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神社

2024年9月15日 (日)

読めないけど延喜式にも載る大麻止乃豆乃天神社のある大丸

稲城市にあったという大丸城跡を1年前に見ました

その城跡のある公園には、はるか下の方に向かう長い階段があり、[「大丸神社近道」と書いてあるのは知っていたのですが、行くと再びここを上って来なければと考えて、行ってはいませんでした。

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最近は、自分の体のことも考え、なるべく登り坂や階段には積極的に挑戦するようにしています。

今回はここもあえて下ってみました。

といっても、標高84メートルから42メートルほどのところに行っただけです。

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↑大丸神社というのかと思いましたが、鳥居には「大麻止乃豆乃天神社」とあります。

数多くののぼり旗にも書かれていますが、なんと読むのでしょう。

よく見ると参道右にひらがなで大きく、「おおまとのつのてんじんじゃ」と書いてありました。

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鳥居から先の石段も進むと社殿があり、63メートルほどのところで、大丸城のあった丘の中腹に位置します。

大麻止乃豆乃天神社の創建年代は不詳ですが、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されているといいます。

これまでもいくつか見てきた、多摩郡八座のうちの一社、大麻止乃豆乃天神社の論社とされています。

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ただし、武蔵御嶽神社も論社とされており、そちらの方が有力ともいわれています。

大丸の方は江戸時代には、丸宮社・丸宮明神と称していました。

「おおまとのつ」とは「大きく丸い平地にある船着き場」という意味ではないかと考えられています。

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2024年8月18日 (日)

貴志嶋神社洞窟と岩山の網代弁天山と山頂景色

あきる野市の網代弁天山に登ってきました。

JR五日市線武蔵増戸駅方面からは秋川を渡るのですが、網代橋は令和元年の台風の影響で車だけでなく歩行者も通行止めとなっており、山田大橋を渡って行きます。

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秋川の橋の辺りの標高は150メートル程で、貴志嶋神の石段前のところで既に235メートルになります。

足利尊氏ご母堂の守護神として勧請されたといいます。

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平成31年4月(2019年で令和元年になる直前)には、30年に一度という弁天像等のご開帳が行われたそうです。

すぐ近くには弁天洞窟があります。

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左側のハート形というか逆三角形の洞窟が奥まで続いているようです。

貴志嶋神社奥の院ということになっています。

あきる野市指定文化財となっている石造大黒天像があり、文明9年(1477)の紀念銘が刻まれています。

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洞内には毘沙門天石像(無銘)もあり、主尊としての弁財天像もあったと推定されています。

中世以来の弁財天信仰の証としても貴重だといいます。

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2024年6月16日 (日)

昭和、明治に次ぐ長期の応永年間からの鰐口もある南畑八幡神社

埼玉県富士見市にある南畑八幡神社に行ってみました。

南畑は富士見市東部の荒川と新河岸川に挟まれた水田の広がる地区になります。

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応永7年(1400)に、足利満兼がこの地を鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進して社領となり、分祀奉斎した時の八幡社だといいます。

足利満兼とは知っていそうで知らない名前ですが、第3代関東公方でした。

室町幕府の足利将軍ではなく、むしろ当時の関東公方と京都の将軍家とは緊張関係にありました。

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ここには八幡社に奉納された鰐口があり、同じく応永年間の銘文の刻まれており、富士見市指定有形文化財となっています。

鰐口(ワニグチ)とは、神社仏閣の堂前にある参詣者が綱で打ち鳴らす大きな鈴のことです。

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応永年間は1397〜1432年までの35年間に及ぶ長さです。

明治時代からの一世一元の制より前までは、元号は期間の短いものが多く、それまでで最長となります。

つまり、昭和と明治に続いて歴代3番目の長さということになります。

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すぐ近くには8年前に見てまわった難波田城跡があります

南畑八幡神社は、天文年間(1532〜55)には難波田城主の難波田弾正が篤く崇敬したといいます。

先程の鰐口にも難波田弾正によって再奉納されたという銘文も刻まれています。

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明治時代には下南畑村の村社となっています。

↑本殿は昭和16年(1941)に川越中学(現高校)内に建てられた奉安殿を移築したものです。

奉安殿は室岡惣七が設計したもので、入間市の旧石川組製紙西洋館や川島町の遠山家住宅を設計した建築家です。

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↑境内社が多くあり、右から稲荷社、八雲社、御嶽社、琴平社、庚申社、天神社と並びます。

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↑境内には多くの立派な木々がありますが、盆栽のような松の木もありました。

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2024年6月 2日 (日)

金子十郎家忠に関わる入間市木蓮寺の瑞泉院と桂川神社

JR八高線金子駅近くの入間市木蓮寺には、地図でみる限り木蓮寺という寺院は見当たりません。

木々の中にあり、寺社のどちらであろうと立ち寄ると、桂川神社がありました。

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上州の赤城神社を勧請したもので、金子氏館の鬼門徐けとして金子十郎家忠によって建立されたといいます。

平安時代終わりから鎌倉時代初期の頃のことです。

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近くにはJR八高線の金子駅がありますが、金子氏とは武蔵七党の一つである村山党に属していた武士です。

村山頼家の三男家範が、ここ入間郡金子郷を本貫地とし、金子氏を称したことが始まりだといいます。

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家範の子である十郎家忠(1138〜1216)は、源義朝に従い、保元・平治の乱に参陣しました。

その後も衣笠城攻や源平合戦にも参陣しました。

↑桂川神社の裏側は斜面で高くなっていますが、数多くの墓石の並ぶ大規模な墓地となっているようです。

行ってみると、入間霊園とともに、看板には公益財団法人瑞泉院メモリアルアカデミーと書かれています。

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↑石柱には金龍山木蓮寺瑞泉禅院とありますが、瑞泉院は既に廃寺となっているようです。

「入間市指定文化財 金子十郎家忠一族宝篋印塔入口」との看板がひときわ目立ちます。

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2024年5月19日 (日)

村社越生神社だが越生ではなく鹿下の方の越生神社と学頭沼

埼玉県越生町の鹿下にある越生神社に行きました。

石柱には村社越生神社とありますし、Googleマップの表示も越生神社です。

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しかし、一般的には越生神社というと、越生町の越生にある方が中心市街地近くですし有名です。

鹿下(カノシタ)は町の北方で、ときがわ町との境界に近いところです。

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↑北に向けての石段を登ると少し広い空間があり社殿があります。

元は根本神社と言われていたそうで、天平年間(729〜48)に行基が東国遊行の時に越生法恩寺を創立して、学寮を当地に選び神事を行なったということです。

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その後も応永年間(1394〜1427)や延徳2年(1490)に再興や再営されたと伝えられています。

寛文8年(1668)に社地が寄付され再修され、明治5年(1872)村社となりました。

明治40年(1907)に日枝神社を合祀して根本神社は越生神社となりました。

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二つの越生神社問題を知るため調べてみると、越生町は明治22年(1889)に9ヶ村が合併しています。

そこには越生村も鹿下村も入っていますから、ここ越生神社の元の根本神社は鹿下村の村社だったということのようです。

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↑ 神社西側の坂道を下ると「学頭沼」があります。

名前に興味を惹かれますが、江戸時代初めの頃の話のようです。

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2024年4月21日 (日)

多摩川に翻弄された青柳村の常夜燈と稲荷神社、どちらかわからない青柳2号墳

平成19年(2007)に日野バイパスができるまでは国道20号として甲州街道であった、都道256号八王子日野線沿いの国立市青柳に「元青柳村の常夜燈」があります。

江戸時代の寛政11年(1799)のものです。

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常夜燈とは聞き慣れたものですが、案内板によれば、秋葉燈とも呼ばれるということで、江戸時代に町を火から守るために油屋近くに建てられたものだそうです。

秋葉というのは火伏せの神である秋葉神社への信仰です。

常夜燈といいながら形は石灯籠です。

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↑甲州街道沿いですから、現在の街灯の役割だとばかり思いましたが、関係あってか無くてか、脇には鳥居があります。

多摩川や府中用水のある南に向いた道の左右には民家への入り口があり、この参道は古くから地元に使われていたことがわかります。

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↑車は通れない参道の先に二の鳥居があり青柳稲荷神社です。

宝暦5年(1755)に創建されたといいますが、ここに青柳村が存在するにあたって重たい経緯があったそうです。

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青柳は昔から多摩川北岸のここ国立市青柳にあったわけではなく、多摩川南岸の現在の府中市本宿の青柳島にありました。

寛文11年(1671)多摩川の大洪水によって青柳島が流失したため、村人たちは四ツ谷村を経てこの地に移住し、新たに青柳村を開拓したということです。

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国立市石田も同じ時、府中市石田から移住してきたようです。

青柳稲荷神社は青柳と石田の鎮守でした。

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2024年4月 7日 (日)

水面に浮かんでいるようだという浮島神社と他県に迷惑かけないための霞川調節池

霞川という一級河川が東京都に流れていますが、都内であまり知名度は高くないでしょう。

青梅市に流れており、埼玉県に入り入間川に流れ込む川です。

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そんな霞川沿いに浮島神社があります。

川の左岸で青梅市今井にあり、山根通りに面して一の鳥居があり、参道を入った正面が霞川です。

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二の鳥居から川に沿うように直角に参道は曲がり、正面が社殿です。

↑傍には少し高くなった位置に東屋があり、休憩したり霞川を眺めたりできるようになっています。

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浮島神社は創建年次は不詳ですが、安土桃山時代の文禄3年(1594)に再建されたという記録が残っています。

江戸時代の新編武蔵国風土記稿には浮嶋天満宮として載っています。

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その記載に、霞川が氾濫した際も沈まず水面に浮かんだ島のようだということで呼ばれたとあります。

↑そのことからか、社殿裏側には小さな池があり、弁天様と思われる祠がありました。

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2024年3月10日 (日)

小田急多摩線の田名への延伸計画と田名八幡宮の微妙な時期の改称

前回見てきた相模原市の水郷田名を巡っていると「小田急多摩線を田名に延伸させよう」という立看板をいくつか見かけました。

小田急線の新百合ヶ丘から多摩ニュータウンへのアクセス路線として唐木田まで整備されている路線です。

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そんな延伸話あるのかと戻って調べてみると、相模原市ホームページにも載っていました。

「小田急多摩線について、町田市を通り、JR横浜線相模原駅、JR相模線上溝駅、更には、田名地区を経由し、愛川・厚木方面へ延伸する計画です。」とあります。

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平成28年に国の交通政策審議会答申「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」で、小田急多摩線の延伸が、東京圏の都市鉄道が目指すべき姿を実現する上で意義のあるプロジェクトの一つとして位置付けられましたということです。

↑ただし、その答申本文を見てみましたら、唐木田から上溝までの延伸で、記載されているのも上図です。

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なお書きで「更なる延伸を検討する場合は本区間の整備の進捗具合を踏まえつつ行うことが適当」とされています。

↑田名から相模川対岸の愛川町ホームページではこのような図も載せられ、やはり地元は盛り上がっているようです。

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↑最初の写真の水郷田名自治会館敷地の左には消防団分団、さらに左には、田名八幡宮があります。

延暦17年(798)に天地大明神を勧請したのが始まりだと社伝にあります。

田名八幡宮となったのは建久2年(1191)といいますから、何時代というか微妙です。

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私は源頼朝が征夷大将軍となった1192(いい国)から鎌倉時代と覚えましたが、今は守護地頭を配置した1185(いい箱)説が有力だといいます。

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2024年1月28日 (日)

治水橋の由来となった斎藤祐美の出身地である飯田新田のびん沼と対岸の萱沼の読み

橋の名前には地名が付けられたものが多いですが、荒川の治水橋はそうではなく、前から疑問に思っていました。

今回はその由来を調べてみました。

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前々回に取り上げた飯田新田の出身である斎藤祐美という人が関係していました。

名前からはじめ女性かと思いましたが明治時代の男性でユウビと読みます。

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厳密には江戸時代末期の慶応2年(1866)に、飯田新田で代々続く外科医の次男として生まれました。

明治23年(1870)荒川の氾濫で自宅付近が水没するのを見て、埼玉県議員となって水害から故郷を守ろうとしました。

↑当時の荒川の流れである、びん沼川を挟んで飯田新田の反対岸から見たところです。

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ちょうど前々回見た、荒川で分断された馬宮地区の、さいたま市消防団馬宮西分団のある辺りになります。

↑下流側を見ると、大きく左に曲がっていて、かつて暴れ川だった名残りが感じられます。

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旧荒川であるびん沼川が市境となっているので、さいたま市飯田新田と違い、こちら側は川越市萱沼になります。

大正15年(1926)に荒川が現在の流路として整備されましたが、市境はそのままとなっているからです。

↑萱沼びん沼公園として整備されており、沼というか池や芝生の広場があります。

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現在の荒川沿いの道路からの入り口が分かりづらいこともあり、あまり人がいないところが魅力です。

富士見市のびん沼自然公園が駐車場も含めて混雑しているのとは対照的です。

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2024年1月21日 (日)

多摩川沿いの新春飾りがまだあった阿蘇神社の古くからの由緒

多摩川サイクリングロードの上流端ともいえる羽村取水堰のあたりのことです。

左岸側をさらに少し進むと鳥居があります。

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↑阿蘇神社があり、都重宝とも書かれています。

参道とはいっても林多摩川沿いなのに林の中の古道のようないい雰囲気のところを300メートルほど進みます。

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↑用水路を渡り、多摩川の流れが再び見えたところに阿蘇神社入り口があります。

鳥居があり石段を少し登った先に本殿が見えます。

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阿蘇神社は以前は阿蘇大明神、阿蘇宮といい、創建は推古天皇9年(601)と伝えられています。

平安時代の承平3年(933)には平将門が社殿を造営し、天慶3年(940)には藤原秀郷が社殿を造営したといいます。

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藤原秀郷といえば、新皇を称した平将門を討った武将です。

両者とも阿蘇神社を余程重視したのでしょう。

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藤原秀郷がお手植えしたシイが本殿左にあり、東京都指定天然記念物になっています。

手前の木だとばかり思っていたのですが、奥だということで、残念ながらアップで撮影した写真はありません。

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