝レプリカもあります。

これらの道路には約16kmごとに駅家(うまや)が設けられ、各駅家で駅馬を乗り継ぐことによって、中央と地方の情報伝達などに利用していたそうです。
さらに、JR中央線を渡った北側の公園の中でも、側溝跡が発掘されました。

これら3か所は、国史跡に指定されています。

やはり、この東山道武蔵路を往復することは不便であるということで、771年に武蔵国は東海道に所属替えとなりました。
よって、この道の駅家の機能はなくなりましたが、平安時代終わりまで、道としての機能は残っていたそうです。
そう言われると、鎌倉時代以降はどうなのかと不思議に思いますが、この道から少しだけ離れたところにほぼ並行して、新田義貞も通ったという鎌倉街道がありますから、そちらが道の機能は果たしたのでしょう。
※ 旧鎌倉街道については、こちら

同じ東山道武蔵路跡が発掘された所沢市東の上遺跡と国分寺市の遺跡を直線で結んだ線上では、小平市や東村山市でも遺構は発見されたようです。
あれば見てみたいと思い、遺構があったとされる辺りを少し走って探してみましたが、保存はされていないようです。
この日の走行距離は31.77km、平均時速は18.44km、消費カロリーは804kcalでした。
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