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神社

2021年1月17日 (日)

藤原四家のうち式家の神社である上宮大澤神社で平安時代の歴史上の人物を復習

新小金井街道の小金井市貫井南町に「上宮大澤神社入口」という標識がありました。

大澤(大沢)と言えば、もっと西にある三鷹市の地名なので興味があり立ち寄ってみました。

境内と道路と駐車場の境がよくわかりませんし、中には住宅もあるようですが、全体が神社の敷地なのでしょうか。

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狭いながらも美しい竹林に立つ神社案内板によると、創建は平安時代である天慶年間(938〜945)といいます。

藤原外記壽治(げきひさはる)が、大澤の池の上のこの地が山紫水明のいいところなので、大澤氏を名乗るとともに神社を創始したといいます。

大化の新で知られる中臣鎌足が藤原姓を賜わり藤原氏の祖となっていますが、その子孫だといいます。

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↑7名の祭神が記載されていましたが、古事記や日本書紀に登場する神々ではない、歴史上実在の人物もいるようなのでそれぞれを調べてみました。

まず①「天児屋根命」は古事記・日本書紀にも載っている神になりますが、中臣氏・藤原氏の太祖神です。

②「藤御食子命(中臣氏)」は中臣御食子のことで鎌足の父になります。

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↑鳥居から本殿までの距離は短く、右には社務所があります。

寒い日々なので、午後なのに手水鉢の水は一部凍っていました。

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続いて、③ 「藤宇合命(藤原式家)」は藤原宇合(うまかい)のことです。

平安時代に非常に栄華を極める藤原氏の礎を築いたと言えるのは、奈良時代の藤原不比等です。

不比等は中臣鎌足の子で、その4人の子は北家、南家、京家、式家の藤原四家を形成します。

うち式家の祖が藤原宇合です。

本殿の前まで行くと参拝者を感知して雅楽が流れます。

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2021年1月 3日 (日)

まだ海辺だった頃に榛名様が上陸したという御船山と榛名神社のある富士見市勝瀬

6000年程前、縄文海進と呼ばれる海水面の上昇により荒川流域は、かなりの部分が海でした。

4年半前に見に来た富士見市にある水子貝塚は、その当時は海沿いだったということでこの地にありました。

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↑同じ市内の勝瀬というところ、ららぽーと富士見のすぐ近くというと場所のイメージが湧くでしょうか、「お船山」というところがあります。

長さ約50メートル 、幅約25メートル 、高さ約2メートル ですから、実際には山というほどの高さではありません。

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↑案内板によると、昔この辺が海辺だった時に、榛名様がお供二人とともに遠くから鉄の船で来て上陸しましたが、その後ここで船が沈んだということです。

お船山に棒を刺すと、鉄の船に当たり音がするとの言い伝えもあるそうです。
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↑お船山越しに、林のようになった100メートルほど北の上陸したところが見えます。

また、まだ乗船中に船がお船山で沈んでしまう時、向こう岸の藤の木の蔓をつたい、一行は上陸できたという説もあるそうです。
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↑いずれの説でも上陸したというところに榛名神社があります。

創建年代等は不詳ながら、文明9年(1477)再建の棟札が残されていることから、少なくとも室町時代には既にあったということです。
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↑狛犬の乗っているところには岩がありますが溶岩なのでしょうか。

榛名神社やお船山という名称からも山にゆかりがあるようです。
境内に富士塚があるのかも気になります。

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2020年12月27日 (日)

東大和市前身の高木村外五ヶ村の役場があった高木神社と塩釜神社

東大和市内の青梅街道を走る西武バスに「塩釜神社前」というバス停があります。

また、道路沿いには「安産の守神 塩釜神社」という大きな看板もあります。

矢印の方向に行き、公園とともに神社のあるところを見ると、ちょっと想定とは違っています。

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↑「高木神社」と書かれておりその社務所があります。

まず、ここで目を引いたのは「東大和市旧跡 高木村外五ヶ村連合戸長役場跡」という説明表示板です。

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東大和市は、明治時代初期には高木、清水、狭山、奈良橋、蔵敷、芋窪の六ヶ村に分かれていました。

その村ごとに戸長が選出されていましたが、明治17年(1884)に町村制度の大改正が行われ、500戸を基準として連合した地域に、一人の官選の戸長をおくことになりました。

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六ヶ村を一区域として、戸長がここにあった戸長役場で事務を執ったというものです。

ほぼ現在の東大和市域の原型が作られたというもので、東大和市旧跡に指定されています。

↑建物はありませんが、書類入れだった土蔵だけは残っています。

そして、塩釜神社があります。

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大正15年(1926)建立の「国幣中社塩竈神社分社」という碑が立っています。

宮城県塩釜市にある塩釜神社から分祀してもらった個人の土地の屋敷神だったものを、明治10年(1877)にここに勧請したといいます。

ここは予想外に、高木神社の末社という位置付けのようで、その高木神社との位置関係はこんな感じです。

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↑右側にあるのが、先程見た塩釜神社の鳥居と社殿です。

さらに大きな鳥居と社殿が左側にある高木神社を見てみます。

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2020年12月13日 (日)

かつてあった高麗郡と平成の天皇皇后も参拝したという高麗神社

入間川、そして越辺川に流れ込む高麗川があり、JR八高線に高麗川駅、西武池袋線に高麗駅があります。

それらが、高麗郡という名の郡にも由来しており、高麗神社があることも知っていましたが、行ったことはありませんでした。

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奈良時代に高麗郡は建郡されたと、日本書紀からの続きである六国史の3番目「続日本紀」にあります。

霊亀2年(716)に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ヶ国の高麗人1799人を移して高麗郡を設置した」と書かれています。

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唐と新羅に敗れた高句麗から移り住んだ人々である渡来人が「高麗人」と呼ばれていたことから、この名となっているようです。

天智2年(663)の「白村江の戦い」で日本は百済とともに、唐と新羅に敗れた5年後に高句麗も滅んでしまったのです。

高麗郡は現在の日高市、鶴ヶ島市、飯能市を中心とした範囲で、明治29年(1896)に郡の統合により入間郡に統合されるまで高麗郡という名がありました。

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高麗神社は高麗王若光を主祭神として、猿田彦命、武内宿禰命の三柱を祀っています。

覆殿内の本殿は室町時代後期の建立と考えられており、切妻造で平入、一間社流造、屋根は桧皮葺で埼玉県指定文化財となっています。

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斎藤 實、若槻禮次郎、浜口雄幸、平沼騏一郎、鳩山一郎、小磯国昭らが参拝後、総理大臣になったということで、高麗神社は「出世明神」とも称されるといいます。

戦前に就任された方がほとんどなのはちょっと気になります。

↑上皇陛下、つまり平成時代の天皇と皇后も参拝しているようで「天皇皇后両陛下行幸啓記念碑」がありました。

ちなみに、平成天皇というのは失礼に当たるので「の」を入れています。

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↑社殿左側の山頂には末社として水天宮もあります。

手前の御神木の彼岸桜は樹齢300年になります。

さらに、神社の奥には国指定重要文化財もあるといいます。

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2020年11月29日 (日)

砂川用水の二ツ塚緑道と上鈴木稲荷神社にある陸軍経理学校の神社本殿

小平市に府中街道と五日市街道の交わる上水本町交差点があります。

地名になっているように、ここから400メートル程北には玉川上水が流れています。

その途中には玉川上水と平行する東西方向に「二ツ塚緑道」という表示があります。

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これは砂川用水(砂川分水)の敷地で小平市の愛称公募により名付けられました。

一方、交差点を東に少し進むと「五日市街道立坑」と書かれた小さな建物があります。

これは武蔵野線の地下トンネルへの出入り口であることは既に知ったところです。

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↑その隣には上水本町ビオトープ公園があります。

狭いところなのですが南北方向の水路らしきものがあり「砂川用水」と書かれています。

ここは玉川上水から南へ300メートル程のところです。

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↑「明暦3年(1657)開削 流れているのは多摩川本流の自然水です」と書かれています。

玉川上水には多摩川の水が羽村から取り入れられていますが、東大和市駅近くの小平監視所からは地下で東村山浄水場へと水は流れています。

つまり、この辺りの玉川上水の水は東京都の清流復活事業による高度二次処理下水が流れているはずです。

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↑少し北に行くと、右側の敷地は「武6」と書かれており、地図を見ると左の建物手前地下には武蔵野線の地下トンネルが通っているようです。

ここは先程の砂川用水両方の流れを辿った先になるのですが、水路に蓋かけされたようなところが見えます。

多摩川の水の件を調べてみると、砂川用水は文字通り砂川付近の松中橋辺りの玉川上水から取水されているので、その水が流れてきているのなら,玉川上水とは違って本当に多摩川の水ということになります。

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↑ここには上鈴木稲荷神社があります。

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2020年11月15日 (日)

どこなのか謎の本殿から2000 メートル離れた元遥拝所の須賀神社とその前の350メートルだけの広い道路

武蔵村山市岸二丁目に須賀神社があります。

当然に海沿いではないのに、なぜ「岸」という地名なのか不思議です。

狭山湖のある狭山丘陵に沿っているとも言えますが、あの湖は貯水池としての人造湖です。

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そもそもからして、明治時代まで多摩郡岸村だったといいます。

残堀川の河岸というのも無理を感じます。

須賀神社の創立は古く、元々の社殿は寛永10年(1663)に建立されました。

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村内の悪病鎮護のため2000メートル余り隔てた丘山に奉祭されていました。

その後こちらに寛政2年(1790)に遙拝所を創立しました。

昭和32年(1957)に木造神明造を新築し、昭和51年(1976)には遙拝所を本殿と定めたといいます。

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↑社殿の裏側は小山のようになっており、北側には道があります。

そこには、縁結びの木というものもありました。

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木が繋がったようになっています。

ところで、以前の本殿がどこだったのか気になります。

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↑こうして北の方に見える山というか丘の上にあったのでしょうか。

これらの丘陵は、都立野山北・六道山公園となっています。

その公園パンフレットに、「須賀神社(奥の院)」というのがあります。

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2020年10月25日 (日)

鈴木稲荷神社にある小平市指定文化財の見られる江戸時代後期の彫刻と明治時代初期の鏝絵

小平市には花小金井駅南西に「鈴木町」という地名があります。

また、そこには都道132号線小川山田無線が通っており、一部は「鈴木街道」と呼ばれています。

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↑そこにはさらに「鈴木稲荷神社」があります。

鈴木という名前の由来は江戸時代のようで、この辺りは鈴木新田として開発されました。

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新田と言っても現在は田畑もほとんどなく、すぐ脇は住宅地となっています。

↑といって住宅地でよく見かける神社と違って、神門があり水路を渡る神橋もあります。

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鈴木新田は貫井村(現在の小金井市)の名主である鈴木利左衛門の発願によるものでした。

開発許可は享保9年(1724) だったといいますから、8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」の行われた頃です。

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開発宰領人である利左衛門は、境内地として約25000平方メートルを寄進して、貫井村の稲荷神社を新田の鎮守として同じ年に勧請ました。

↑右の木のところに両側への矢印の向いた案内板があります。

ここには小平市指定有形文化財が2つあるのです。

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↑覆殿は土蔵造りとなっており、上部の白壁に絵が描かれています。

鏝絵(こてえ)という漆喰で立体的に表現されたもので、この北と南面には狐の親子が書かれています。

明治時代初期のものですが、さらに社殿裏側にあたる西面には不思議な絵があります。

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2020年10月 4日 (日)

新田義貞兜掛けの松がある所沢市久米の鳩峯八幡神社と水天宮

東村山市と所沢市の市境付近には新田義貞に関する遺跡というか多くの伝説が残っています。
鎌倉街道が南北に通っていて、久米川古戦場や小手指ヶ原古戦場があります。
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↑その二つの古戦場の中間に森となった小高い丘陵があります。
この所沢市久米には鳩峯八幡神社があります。
延喜21年(921)に京都の石清水八幡宮を分祀し勧請したと伝えられています。
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明治5年には村社、大正10年には郷社に列せられましたといいます。
ちょっと不思議で調べてみたら、明治14年(1881)に久米村の一部である金山が所沢村に編入され所沢町になったというので、これが理由のようです。
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↑参道を少し進むと、左側には神社らしくなく鐘楼があります。
明治時代に神仏分離される前の名残りなのでしょう。
江戸時代には、天正19年(1591)徳川家康から社領御朱印五石を寄進され、代々将軍より幕末まで寄進されたりしたといいます。
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そして、ここにも新田義貞伝説が残っています。
元弘3年(1333)5月、新田義貞による鎌倉攻めの折、八國山の将軍塚に陣して、当社に参拝して戦勝を祈願したと伝えられています。
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↑参拝時に兜をかけた「兜掛けの松」があり、その旧蹟の碑もあります。
しかし、当時の松は枯れてしまって、小振りな松がありました。
もう一つここには旧蹟があるといいます。

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2020年8月23日 (日)

川崎市宮前区の地名の由来となった馬絹神社は宮崎台の由来でもある

川崎市には宮前区が、そして東急田園都市線には宮前平駅があります。
神社つまり宮の前だから宮前でしょうが、思い当たる神社がありませんでした。
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↑地元の方は当然に知っているのかも知りませんが、この馬絹神社が地名の由来のようです。
国道246号線から東名自動車道の川崎インターに向かう、尻手黒川道路との交差点名として、「馬絹」という名前は聞いたことがありました
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室町時代末期の永禄年間(1558~1570)に、稲毛庄馬衣郷を分割して馬絹村、梶ヶ谷村、土橋村の三村ができました。
そして、明治22年(1889)の町村制施行により馬絹、土橋、有馬(当時有間)、野川、梶ケ谷の5村と溝口村の飛び地が合併して、宮前(みやさき)村ができました。
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馬絹神社は、創建年は江戸元禄以前で詳細は不明で、元は女躰権現社と称していました。
明治43年(1910)に近隣の八幡、三島、熊野、白山神社の4社を併合して神明神社に改称し、馬絹村の村社となりました。
昭和61年(1986)に本殿を新築するとともに、社名を神明神社から馬絹神社へと改称しました。
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宮前の地名になった由来としては、馬絹村のほぼ中央に位置した女躰権現社(現在の馬絹神社)が「馬絹村字宮ノ前(みやのまえ)」にあり、この付近に村役場が設置されたことによります。
そこから名付けられ、地名の「みやのまえ」から「みやまえ」になり、現在の宮前区や宮前平へとなっています。
調べていくと驚いたことに、宮崎台の由来もこちらのようです。

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2020年8月 9日 (日)

相原は予想外に八王子市ではなく町田市にあり、しかも相模原市にも相原

八王子駅からJR横浜線で橋本駅に行く間に相原駅があります。
八王子市と相模原市の間にあり、八王子みなみ野駅の隣なので、相原は八王子市内と思っていました。
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↑すぐ先にある交差点は、東京都道47号線、通称町田街道の「相原十字路」という交差点です。
ここにある境川の橋が東京都と神奈川県の都県境になっており、手前が神奈川県相模原市で、奥は東京都です。
ただし、都の八王子市ではなく、予想外に町田市で、町田市は北西に向けて入り込んだような形となっているようです。
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↑これは交差点近くにあった「町田市地区案内図」です。
左側が北向きの地図なので、上方つまり東にある相原駅も町田市相原町になります。
もう一つ驚くことに、右側にも「相原一丁目、二丁目、六丁目」とあり、こちらは相模原市となっています。
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↑その相原六丁目に「相原総鎮守 相原八幡宮」があり、そこに「相原起番地之碑」があります。
明治時代初めの地租改正に際して、ここが相原1番地とされたことによります。
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相原八幡宮の創建年代は不詳ですが、平安時代の中期に小野妹子の子孫という小野孝泰が岩清水八幡宮を迎え祀ったといわれています。
御神木であるケヤキの木は平成8年(1996)に上の方が倒れてしまいましたが、樹齢600年だったと言いますから、長い歴史のある神社のようです。
相原が東京都と神奈川県にある謎もわかりそうです。

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