小田原にある石垣山城を馬屋曲輪(二ノ丸)、井戸曲輪、展望台と見て回ってきました。
この先は本丸もありますから、ちょっと歴史を振り返りながら見ていきます。
二ノ丸からさらに一段高いところにある本丸にも石垣があります。
この石垣は20メートルを超える高さで築かれており、石垣を築いた穴太衆の技術の高さが窺えるものだそうです。
ただし、今はかなり崩れてしまっており、石垣というよりも、所々に石があるという感じです。
本丸跡は本城曲輪とも言われていますが、やはり広いです。
天正13年(1585)に関白となった豊臣秀吉は四国攻め、15年には九州攻めを行い西国は平定し、残るは関東、東北という状況でした。
そこで、大名同士の領土の取り合いなどがあれば、関白として征伐するという趣旨の私戦禁令『関東・奥両国惣無事令』を発しました。
↑本城曲輪のさらに一段高いところに天守台跡があります。
ここが石垣山で一番高いところとなり、標高は261.5メートルとなります。
16年4月には後陽成天皇を京都の「聚楽第」に招き、全国の諸大名は参列を命じましたが、北条氏政、氏直父子は列席せず、秀吉の怒りの矛先が北条氏に向くことになりました。
↑本城曲輪のところには物見台があり、前回の北の端の展望台以上に小田原市街や相模湾が見渡せます。
こちらからは更に三浦半島や遠く房総半島まで見ることができます。
アップにすれば、やはり北条氏の小田原城も見ることが出来ます。
北条氏が攻められるトリガーとなったのは、天正17年(1589)10月に上野国(現群馬県)沼田城代であった北条氏側の猪俣邦憲が、隣接する名胡桃城(なぐるみじょう)を奪取したことでした。
これを惣無事令違反として、秀吉は11月24日に宣戦布告したのです。
小田原にある城といえば小田原城が当然有名ですが、もう一つあります。
小田原北条氏の小田原城を攻めるために豊臣秀吉により築かれた石垣山城です。
小田原厚木道路の小田原西インターを出て直進し、東海道新幹線ガードの手前を右折し、70メートル先でもう一度右折して、1.8キロほどひたすら山道を進みます。
↑無料駐車場があり、道路を挟んだすぐ前の斜面に石垣があります。
石垣山は国指定史跡となっており、国立公園の区域内です。
石垣山一夜城歴史公園として整備されています。
石垣山といいますが、元々は笠懸山と呼ばれていました。
天正18年(1590)豊臣秀吉が関東では最初の総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
↑城の縄張内に入り、急な坂を登っていくと途中から北に向けての通路が整備されており、再び石垣が見られます。
馬屋曲輪石垣といい、延長67メートル、高さ6メートル、勾配60°で比較的良好に築城当時の形態が保たれているそうです。
↑石垣の上には馬屋曲輪があります。
馬屋があったのでしょうが、ここは二の丸とも呼ばれています。
石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を貼って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を切り倒し、一夜で城が出来たように見せたからです。
↑櫓台跡と書かれていました。
あまり櫓台には見えませんが、以前はもう少し高かったようです。
次に、石垣山と言うに相応しい石垣を見るために、せっかく登ってきましたが階段を下ります。
石田三成による忍城水攻めの際に築かれたという石田堤の行田市の現存しているところを見てきました。
新忍川の堀切橋が鴻巣市(合併前の吹上町)との境界ですが、その堀切橋は土木学会選奨土木遺産となっています。
↑北の行田市方向を振り返って見ていますが、親柱頂部に尖頭半球が施されています。
この高欄には三角形の空間があるデザインとなっています。
昭和8年(1933)に竣工しましたが、屋外アート風の橋であることから土木遺産に選奨されたそうです。
↑南の鴻巣市側を見てみると、幾何学模様が描かれているのもわかります。
高欄の影に三角形があるのも面白いです。
忍城水攻めの時は、この堀切橋のところで石田堤が破堤して、石田三成率いる豊臣軍に多数の犠牲者が出たということです。
↑堀切橋から南の約300メートルも石田堤が保存されており、鴻巣市指定史跡として石田堤史跡公園となっています。
東屋や説明板などが整備されていますが、堤が途中でバッサリと切断されています。
ここには上越新幹線が通っているのです。
その高架橋の下も広場となっています。
様々な説明板がありますが、櫓のシンボルモニュメント下では石田堤の音声案内を聞くことが出来ます。
感知器があって、人が下に立つと音声が流れてきます。
音声は2パターンあるようですが、東屋のところにあった説明板によると、上を新幹線が通過するときにその別バージョンが聞くことができると書かれていました。
聞いてみると、解説だけでなくドラマ仕立てとなっており、石田三成役は大和田伸也さんです。
このブログを見ている方は分かりづらいでしょうから、国土交通省HPにある石田堤のイメージ地図です。
戦国時代末期、豊臣秀吉は関東地方に勢力を持つ小田原北条氏と戦うことで関東を平定して、天下統一することを目指していました。
小田原城の支城であり、行田市にある成田氏の忍城への攻撃を石田三成が命じられました。
↑石田三成は、同じく行田市にある埼玉古墳群の丸墓山古墳に本陣を構え、忍城付近を眺め、その地形から水攻めをすることを決めたと言われていました。
しかし、実際には石田三成が考えたというよりも、豊臣秀吉の強い意向により水攻めは行われたようです。
↑丸墓山古墳は高さ19メートルありますから、確かに忍城周辺の地形はよく見ることが出来ます。
忍城を取り囲むように堤を築いて、利根川、荒川の水を引き込み水攻めをしようとしたものでした。
天正18年(1590)に石田三成らは城を包囲し水攻めをすることとし、そのために築いた堤は後に「石田堤」と言われています。
↑丸墓山古墳古墳から南へ向かう道も石田堤の一部とのことです。
全長28キロメートルに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています。
↑古墳への通路となっているため、あまり堤の面影はありません。
当時、堤が完成し、利根川や荒川の水を引き入れましたが、地形的に忍城や城下町よりも現在の下忍や堤根方面に水が溜まってしまいました。
遂には堤が決壊し、水攻めは失敗に終わりました。
↑2.5キロメートルほど南にある行田市堤根には、この石田堤が残されています。
ここは行田市により、「石田堤歴史の広場」として駐車場と広場が整備されています。
ここの堤は延長282メートルあり、埼玉県指定史跡にもなっています。
石戸城は天神山城ともいわれる北本市石戸宿にある城跡です。
室町時代長禄年間(1457~60年)頃の城といいます。
↑荒川沿いの河川敷にある天神下駐車場から見上げていますが、荒川の堤防にもなっている桜堤通りに沿って石戸城はありました。
扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が築城し、北上する北条氏に備えるため、岩付城、松山城、川越城を結ぶ防衛ラインの一部を担っていました。
↑その桜堤通りを南に向かい北を振り返ると、一の郭があったところを道路が分断して通っています。
一の郭の左側が荒川になりますから、西側は要害となっています。
↑さらに南に行くと、五の郭のあった辺りに北本市教育委員会による説明板があります。
奥の方が三の郭になります。
永禄6年(1563)北条、武田連合軍が松山城攻めした時には、援軍のため上杉謙信が上越越えをして石戸城に逗留したといいます。
↑そこにある地図になります。
埼玉県選定重要遺跡となっています。
↑この道を挟んで左側が四の郭になります。
一の郭(左)と二の郭(右)間は急な下り坂で、トンネルに入って行くような感じです。
ここまで風景では戦国の城跡の印象がありませんでしたが、奥に入って行くと別世界になります。
埼玉県毛呂山町にある毛呂氏館跡に行って来ました。
JR八高線毛呂駅から1kmも離れておらず、県道30号線から毛呂山霊園の案内板のところを曲がれば行ける、分かりやすいところにあります。
↑金嶋山長栄寺の山門から入っていきます。
ここ長栄寺と裏山が毛呂氏館のあったところです。
↑埼玉県指定史跡となっており、毛呂顕季が館を廃し寺を建てたと、ここにある埼玉県・毛呂山町教育委員会の標柱には書かれています。
しかし、埼玉県HPの史跡・名勝の紹介には毛呂顕重により創建と書かれています。
まあいずれにせよ、毛呂氏がその館跡を長栄寺としたようです。
↑長栄寺から北側の裏山に向けて坂道を登ったすぐ先には毛呂氏墓があります。
↓ここには毛呂氏供養塔があり、説明板もありました。
毛呂氏の祖である季光(すえみつ)は、治承4年(1180年)源頼朝挙兵以来その側近としてつかえ、毛呂郷地頭職の外、豊後の国守なども歴任していました。
頼朝の死後起きた重臣間の争いを避け、職を辞して毛呂郷に帰ったといわれています。
↑長栄寺と背後の石尊山の中腹までが毛呂氏の館跡と考えられており、その分岐点には標識があり、ここから山中に入っていきます。
城跡めぐりに夏は向いておらず、踏み分け道にも雑草の下草は多く、歩きづらいしヘビの心配もしなくてはいけません。
クモの巣をかき分けながら進んでいきます。
独眼竜政宗として伊達氏は有名であり、場所としては東北地方の中でも、仙台をイメージする人が多いと思います。
福島県には伊達市がありますが、あの伊達氏とは関係ないと思われてしまうでしょう。
しかし、奥州攻めの手柄として源頼朝から伊達郡を領地として与えられたことから、伊達氏を名乗るようになったのですから、こちらが本家です。
↑鎌倉時代に築城されたという伊達市の位置する梁川(やながわ)城は、南に広瀬川、北には塩野川が流れる平山城で、11代伊達持宗から14代稙宗まで伊達氏の本拠として整備されました。
城跡は梁川小学校、中学校、高等学校の敷地となっていますが、一部保存されています。
上の案内図もある北東側の入口から攻め込もう?とすると、かなりの急斜面の上にあることがわかります。
↑ここはGoogleマップでは梁川城跡と表示されるところで、少し前までの梁川小学校の入口にあたりますが、ロープが張られて立入禁止になっているようです。
そこで、南側にまわり城跡を見てみます。
↑こちらには、梁川城本丸跡、庭園「心字の池」との案内板が立っています。
低い微妙な位置にはロープがありますが、「ここをまっすぐ」とも書かれています。
ロープは車止めの意味であると解釈して中に行ってみました。
やはり人が入ってくることが想定されており、福島県教育委員会による案内板もあります。
福島県指定史跡であり、名勝ともなっています。
中世の城郭内庭園では、梁川城のように本丸に庭園が現存する例は少なく、この心字の池は極めて貴重といいます。
梁川城の築城年は明確にはわかっていませんが、少なくとも嘉吉元年(1441年)に、11代持宗が梁川に輪王寺を創建した記録から、その前には梁川城に居城していたことは間違いないといいます。
石垣も見られます。
大永2年(1522年)に14代稙宗が室町幕府から陸奥国守護に任命されたことから、梁川が奥州の政治的中枢の位置を占めるようになったと伊達市HPにありました。
↑奥の少し高くなったところに建物らしきものがあるので城と関係するのか見てみましょう。
かつて藩の城が位置していたところに明治維新後、県庁があるところが日本中に数多くあります。
福島県も同様で、福島県庁のあるところに福島城があったようです。
しかし、そこは県庁周囲に堀があるわけでもないし、そもそも福島城ってあまり聞き覚えがありません。
↑県庁前の案内板を見ると、やはりここに福島城があり奥州街道も通っていたようです。
城郭どころか、本丸、二の丸、三の丸などの区画さえ今では残っていません。
福島県の城というと、会津城の方がずっと有名です。
↑わずかにある福島城の名残りとしては、県庁駐車場隣りにあるこの紅葉山公園です。
ここは「二の丸御外庭」という江戸時代の福島藩主板倉重寛により設けられた庭で、ケヤキの大木も当時のものだたそうです。
また、ここには県指定有形文化財の宝塔があります。
大佛城跡出土宝塔で、弘安六年と刻まれており、1283年のものとなりますから、鎌倉時代のものです。
この辺りにはかつては杉妻(すぎのめ)寺があったということです。
この宝塔は厳密には、県庁西庁舎南の位置から出土したといいます。
そこには、もう一つある福島城の名残である土塁がありました。
案内板には、平安時代末に信夫庄司佐藤氏一族の杉目太郎行信が居住した杉妻城があったとありました。
また、福島市HPによると、文治5年(1189年)、初代伊達朝宗が奥州攻めの手柄として源頼朝から伊達郡を領地として与えられ、伊達家を名乗り住むようになり、信夫の里の杉目(すぎのめ)郷と呼ばれたここに応永20年(1413年)ころ、当時の伊達盆地の支配者である伊達持宗が城を築いたとあります。
杉妻(すぎのめ)寺の大仏堂があったため杉妻(杉目)城、または大仏城と呼ばれていました。
城の南東には阿武隈川が流れていますから、こちらは天然の要害となっています。
↑江戸時代の寛文年間に、幕府に命じられた河村瑞賢が江戸までの年貢米の輸送する「東回り航路」を開発して、ここ福島河岸は福島藩、米沢藩の御米倉専用の船着場となり、それが復元されています。
右の壁に何か表示があるのが気になります。
城郭の縄張りの完成度が高いといわれる狭山市の柏原城の続きです。
守りやすさから舌状台地に築かれた城は、裏側の方は平坦な土地であるはずです。
その北西側からの様子を見てみます。
↑こうして見る限りは、やはり予想通りに攻めやすそうに感じられます。
しかし、すぐ近くまで行って、同じく北西方向から本郭を見ると、手前には空堀があります。
その向こうには土塁がありますから、さらに高くなっています。
東側を除く本郭周囲には空堀が巡っていますが、その深さは平均で約3メートルとなっています。
幅はもっとも広い所で7メートル、狭い所で3メートルあり、平均は約4メートルです。
↑空堀の中に入ってみると、やはり周囲は高く、当時としてはさらに2メートル深かったとのことなので、攻め上がるどころか這い上がるのも難しかったことでしょう。
この北西側からも柏原城というか城山砦跡への入り口があります。
前回も触れたように、ここにはいくつもの名称がありますが、なぜか統一されていないのが不思議です。
↑左側にあるのが、先程下にも行った空堀で、左奥が本郭です。
さらに、発掘調査によると、この空堀の外側にも深さ3メートルの空堀があったといいます。
ここは現在では道路になっているので面影は残っていませんが、二つの空堀の間には1メートル程の土塁上の高みが残っています。
ところで、そもそもこの柏原城は、扇谷上杉氏の居城であった河越城が北条氏に落とされたものを、再び奪還するための拠点だったはずです。
攻め込むための城なのだから、そんなに守りの重点を置く必要があったのでしょうか。