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09西多摩

2024年12月 1日 (日)

多摩川沿いの浅間岳の浅間神社とどこにあるのか満地峠

多摩川左岸にある羽村市ですが、右岸側に羽村市郷土博物館があります。

地図を確認すると、多摩川の南側である右岸にも少しだけ羽村市域があるようです。

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そんな博物館前からまずは羽村草花丘陵自然公園にある浅間岳に向かいます。

多摩川沿いのこの辺りは標高128メートルです。

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草花丘陵というイメージとは違う、木々に囲まれた細い急坂を登ります。

↑雨の時は水がかなり流れるようで、砂防ダムがいくつか設置されています。

既に土砂でいっぱいです。

急斜面とはいっても時間的には短くて、20分ほどで羽村神社があります。

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創建は不詳ですが、富士浅間または琴平社と呼ばれていました。

明治時代になって、秋葉社を合祀して羽村神社となりましたが、浅間さまと呼ばれています。

ここは崖の上から多摩川を見下ろせます。

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東京都環境局ホームページでは「4つの段丘の緑の森」が見えるとあります。

浅間岳頂上まではすぐでした。

標高235メートルで東屋やベンチもいくつかあります。

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何組かの人が来ており昼食や休憩などしています。

途中すれ違いませんでしたが、結構人気があるようです。

羽村のコースは、多摩川沿いを下流側に向かうような方向に大澄山へと続きます。

ここからどちらに向かうか迷いましたが、大澄山は逆の南側からとはいえ10月に行きましたから、今回は1、3キロ先の満地峠を目指します。

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2024年10月27日 (日)

水にぬれて狭く通るか躊躇する手掘り隧道の先にあった金剛の滝

小峰公園はあきる野市にある都立公園です。

ただ都立公園の一般的なイメージとは違い、ちょっとした山登りをすることができます。

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↑標高206メートルの小峰ビジターセンターから小峰公園に入り、まずは公園内の桜尾根を登っていきました。

公園の南西端で既に標高336メートルに達しており、園内最高地になりますが、眺望は全くなく木々の中です。

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↑ちょっと疲れてしまいましたが、センターでもらったハイキングコース図によると序の口のようです。

林の中を進んでいくと、急に南に視界が開け、東京電力の新多摩変電所の大規模な施設が隣接していました。

すれ違った人から、この先トレランやってますよと言われましたが、あまり気にせず歩いていました。

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ほかの道との合流地点のところで、トレイルランのランナーが登坂を向こうから走ってきます。

しばらく、通り過ぎるのを待っていましたが、何十人行ってもさらに走ってきます。

やむを得ず、狭い道ながらすれ違いながら進むことにしたら、途中で立ち止まるランナーさんがいて

「ハイカーさん通ります」と後方に大声で伝えてくれました。

その後は、皆さんスピードを遅くしてすれ違えるようにしてくれて有難かったです。

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↑次の分岐からはランナーもいなくなり、案内表示に従い急な下り坂を降りて行くと砂防ダムがあります。

その先の小川を跨ぎ、逆川を上流に向けて砂利の川原を進みます。

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水量が少なく端の方を流れていますが、大雨の時は普通の靴で歩けないでしょう。

両側は切り立った岩壁です。

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↑金剛の滝が見えてきました。

滝のすぐ右には穴が開いていて、人1人は通れそうですが中は水が少し流れたり垂れたりしています。

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2024年10月20日 (日)

地理院地図で大書きしてある大澄山と草花にある草花神社

国土地理院の地図はホームページでも地理院地図として見ることができます。

多摩川沿いのあきる野市に「大澄山」と大きな文字で記載がされています。

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あまり聞いたことはないけれど、あえて目立つ書かれ方をしてあるので行ってみました。

草花という地名ですが、以前は草花村だったということで、のどかな風景を想像させるいい名前です。

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↑南から北への坂道と先の長い階段の上に草花神社があります。

奥多摩に近づき標高がどんどん高くなっていく中、多摩川と平井川に挟まれている地形のため、急坂が多く見られます。

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↑石段途中で右に向かい大澄山に登るルートと分岐しています。

まずは草花神社に行きました。

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高いところにありますから古くからこの場所にあるのだろうと思いましたが、江戸時代までは麓にあったものが明治2年(1869)にこの地に移ることとなったそうです。

十二天社でしたが、四社を合祀し草花神社として村社になったということです。

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↑坂の下で標高150メートルでしたが、この境内では170メートル以上となりますから、南から南西を遠くまで見渡せます。

平井川の流れているところは130メートルほどです。

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2024年10月 6日 (日)

昭和天皇手植えの枝垂れた杉のある和田乃神社と臨川庭園

青梅駅から先はいきなりローカル線らしくなるJR青梅線で菅谷、一つめには宮ノ平駅があります。

この駅名の由来にもなった和田乃神社が国道411号青梅街道沿いにあります。

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青梅市日向和田2丁目で、古くはここは和田村でした。

和田村の総鎮守として和田明神でしたが、慶長3年(1598)には日向和田村と日影和田村に分村し、和田明神から三島明神と改称しました。

明治維新の際、和田乃神社となりました。

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↑ここには昭和天皇の手植えの杉があります。

戦後のことかと思いましたが、大正2年(1913)に在学中の皇太子であった昭和天皇であったということです。

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枝垂糸杉ということで、枝垂れている杉は見たことありませんでした。

すぐ近くの日向和田石灰石採石場を見学の際に、和田乃神社にも来られたとのことです。

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江戸時代には三島明神といっていたのは、静岡県の三島神社の分神を賜っての創始であるからということのようです。

境内には道を挟んだ向こうに土俵があります。

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奉納相撲の始まりは、江戸時代初期の寛文年間(1661〜72)といい、日向和田と日影和田に分村してた頃です。

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2024年8月25日 (日)

南一揆の逃げ込み城であり北条氏の伝えの城になった網代城跡

あきる野市の網代弁天山から、次に網代城跡がある城山を目指して歩きます。

標高292メートルから数十メートル下った先、再び登り坂となるところは城の空堀かと思われましたが、実は自然の地形のようです。

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この先の城山頂上にある説明板によれば、網代城は15世紀中頃の「南一揆」による山城だということです。

大手道であるこの斜面を登っていくと、少しだけ平らなところがあり、郭のようです。

通り道が鍵型に曲がっていますが、初期の枡形であり、木戸跡もあるようです。

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当時、農山村民らの指導者であった地侍が各地に村単位の自営権力を保持していました。

ここでは、南一揆と呼ぶ武装集団を成立させ、この山城もできたといいます。

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↑少し登っていくと、再び郭でしょうか。

すぐ先、標高330メートルのところが頂上で、広く平らになっています。

ここが網代城の本丸があったところで、長さ35メートルほどの広い空間です。

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説明板によると、ここ網代城は戦国時代の山城にある戦いのための城というイメージとは少し違うようです。

領主の重税から逃れる逃散の場であったいい、また逃げ込み城としての役割であったということです。

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ここにある説明だけではわからない点もあり戻って調べてみると、これと同じ中世城郭研究家の中田正光氏の解説が、あきる野市HPにありました。

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2024年8月18日 (日)

貴志嶋神社洞窟と岩山の網代弁天山と山頂景色

あきる野市の網代弁天山に登ってきました。

JR五日市線武蔵増戸駅方面からは秋川を渡るのですが、網代橋は令和元年の台風の影響で車だけでなく歩行者も通行止めとなっており、山田大橋を渡って行きます。

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秋川の橋の辺りの標高は150メートル程で、貴志嶋神の石段前のところで既に235メートルになります。

足利尊氏ご母堂の守護神として勧請されたといいます。

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平成31年4月(2019年で令和元年になる直前)には、30年に一度という弁天像等のご開帳が行われたそうです。

すぐ近くには弁天洞窟があります。

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左側のハート形というか逆三角形の洞窟が奥まで続いているようです。

貴志嶋神社奥の院ということになっています。

あきる野市指定文化財となっている石造大黒天像があり、文明9年(1477)の紀念銘が刻まれています。

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洞内には毘沙門天石像(無銘)もあり、主尊としての弁財天像もあったと推定されています。

中世以来の弁財天信仰の証としても貴重だといいます。

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2024年7月14日 (日)

白丸ダムでの東京都交通局の電気事業と売電先、東京発電の氷川発電所

前回見た鳩ノ巣渓谷を眺めながら多摩川を上流に向かって、右岸である右側を歩いていきました。

ここは「大多摩ウォーキングトレイル」として古里駅から奥多摩駅まで整備されており、随所に矢印表示板があって道もわかりやすくなっています。

川面の近くから急坂を登り、また少し坂道を下ると白丸ダムがあります。

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かなり前に車で立ち寄ったことがあり、いつだったか確かめてみたらもう9年前のことになります

せっかく久しぶりに来たので、対岸の左岸側に渡ってみました。

ここは白丸調整池ダムという高さ30メートル、長さ61メートルの東京都交通局のダムです。

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「エコっと白丸」という再生可能エネルギーPR館が新たにできていました。

今回改めて調べ直してみると、白丸ダムは多摩川第三発電所への水を貯めるダムですが、ここに白丸発電所もあります。

(↓東京都交通局HP)

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河川機能維持と観光のために平成12年(2000)までは行われていた放流水の有効活用のために建設されたのが白丸発電所です。

周辺の環境に配慮して地下に設置されていますから、あまり発電所に気付きません。

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↑ダムの上から下流側を覗きこむと、左の放水口があり水が出ています。

その奥に見える階段状のものは、魚が上流に戻るための長い長い魚道です。

9年前にはらせん階段を下り、中まで見学しましたが、お魚さんも大変なことです。

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↑展望台から景色ですが、最初の写真で右上に写っているところで、ここからはダムの全体像がよく見渡せます。

そしてこの展望台の真下の地下に白丸発電所があるということで、発電の最大出力は1100キロワットです。

ダム沿いには上流に向かいダムの管理用としての道があり、大多摩ウォーキングトレイル遊歩道として開放されています。

しばらく前(令和6年3月)までは工事のため閉鎖されていたといいますから、通行できて良かったです。

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2024年7月 7日 (日)

鳩ノ巣渓谷とその名の由来と双竜の滝、水神の滝

多摩川上流部に鳩ノ巣渓谷があります。

JR青梅線に乗っていくと、青梅駅から先は電車の運行本数も少なくなり、編成も短くなりますが、多摩川沿いの南側車窓の景色は素晴らしく、山や川そして様々な橋を見て楽しめます。

鳩ノ巣駅で下車すると、すぐ前には雲仙橋が架かっています。

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通行車両は車幅2.2メートル、重量2トンに制限された、大きくはない橋ですが、両端には鳥居のようなゲートのような高い構造物があります。

何かと考えましたが、おそらく以前はここは吊り橋であったものが老朽化等により改修工事され、そのワイヤーの支柱が残されたものでであろうかと思われます。

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多摩川左岸側を川へ下っていくと、双竜の滝という案内板があり滝音が聞こえてきます。

駅のすぐ近くにありながら意外と大きな滝で、落差18メートルほどあります。

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滝口のあるとんがり岩で二分された流れが、浸食された溝で一本になる形から名付けられたと言いますが、2本というかは微妙な感じです。

↑滝のすぐ上部には青梅線と並行している国道411号の橋があり、自然と人工物の不自然な調和が見られます。

かつてはこの滝や鳩ノ巣渓谷は観光地として栄えていたようで、廃業された旅館らしき建物の間を縫うように下っていくと、水神の滝があります。

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こちらは高低差はあまりありませんが、水量があるので滝音は迫力があります。

多摩川のすぐ横で鳩ノ巣渓谷が見えていますが、この滝の前にはそそり立った岩山のようになっています。

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鳩ノ巣渓谷の説明板があり、鳩ノ巣という名の由来も書かれていました。

江戸時代の明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」による江戸の街の復興のため、奥多摩の木材が多数伐採され、多摩川により江戸まで運ばれました。

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ここには上流から一本流しで来る丸太の貯木場があり、そのための人夫が寝泊まりする飯場小屋が建てられました。

そして、飯場に祀られた水神社の森に二羽の鳩が巣作りしたといいます。

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2024年4月 7日 (日)

水面に浮かんでいるようだという浮島神社と他県に迷惑かけないための霞川調節池

霞川という一級河川が東京都に流れていますが、都内であまり知名度は高くないでしょう。

青梅市に流れており、埼玉県に入り入間川に流れ込む川です。

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そんな霞川沿いに浮島神社があります。

川の左岸で青梅市今井にあり、山根通りに面して一の鳥居があり、参道を入った正面が霞川です。

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二の鳥居から川に沿うように直角に参道は曲がり、正面が社殿です。

↑傍には少し高くなった位置に東屋があり、休憩したり霞川を眺めたりできるようになっています。

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浮島神社は創建年次は不詳ですが、安土桃山時代の文禄3年(1594)に再建されたという記録が残っています。

江戸時代の新編武蔵国風土記稿には浮嶋天満宮として載っています。

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その記載に、霞川が氾濫した際も沈まず水面に浮かんだ島のようだということで呼ばれたとあります。

↑そのことからか、社殿裏側には小さな池があり、弁天様と思われる祠がありました。

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2024年1月21日 (日)

多摩川沿いの新春飾りがまだあった阿蘇神社の古くからの由緒

多摩川サイクリングロードの上流端ともいえる羽村取水堰のあたりのことです。

左岸側をさらに少し進むと鳥居があります。

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↑阿蘇神社があり、都重宝とも書かれています。

参道とはいっても林多摩川沿いなのに林の中の古道のようないい雰囲気のところを300メートルほど進みます。

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↑用水路を渡り、多摩川の流れが再び見えたところに阿蘇神社入り口があります。

鳥居があり石段を少し登った先に本殿が見えます。

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阿蘇神社は以前は阿蘇大明神、阿蘇宮といい、創建は推古天皇9年(601)と伝えられています。

平安時代の承平3年(933)には平将門が社殿を造営し、天慶3年(940)には藤原秀郷が社殿を造営したといいます。

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藤原秀郷といえば、新皇を称した平将門を討った武将です。

両者とも阿蘇神社を余程重視したのでしょう。

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藤原秀郷がお手植えしたシイが本殿左にあり、東京都指定天然記念物になっています。

手前の木だとばかり思っていたのですが、奥だということで、残念ながらアップで撮影した写真はありません。

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