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神社

2021年4月18日 (日)

南大塚の菅原神社にあるのになぜか菅原神社東古墳という名称

南大塚というと山手線大塚駅の南方、つまり丸の内線新大塚駅辺りを連想するでしょうか。

西武新宿線の終点である本川越駅の一つ手前も南大塚駅といいます。

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↑その国道16号沿いに菅原神社があり、地名から南大塚菅原神社ともいわれます。

隣りに、練馬タクシーがあるので一層どこなのかがわかりづらくなっていますが、川越市の南大塚です。

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菅原神社社伝によれば南北朝期の創建だといいますから、700年も経っています。

本殿と拝殿は川越市指定文化財となっています。拝殿と本殿とは反橋で結ばれており、連続する空間を形成するという珍しい社殿構成となっているといいます。

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拝殿前の灯篭と狛犬があったであろう台座がフェンスで囲まれて保護されていますが、特に説明板等には本殿と拝殿のことだけしか書かれていませんでした。

ここは、菅原神社東古墳でもあります。

確かに社殿の裏は少し高くなっており、20メートルほどの円墳だといいます。

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埼玉県選定重要遺跡の南大塚古墳群の一つで、1年少し前に見た山王塚古墳もありました。

ところで、菅原神社「東」古墳という名称が気になります。

後ろの北西側からの見ても、「菅原神社古墳」そのままではないのでしょうか。

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wikiでの参考文献でもある「埼玉の古墳 北足立・入間」も調べてみましたが、はっきりした理由はわかりませんでした。

北東側からも見てみます。

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wikiでの参考文献でもある「埼玉の古墳 北足立・入間」 記載の中に「大正5年には菅原神社の社務所を建設するにあたって二つ塚といわれていた墳丘の盛り土を採土したところ」という部分がありました。

ここではなく、南大塚古墳群には二ツ塚古墳というのがあります。

「このほか菅原神社東古墳などの円墳」という記載もありました。

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↑神社南側の国道16号の歩道橋から参道を見ると、左に社務所があるのがわかります。

この社務所の位置を菅原神社だとすれば、社殿は東にあるから「東古墳」ということ?

二ツ塚古墳との関係からも、ちょっと無理がありそうな考え方です。

結局、謎のままです。

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2021年2月21日 (日)

與瀬神社(与瀬神社)からの帰り道に立ち寄った相模湖と御供岩

前回見てきた、中央高速道路を参道で跨いで行く與瀬神社(与瀬神社)にはいくつもの境内社があります。

神社の後ろは山の切り立った斜面となっています。

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↑右は熊野神社、客神社、天神社と書かれており、左は平安神社です。

輿瀬神社は江戸時代には蔵王社と呼ばれるようになっていましたが、元は熊野権現が氏神で、熊野神社が鎮座していたところに、蔵王権現を祀ったといいます。

そして、熊野神社は境内社として祀られたとのことですですが、この辺りの縁起譚もある経緯については、後に立ち寄った相模湖に行って理解できました。

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↑社殿のすぐ左にあるのは幸の神で、陰陽和合が万物発動の元だということです。

拝殿と本殿の間にある彫刻は見事なものでした。

本殿の方から振り返ると、拝殿の右前に位置する建物(写真中央)は参拝者控所と書かれていましたが、絵馬殿のようで二階建てのものです。

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新編武蔵風土紀稿によると、大和国吉野から遷座したため、この辺りには吉野、與瀬、小原という地名になったとあります。

確かに、小原宿本陣が相模湖駅の東にあり、藤野町に合併する前は吉野町があり、JR中央線には相模湖駅の隣に藤野駅があります。

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↑やはり帰り道も、社殿と神門の間の石段は急で、ゆっくり行かないと下るのは怖いです。

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↑神門前の石段も下ると、その先は見晴らしも良い緩やかな下り坂で、隣の慈眼寺の鐘楼と三之鳥居越しに相模湖が見えてきます。

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↑鳥居を潜って左を見ると、與瀬神社と慈眼寺の共用参道として中央高速道路に架けられた橋というかテラスがあり、その大きさがわかります。

奥の方にあるはずの相模ダムはちょっと見えません。

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2021年2月14日 (日)

参道で中央高速道路を跨ぎ相模湖も眺望できる與瀬神社(与瀬神社)

相模湖近くの国道20号甲州街道沿いに與瀬神社(与瀬神社)の鳥居があります。

與という字は普段見慣れない漢字ですが、与の旧字体になります。

通称権現山という山の南麓にあり、幼児の虫封じの霊験あらたかな神として有名です。

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「虫封じ」といいますが、昔は病気になるのは身体の中にいる虫のせいで、子供が夜泣きしたり、ぐずるのは「かんの虫」のせいだと思われていたいいます。

最近は見かけませんが、以前は宇津救命丸のテレビCМで「かんの虫」と聞いて何の事だろうと思っていたのを思い出します。

神社へと続く長い石畳と石段の参道の脇には、天然記念物の樹齢600年を越える杉の木が茂っているといいます。

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↑ニノ鳥居の前の道が旧甲州街道で、この辺りは與瀬宿があったところです。

鉄道も明治34年(1901)の八王子上野原間の中央本線開通時は、相模湖駅ではなく與瀬駅でした。

ところで、ここから先の石段は、最初の石段とはちょっと雰囲気が違います。

上がった先は踊り場というかテラスのようになっています。

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↑先は二つの入口があり、左に與瀬神社、右は慈眼寺となっています。

 驚くことに下には中央高速道路が走っています。

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↑左を見れば、西の甲府方面です。

↓右を見れば、東の東京方面です。

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昭和43年(1968)12月20日に開通した高速道路の建設のため、ここにあった與瀬神社の赤鳥居と慈眼寺の鐘楼を現在の位置に移設したと、ここに立つ記念碑に書かれていました。

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↑さらに振り返れば、相模湖が見えます。

そしていよいよこの先が山麓の神社らしい景色になります。

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2021年2月 7日 (日)

国立市ではなく府中市にある谷保天満宮発祥の地と用水路と大山道

受験のシーズンとなりましたが、学問の神様という菅原道真を祀った天神様に参拝する人は多くいます。

東京では湯島天満宮(湯島天神)、亀戸天神社、次に谷保天満宮が有名でしょうか。

府中市日新町にさほど広くは無いものの、赤い旗や鳥居の目立つ神社があります。

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日新稲荷神社ですが、ここには気になる碑がありました。

キレイに磨かれた石なので、光が反射して見づらいですが、「谷保天満宮発祥之地」と書かれています。

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菅原道真は昌泰4年(901)太宰府に左遷された際、同時に4人の子供達も左遷や流罪となり、 第三子の菅原道武は 武蔵国多摩郡に流されました。

父道真が2年後に太宰府で没し、延喜3年に道武は父の像を祀ったのが 谷保天満宮の創建とされています。

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道武の子孫は津戸の姓を名乗り,鎌倉時代に源頼朝に仕えていた津戸三郎為守が、治承5年・養和元年(1181)にある神社を国立市谷保に遷したといいます。

日新稲荷神社だけに書かれているのでなく、谷保天満宮公式HPにありますから、ここが発祥の地のようです。

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府中市と国立市の市境を跨いで移転していますが、当時はそんな市はありませんから当然なのでしょう。

また、谷保天満宮はヤホではなくヤボと読むことをはじめて知りました。

ところで、最初の写真の左端には蓋掛けされた水路があります。

ちょっと100メートルほど上流の都道20号府中相模原線(府中四谷橋への道)沿いを見てみました。

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2021年1月31日 (日)

立川市緑町の不思議な神社と高松町にある熊野神社の戦争をめぐる繋がり

立川駅北口には立川基地跡の広大な敷地があるため、数多くの政府系機関や近年ではIKEAなどの商業施設も建てられています。

その緑町の「自治大学校国立国語研究所」バス停の前には、ちょっと不思議な神社らしきところがあります。

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フェンスに囲まれており、社号標などはありませんが、「熊野神社」という名で関係者以外立ち入り禁止と書かれています。

唯一ともいえる倉庫のような建物があります。

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奥には熊野神社の鳥居と祠のみあります。

さらに奥の方に見えているのは、多摩都市モノレールの高松駅です。

調べてみると、500メートルほど東にある熊野神社が元々あったところのようです。

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↑それは、高松バイパス沿いの高松町にある熊野神社で、立川熊野神社とも言われています。

武蔵野によくあるように、この辺りは江戸時代の享保年間に柴崎新田として開発され、当初は7軒しか家がなく、七軒家と言われていました。

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この新田の鎮守として、先程のところに享保11年(1726)創建された神社です。

↑当時は考えもしなかったでしょうが、手水舎ではコロナ感染予防策で柄杓はなく水が流しっぱなしにされています。

そもそも、神社がどうして移転したかも気になるところです。

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2021年1月17日 (日)

藤原四家のうち式家の神社である上宮大澤神社で平安時代の歴史上の人物を復習

新小金井街道の小金井市貫井南町に「上宮大澤神社入口」という標識がありました。

大澤(大沢)と言えば、もっと東にある三鷹市の地名なので、興味があり立ち寄ってみました。

境内と道路と駐車場の境がよくわかりませんし、中には住宅もあるようですが、全体が神社の敷地なのでしょうか。

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狭いながらも美しい竹林に立つ神社案内板によると、創建は平安時代である天慶年間(938〜945)といいます。

藤原外記壽治(げきひさはる)が、大澤の池の上のこの地が山紫水明のいいところなので、大澤氏を名乗るとともに神社を創始したといいます。

大化の新で知られる中臣鎌足が藤原姓を賜わり藤原氏の祖となっていますが、その子孫だといいます。

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↑7名の祭神が記載されていましたが、古事記や日本書紀に登場する神々ではない、歴史上実在の人物もいるようなのでそれぞれを調べてみました。

まず①「天児屋根命」は古事記・日本書紀にも載っている神になりますが、中臣氏・藤原氏の太祖神です。

②「藤御食子命(中臣氏)」は中臣御食子のことで鎌足の父になります。

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↑鳥居から本殿までの距離は短く、右には社務所があります。

寒い日々なので、午後なのに手水鉢の水は一部凍っていました。

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続いて、③ 「藤宇合命(藤原式家)」は藤原宇合(うまかい)のことです。

平安時代に非常に栄華を極める藤原氏の礎を築いたと言えるのは、奈良時代の藤原不比等です。

不比等は中臣鎌足の子で、その4人の子は北家、南家、京家、式家の藤原四家を形成します。

うち式家の祖が藤原宇合です。

本殿の前まで行くと参拝者を感知して雅楽が流れます。

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2021年1月 3日 (日)

まだ海辺だった頃に榛名様が上陸したという御船山と榛名神社のある富士見市勝瀬

6000年程前、縄文海進と呼ばれる海水面の上昇により荒川流域は、かなりの部分が海でした。

4年半前に見に来た富士見市にある水子貝塚は、その当時は海沿いだったということでこの地にありました。

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↑同じ市内の勝瀬というところ、ららぽーと富士見のすぐ近くというと場所のイメージが湧くでしょうか、「お船山」というところがあります。

長さ約50メートル 、幅約25メートル 、高さ約2メートル ですから、実際には山というほどの高さではありません。

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↑案内板によると、昔この辺が海辺だった時に、榛名様がお供二人とともに遠くから鉄の船で来て上陸しましたが、その後ここで船が沈んだということです。

お船山に棒を刺すと、鉄の船に当たり音がするとの言い伝えもあるそうです。
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↑お船山越しに、林のようになった100メートルほど北の上陸したところが見えます。

また、まだ乗船中に船がお船山で沈んでしまう時、向こう岸の藤の木の蔓をつたい、一行は上陸できたという説もあるそうです。
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↑いずれの説でも上陸したというところに榛名神社があります。

創建年代等は不詳ながら、文明9年(1477)再建の棟札が残されていることから、少なくとも室町時代には既にあったということです。
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↑狛犬の乗っているところには岩がありますが溶岩なのでしょうか。

榛名神社やお船山という名称からも山にゆかりがあるようです。
境内に富士塚があるのかも気になります。

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2020年12月27日 (日)

東大和市前身の高木村外五ヶ村の役場があった高木神社と塩釜神社

東大和市内の青梅街道を走る西武バスに「塩釜神社前」というバス停があります。

また、道路沿いには「安産の守神 塩釜神社」という大きな看板もあります。

矢印の方向に行き、公園とともに神社のあるところを見ると、ちょっと想定とは違っています。

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↑「高木神社」と書かれておりその社務所があります。

まず、ここで目を引いたのは「東大和市旧跡 高木村外五ヶ村連合戸長役場跡」という説明表示板です。

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東大和市は、明治時代初期には高木、清水、狭山、奈良橋、蔵敷、芋窪の六ヶ村に分かれていました。

その村ごとに戸長が選出されていましたが、明治17年(1884)に町村制度の大改正が行われ、500戸を基準として連合した地域に、一人の官選の戸長をおくことになりました。

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六ヶ村を一区域として、戸長がここにあった戸長役場で事務を執ったというものです。

ほぼ現在の東大和市域の原型が作られたというもので、東大和市旧跡に指定されています。

↑建物はありませんが、書類入れだった土蔵だけは残っています。

そして、塩釜神社があります。

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大正15年(1926)建立の「国幣中社塩竈神社分社」という碑が立っています。

宮城県塩釜市にある塩釜神社から分祀してもらった個人の土地の屋敷神だったものを、明治10年(1877)にここに勧請したといいます。

ここは予想外に、高木神社の末社という位置付けのようで、その高木神社との位置関係はこんな感じです。

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↑右側にあるのが、先程見た塩釜神社の鳥居と社殿です。

さらに大きな鳥居と社殿が左側にある高木神社を見てみます。

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2020年12月13日 (日)

かつてあった高麗郡と平成の天皇皇后も参拝したという高麗神社

入間川、そして越辺川に流れ込む高麗川があり、JR八高線に高麗川駅、西武池袋線に高麗駅があります。

それらが、高麗郡という名の郡にも由来しており、高麗神社があることも知っていましたが、行ったことはありませんでした。

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奈良時代に高麗郡は建郡されたと、日本書紀からの続きである六国史の3番目「続日本紀」にあります。

霊亀2年(716)に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ヶ国の高麗人1799人を移して高麗郡を設置した」と書かれています。

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唐と新羅に敗れた高句麗から移り住んだ人々である渡来人が「高麗人」と呼ばれていたことから、この名となっているようです。

天智2年(663)の「白村江の戦い」で日本は百済とともに、唐と新羅に敗れた5年後に高句麗も滅んでしまったのです。

高麗郡は現在の日高市、鶴ヶ島市、飯能市を中心とした範囲で、明治29年(1896)に郡の統合により入間郡に統合されるまで高麗郡という名がありました。

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高麗神社は高麗王若光を主祭神として、猿田彦命、武内宿禰命の三柱を祀っています。

覆殿内の本殿は室町時代後期の建立と考えられており、切妻造で平入、一間社流造、屋根は桧皮葺で埼玉県指定文化財となっています。

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斎藤 實、若槻禮次郎、浜口雄幸、平沼騏一郎、鳩山一郎、小磯国昭らが参拝後、総理大臣になったということで、高麗神社は「出世明神」とも称されるといいます。

戦前に就任された方がほとんどなのはちょっと気になります。

↑上皇陛下、つまり平成時代の天皇と皇后も参拝しているようで「天皇皇后両陛下行幸啓記念碑」がありました。

ちなみに、平成天皇というのは失礼に当たるので「の」を入れています。

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↑社殿左側の山頂には末社として水天宮もあります。

手前の御神木の彼岸桜は樹齢300年になります。

さらに、神社の奥には国指定重要文化財もあるといいます。

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2020年11月29日 (日)

砂川用水の二ツ塚緑道と上鈴木稲荷神社にある陸軍経理学校の神社本殿

小平市に府中街道と五日市街道の交わる上水本町交差点があります。

地名になっているように、ここから400メートル程北には玉川上水が流れています。

その途中には玉川上水と平行する東西方向に「二ツ塚緑道」という表示があります。

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これは砂川用水(砂川分水)の敷地で小平市の愛称公募により名付けられました。

一方、交差点を東に少し進むと「五日市街道立坑」と書かれた小さな建物があります。

これは武蔵野線の地下トンネルへの出入り口であることは既に知ったところです。

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↑その隣には上水本町ビオトープ公園があります。

狭いところなのですが南北方向の水路らしきものがあり「砂川用水」と書かれています。

ここは玉川上水から南へ300メートル程のところです。

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↑「明暦3年(1657)開削 流れているのは多摩川本流の自然水です」と書かれています。

玉川上水には多摩川の水が羽村から取り入れられていますが、東大和市駅近くの小平監視所からは地下で東村山浄水場へと水は流れています。

つまり、この辺りの玉川上水の水は東京都の清流復活事業による高度二次処理下水が流れているはずです。

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↑少し北に行くと、右側の敷地は「武6」と書かれており、地図を見ると左の建物手前地下には武蔵野線の地下トンネルが通っているようです。

ここは先程の砂川用水両方の流れを辿った先になるのですが、水路に蓋かけされたようなところが見えます。

多摩川の水の件を調べてみると、砂川用水は文字通り砂川付近の松中橋辺りの玉川上水から取水されているので、その水が流れてきているのなら,玉川上水とは違って本当に多摩川の水ということになります。

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↑ここには上鈴木稲荷神社があります。

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