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08北多摩南部

2024年4月21日 (日)

多摩川に翻弄された青柳村の常夜燈と稲荷神社、どちらかわからない青柳2号墳

平成19年(2007)に日野バイパスができるまでは国道20号として甲州街道であった、都道256号八王子日野線沿いの国立市青柳に「元青柳村の常夜燈」があります。

江戸時代の寛政11年(1799)のものです。

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常夜燈とは聞き慣れたものですが、案内板によれば、秋葉燈とも呼ばれるということで、江戸時代に町を火から守るために油屋近くに建てられたものだそうです。

秋葉というのは火伏せの神である秋葉神社への信仰です。

常夜燈といいながら形は石灯籠です。

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↑甲州街道沿いですから、現在の街灯の役割だとばかり思いましたが、関係あってか無くてか、脇には鳥居があります。

多摩川や府中用水のある南に向いた道の左右には民家への入り口があり、この参道は古くから地元に使われていたことがわかります。

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↑車は通れない参道の先に二の鳥居があり青柳稲荷神社です。

宝暦5年(1755)に創建されたといいますが、ここに青柳村が存在するにあたって重たい経緯があったそうです。

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青柳は昔から多摩川北岸のここ国立市青柳にあったわけではなく、多摩川南岸の現在の府中市本宿の青柳島にありました。

寛文11年(1671)多摩川の大洪水によって青柳島が流失したため、村人たちは四ツ谷村を経てこの地に移住し、新たに青柳村を開拓したということです。

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国立市石田も同じ時、府中市石田から移住してきたようです。

青柳稲荷神社は青柳と石田の鎮守でした。

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2024年4月14日 (日)

多摩川で隣り合う府中用水取入れ口と緑川排水樋管

多摩川左岸側の桜咲く土手に水門があります。

感覚的には立川市かと思っていましたが、国立市青柳のようです。

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実は府中用水取入れ口がここにあると来たのですが、ちょっと違うようです。

緑川排水樋管と書かれています。

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川辺の方から見上げてみると、割と大きなものです。

高低差からして取水するためのものでないのは一目瞭然です。

もう4年前になりますが矢川緑地の湧水を見た時にあった擁壁は緑川の暗渠によるものでした。

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↑土手から振り返ると道路になっていますが、この下に緑川が流れているのです。

緑川といいますが、昭和22年(1947)に開通した人工の立川排水路だったものです。

旧陸軍立川飛行場の排水のためのもので、現在は暗渠化されており、立川市環境下水道部下水道管理課が管理しています。

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↑河原に戻ると、緑川排水樋管のすぐ上流にも水門らしいものがあります。

こちらが府中用水取入れ口のようです。

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2023年12月24日 (日)

国分寺崖線西端の国分寺市西町にある西向きの西町神明社と中藤公園

国分寺崖線は、古代多摩川が南へと流れを変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘の連なりで、30キロほどあります。

立川市ではほとんど高低差はありませんが、国分寺市からは崖線らしい高低差があり、東南に向け大田区田園調布まで続きます。

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↑その国分寺崖線の西端となるところに西町神明社があります。

村社神明社と刻まれた石碑があります。

この付近はかつて中藤新田と称されおり、江戸時代の享保年間(1716〜35)に新田開発と考えられています。

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ここに限らず北多摩地区を巡っていると、至るところで享保年間の開発地があると感じられます。

学校で習う享保の改革が実際にあったことが実感できます。

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本殿拝殿などの建築は昭和3年(1928)ということです。

社殿は西向きに建てられており、石段から鳥居を振り返ってみると、さらに西向きの道が延びています。

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国分寺崖線もこの辺りでは既に10メートルほどの高低差があります。

崖下正面の道は崖線に沿うように少し曲がりながら進む道です。

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2023年6月 4日 (日)

昭和用水の流れからの原水補給ポンプ所と龍津寺の湧水の流れ

前回、多摩川からのかつて九ヶ村用水、そして昭和用水の取水堰を見てきましたが、その昭和用水を少し辿ってみました。

まずは、多摩川に対して垂直方向に左岸の河川敷内を流れていきます。

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土手の下を通ったところからは多摩川と並行に沿う方向に流れていきます。

周囲は木々が生い茂った林のようになっていますが、用水沿いに狭い道があります。

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すぐに左手は啓明学園のグラウンドになります。

350メートル程で一般道に出て視界も広がります。

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右には廃校となった昭島市の拝島第四小学校校舎があります。

左には東京都水道局の施設があります。

昭和用水から取水されて勢いよく水が流れ込んでいました。

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正面入口の看板を見てみると、拝島原水補給ポンプ所となっていました。

何なのかと思い戻って調べてみると、昭和用水堰からの水を玉川上水に補給するための施設のようです。

その裏側にある、左に登っている道の下に導水管があって、水をポンプで汲み上げて北に流れている玉川上水に補給するため送っているようです。

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水道局の資料によると、昭和用水が灌漑用水として必要となる期間を除いた、10月から4月だけに補給は限定されています。

また、原水というのは、飲む水になる水道水へ処理する前の水ということのようです。

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2023年5月28日 (日)

多摩川にある九ヶ村用水取水口と昭和用水堰とその名の由来

多摩川左岸を上流から行くと、福生市熊川から昭島市拝島町との境界を越した辺りに、現在は使われていない樋管があります。

九ヶ村用水樋管で九ヶ村用水の取水口です。

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九ヶ村とは、現在は昭島市になっている拝島、田中、大神、宮沢、中神、築地、福島、郷地の各村と立川市になっている柴崎村のことです。 用水の樋管は明治44年(1911)に築造されたものです。

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九ヶ村用水は室町時代に用水路の原形が作られていました。

江戸時代の延宝元年〜8年(1673〜80)には完成したと言われています。

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↑昭和の初めには、多摩川の水量が減って取水が困難となったことから昭和用水堰が造られました。

昭和8年(1933)のことで、こちらは200メートルほど下流になり、手前側が取水口になります。

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水量が減ったといいますが、村山貯水池、山口貯水池である多摩湖、狭山湖が完成した時期であり、このために上流での取水量が増えたのでしょう。

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↑堰が造られたのは秋川と合流するところで、奥から流れてくるのが秋川で右からの流れが多摩川です。

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2022年5月22日 (日)

狛江駅前の森と弁財天池と鐘楼の美しい泉龍寺

ある程度の規模のある駅、市のターミナル駅前には駅前広場があり、銀行や商業施設などの建物があります。

どこへ行っても大抵同じような景色となっていますが、狛江駅前は違います。

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駅前広場はありますが、その目の前にこんもりとした森があります。

ここは「狛江弁財天池特別緑地保全地区」と東京都に指定されています。

全体の面積が2、1ヘクタールとなっています。

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都市計画道路に一部なる予定であったものが、市民運動等により残されることになったようです。

その名の通りここには弁財天池があります。

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天保5年(1834)と7年に刊行された『江戸名所図会』にも弁財天池の伝説が記されています。

奈良の大仏の開眼供養を行った良弁が干ばつのため雨乞いをすると、竜蛇があらわれて雨を降らし、その時に湧き出た「霊泉」が弁財天池だといいます。

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池の南側には福徳弁財天の石祠もあります。

また、北側には聖観音菩薩像もありました。

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特別緑地保全地区の面積は2.1ヘクタールあります。

この面積には西に隣接している泉龍寺も含まれています。

また、保全・回復ゾーンとしての管理区域もあるようで、そこには入り口に門扉があり閉鎖されています。

 

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2022年5月15日 (日)

人見街道という名称とそこから長い参道の先にある人見稲荷神社

杉並区浜田山から府中市まで続く人見街道は、ちょっと不思議な名前だと思っていました。

杉並区や三鷹市内に比べて府中市内では道幅も狭くなっていますが、多磨霊園南側辺りの交差点脇に名称由来について書かれた案内板がありました。

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かつて人見街道沿いに人見集落があり、現在の若松町三丁目、四丁目だとのことです。

この辺りでは現在の街道もかなり道幅は狭くなっています。

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センターラインもない道で都道であるとは思えない感じです。

そこから北へ向けての人見稲荷神社の参道があります。

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街道沿いに人見集落があったのは近世以降のことで、さらに以前は浅間山麓の近くだったとのことです。

それと関係あるかはわかりませんが、参道は北へと続きます。

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↑100メートルほどで道路を横切りますが、参道は畑などの間をまだ進んでいきます。

さらに100メートル以上進むと一部だけ開通した都市計画道路を渡り、さらに進んでいくとまた道路を渡り、ニノ鳥居があります。

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人見稲荷神社は、武蔵国造兄武比命を祀った六所宮客来三所之神と呼ばれていました。

調べてみると、同じ府中市内にある大國魂神社が六所宮であり、そこに集まる三ノ宮である大宮氷川神社の御旅所とありました。

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2022年1月16日 (日)

玉川上水からの小金井分水と元禄年間に築かれた山王窪の築樋

五日市街道と新小金井街道の茜屋橋交差点から玉川上水の流れるの東に向けて進むと、右岸側で南東に向けた道があります。

江戸時代の承応3年(1654)には玉川上水ができると、各村から分水の要望が出たといいます。

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↑なんか斜めの向きに興味を惹かれ行ってみました。

因みに角には囲まれた水道施設らしきものがありますが、都水道局の貫井北五号水源です。

そして、道の方はやはり分水の跡だったようです。

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↑元禄年間(1688~1704)に幕府から許可され小金井分水が開通しました。

八尺四方(24センチ)の樋口で玉川上水から水を取り入れていたといいます。

明治3年(1870)から5年までの間に玉川上水は通船できるようにしたことがあるため、その支障となることから水の分水はここにある砂川用水からとなりました。

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↑現在も水路があるのは砂川用水で、小金井分水は交差している道路の方です。

しばらく進むと道沿いに貫井北六号水源もありました。

この辺りは水がないから用水を引いてきたのに、地下水が豊富があるというのも不思議な話です。

深く井戸を掘る技術が進化したからということなのでしょう。

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↑さらに進むと東に向きを変えて水路が見られます。

また水路は南向きとなりますが、地形が変わってきて右側(西)の公社小金井本町住宅の団地の方は地面が低くなっています。

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小金井分水の水路に沿っては道があり、途中には右の住宅団地の方から上がってくる道があるように、高低差はあります。

その先は山王窪という窪地になります。

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2021年2月 7日 (日)

国立市ではなく府中市にある谷保天満宮発祥の地と用水路と大山道

受験のシーズンとなりましたが、学問の神様という菅原道真を祀った天神様に参拝する人は多くいます。

東京では湯島天満宮(湯島天神)、亀戸天神社、次に谷保天満宮が有名でしょうか。

府中市日新町にさほど広くは無いものの、赤い旗や鳥居の目立つ神社があります。

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日新稲荷神社ですが、ここには気になる碑がありました。

キレイに磨かれた石なので、光が反射して見づらいですが、「谷保天満宮発祥之地」と書かれています。

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菅原道真は昌泰4年(901)太宰府に左遷された際、同時に4人の子供達も左遷や流罪となり、 第三子の菅原道武は 武蔵国多摩郡に流されました。

父道真が2年後に太宰府で没し、延喜3年に道武は父の像を祀ったのが 谷保天満宮の創建とされています。

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道武の子孫は津戸の姓を名乗り,鎌倉時代に源頼朝に仕えていた津戸三郎為守が、治承5年・養和元年(1181)にある神社を国立市谷保に遷したといいます。

日新稲荷神社だけに書かれているのでなく、谷保天満宮公式HPにありますから、ここが発祥の地のようです。

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府中市と国立市の市境を跨いで移転していますが、当時はそんな市はありませんから当然なのでしょう。

また、谷保天満宮はヤホではなくヤボと読むことをはじめて知りました。

ところで、最初の写真の左端には蓋掛けされた水路があります。

ちょっと100メートルほど上流の都道20号府中相模原線(府中四谷橋への道)沿いを見てみました。

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2021年1月31日 (日)

立川市緑町の不思議な神社と高松町にある熊野神社の戦争をめぐる繋がり

立川駅北口には立川基地跡の広大な敷地があるため、数多くの政府系機関や近年ではIKEAなどの商業施設も建てられています。

その緑町の「自治大学校国立国語研究所」バス停の前には、ちょっと不思議な神社らしきところがあります。

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フェンスに囲まれており、社号標などはありませんが、「熊野神社」という名で関係者以外立ち入り禁止と書かれています。

唯一ともいえる倉庫のような建物があります。

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奥には熊野神社の鳥居と祠のみあります。

さらに奥の方に見えているのは、多摩都市モノレールの高松駅です。

調べてみると、500メートルほど東にある熊野神社が元々あったところのようです。

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↑それは、高松バイパス沿いの高松町にある熊野神社で、立川熊野神社とも言われています。

武蔵野によくあるように、この辺りは江戸時代の享保年間に柴崎新田として開発され、当初は7軒しか家がなく、七軒家と言われていました。

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この新田の鎮守として、先程のところに享保11年(1726)創建された神社です。

↑当時は考えもしなかったでしょうが、手水舎ではコロナ感染予防策で柄杓はなく水が流しっぱなしにされています。

そもそも、神社がどうして移転したかも気になるところです。

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