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城跡

2017年7月16日 (日)

川越にある国指定史跡になっている河越館跡は土塁や空堀もある芝生の広い公園

こんなに暑くなっていない、しばらく前の話になりますが、川越市にある河越館跡に行きました。

川越城は川越市街地からそれほど遠くない1.5km程度のところにあり、先日利用した自転車シェアリング駐輪場もありましたが、こちら河越館跡にはありません。

本川越駅からは3km以上北西に離れていており、入間川を渡った先ですから、シェアサイクルで来ることは想定されていないようですが、車で来ることは考えられていて、無料駐車場はありました。

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国指定史跡である河越館跡は「河越館跡史跡公園」として整備されており、空堀や土塁も保存されています。

1969(昭和44)年に国指定に向けた検討が開始され、1984年(昭和59年)には指定されましたが、調査、発掘などを経て、2009年(平成21年)史跡公園としてようやくオープンしました。

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この場所に居を構えていた河越氏は、平安時代末(12世紀後半)から南北朝時代(14世紀中頃)にかけて、武蔵国で勢力を誇った武士です。

1184(元暦元)年、河越重頼の娘は源義経の正妻として嫁ぐなど隆盛を極めましたが、義経の縁者として源頼朝に滅ぼされ、勢力を失いました。

鎌倉時代中期以降、武蔵国の筆頭格となるなど回復しましたが、1368(応安元)年に平一揆(へいいっき)を組織した河越直重が、鎌倉府に河越館の戦いで敗れ、歴史の表舞台から姿を消しました。

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↑当時の井戸跡ですが、武蔵国では素掘りの井戸が多く、このように板材で囲った井戸は珍しかったようです。

↓ここには周囲を溝に囲まれて盛土に礫を葺いた塚状の遺構があったようです。

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おそらく霊廟や納骨堂だったと推測されています。

河越氏の屋敷地を区画していた堀があり、その外側の道路跡があります。

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河越氏がいなくなった以降も、ここは戦いの拠点でした。

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2017年6月11日 (日)

岡城のある城山公園は戦国時代らしい遺構が残っているけど、誰の築城かはわからない城

小平霊園から北東へと流れていく黒目川を下流へと向かうと、東武東上線も越えると流れが東から南東へと向きが変わります。

その右岸沿いには小高い丘のようなところがあり、城山公園となっています。

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ここには「岡城」とか「岡の城山」と呼ばれる城があったといいます。

黒目川に沿って駐車場があり、その先の南面は児童遊園のようになっています。

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↑ちょっと期待はずれだったかなと思っていましたが、案内板によると一の郭、二の郭、三の郭という広場はあるようなので行ってみます。

丘を登っていくと、今では公園として階段がありますが、如何にも戦国時代の山城という感じの斜面になっています。

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ところで、岡と丘の両方で書いてしまっていますが、ここの地名は「朝霞市岡」です。

まずは三の郭を目指します。

左右が高く中央部が低い、空堀らしいところがあります。

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公園入口にあった案内板によると、調査の結果、この岡城は南北朝時代、室町時代、戦国時代の中世の平山城ではありますが、誰によって築かれたのか、はっきりしないようです。

太田道灌によって築かれたという説もあるようですが、よくわからないみたいです。

ここが三の郭広場です。

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そう名付けられていますが、特に説明板等は見当たりません。

続いて二の郭へと向かおうとすると、茅ヶ崎城や高天神城でもよく見かけた形になっています。

階段を下に降りて、再び登るようになっています。

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2017年5月 7日 (日)

全国で2つしかない本丸御殿が現存する川越城と通りゃんせに歌われた天神の細道じゃ

天守閣がある城は有名なものがいくつもありますが、本丸御殿が現存し大広間があるのは高知城と川越城だけだといいます。

ちなみに、二の丸御殿が現存するのは、以前見に行った掛川城と京都二条城だけです。

その川越城本丸御殿を見に、引き続き、川越市自転車シェアリングを利用して行きました。

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川越城は、室町時代に太田道灌または父の太田道真によって築かれましたといいますから、江戸城と同様です。

扇谷上杉氏の武蔵国支配の居城となりますが、日本三大夜戦の一つ河越夜戦で後北条氏に敗れ、さらに安土桃山時代には、豊臣秀吉の小田原成敗を経て、江戸時代には川越藩として、徳川家康の譜代、酒井氏の城となりました。

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この本丸御殿は、1848年(嘉永元年)松平斉典が造営したものです。

もっとずっと大きかったようで、本丸御殿だけで16棟、1025坪あったそうです。

その玄関部分と大広間は残されており、埼玉県指定有形文化財となっています。

↑玄関が廊下の中心部にあり、左へ時計回りに向かっているので、長さのイメージが湧きづらいですが、この東廊下は40m近くの長さがあり、幅も3m以上あります。

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↑順路としては最後に見ることになる玄関前のこの広間は、36畳もの広さがあり、部屋の中に入ることもできるようになっています。

大広間がこんな玄関からすぐの位置にあっていいものかとも思いますが、近世の城の本丸御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設となっていました。

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↑庭は美しい枯山水の庭園となっています。

まあ、これが当時からあったかはよくわかりません。

家老詰所だった建物もありますが、これは移築されたということで、当時はもっと離れていたようです。

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川越藩は相模国の三浦半島にも領地をもっていたため、幕末には海岸警護も命じられていました。

さらには、品川台場の警備も命じられたということで、その打ち合わせをしているという家老たちの人形もあります。

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これは予想外にいきなり現れるので、びっくりしてちょっと声を出しそうになりました。

ところで、童謡「通りゃんせ」といえば、子供の頃から知っているし、歩行者用信号機でもボタンを押すと流れていました。

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2017年3月 5日 (日)

早渕川からの崖の上にあって高低差を実感できる茅ヶ崎城の郭や土橋

前回に続き、横浜市都筑区にある中世城郭の様子がよく保存されている茅ヶ崎城址公園を見て回ります。

横浜市指定史跡となっています。

ここは案内板がとても丁寧で、郭についても説明されています。

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最初に見た地図とは上下が逆で、北が上になっています。

北郭、西郭、中郭と見てきましたが、その中郭の南側から次に東郭に向かうと、まず一旦下り、その先は急な上りとなっています。

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中郭と東郭の間には幅14m、深さ7mの空堀がありましたが、この2つの郭は土橋で繋がれていたようです。

土橋があったら、簡単に攻め込むことができてしまい、防御の上では不利のように思われます。

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しかし、この土橋は中郭よりも2m低い位置で、東郭からは4mも低い位置でしたから、東郭に向けては何かに掴まらなければ登れないほどの旧斜面だったといいます。

そして、この茅ヶ崎城では一番高い標高35mのところに東郭があります。

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この東郭が主郭と考えられており、南北幅50m、東西幅20mもの広さがあります。

建物の跡などは見つかっていません。

ここからは遠くが見渡せ、かつては鎌倉道「中の道」が近くを通っている交通の要衝でしたから、軍事上も有利だったことでしょう。

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東に中原街道、西に大山道も通っていますし、すぐ近くの早渕川沿いの道は神奈川湊と武蔵国府を結ぶるルートでした。

現在は、左の方に横浜市営地下鉄センター北駅前の商業施設の賑わいも見ることができます。

また、家の屋根が低いところに見えますが、少し向こう側はさらに低い土地となっているようで、かなり下に屋根が見えます。

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東郭から出て南側を戻り下っていくと、東郭虎口があったと思われるところがあります。

ちょうど先程の、中郭と東郭間の土橋のあった空堀につながるような位置になります。

この南側斜面の下には、根小屋という城下町のようなものがあったようです。

中世の城では城主や重臣たちは、主郭や本丸には住んでおらず、麓の根小屋に居住していて、戦になると城に籠って戦っていたそうです。

4つの郭以外にもいろいろあるようなので、さらに見てみます。

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2017年2月26日 (日)

茅ヶ崎城址は横浜市都筑区にあり中世城郭の空堀や土塁が良好な状態で見られる

茅ヶ崎城と言われれば、普通の人なら茅ヶ崎市にあると思いますが、しかし、なぜか横浜市都筑区にあったという城です。

ここにも茅ヶ崎という地名なので、この名がついています。

さらに、そもそも横浜市に都筑区なんてあったかなとも思いましたが、1994年(平成6年)に発足した比較的新しい区だそうです。

港北ニュータウンのある辺りといえば、場所のイメージがわかる方も多いことでしょうか、港北区の一部だったはずです。

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横浜市営地下鉄のセンター南駅から歩車分離された自転車歩行者道を300~400mほど歩くと、小高い丘のようになっています。

↑ここが茅ヶ崎城址公園として中世城郭がとても良好な状態で保存されている所です。

南側の方から入口を探しましたが見当たらないので、西側に沿って行くと北に入口はあるようです

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↑さすが、中世の山城らしく、入口からすぐに急な階段です。

もう一カ所がメインともいえる入り口で、そちらはもう少し先にありスロープとなっていました。

そちらから少し上ると、広い空間が広がっていますが、そこは北郭です。

「くるわ」はこのように郭と書いたり、曲輪だったりしますが、ここでは郭のようです。

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ここには案内板があり、それによると、

茅ヶ崎城址は、空堀、郭、土塁などが良好な状態で残る貴重な中世城郭遺跡で、早渕川を北に望む自然の丘を利用して築城されているとあります。

14世紀末〜15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなり、16世紀中頃にはニ重土塁とその間に空堀が設けられましたとあります。

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築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定されています。

北郭、中郭、西郭、東郭があるようですが、北郭は比較的低い位置になります。

次に、空堀だったところの通路を通り、西郭に向かいます。

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↑折れ曲がった辺りに北側の城の入り口である虎口(小口)があったのではないかと推定されているようです。

虎口のところは狭い通路となっており、上から城の防御のための攻撃をしやすいようになっていました。

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この先を右に曲がると、西郭になります。

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2016年6月 5日 (日)

三重の堀と土塁が築かれていた難波田城と難波田氏がいた南畑

埼玉県富士見市には、水子貝塚公園からは2kmほどの距離に、埼玉県指定旧跡の難波田城跡もあります。

ここの地名は南畑で、こちらも難波田城公園として整備されています。

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↑入口にある案内図が2つありますが、左は視覚障碍者に配慮してあるそうです。

難波田城は鎌倉時代からあったようですが、当時は小規模なものだったものが、室町時代に大規模なものに改造されたようです。

荒川低地の一角に築かれた平城で、50000平方mの規模があったと推定されますが、そのうち17000平方mが公園となっています。

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↑東側の入口から入ると、復元された木橋がありますが、橋の城側の幅は1.8m、外側の幅は2.7mとなっています。

内側の馬出し曲輪から攻めだしやすく、逆に敵からは攻め込みにくい仕組みだったようです。

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このように水堀と土塁がありますが、江戸時代の絵図によると、三重の堀に囲まれていたとのことです。

本城門といって、本城のあった曲輪の入口の門で、冠木門という形です。

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平安時代終わり頃には、武蔵国には武蔵七党という武士団が活躍していましたが、その一つ、村山党の中心に金子氏がいました。

鎌倉時代の承久の変で討ち死にしますが、その活躍により子孫に対し、この地、南畑に所領が与えられました。

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本城のあったところは宅地化されており、碑が立っていますが、そのすぐ後ろは住宅となっています。

この地名が南畑ということで難波田氏と名乗るようになったといいます。

その後、難波田氏にも難波田城にも、いろいろ苦難はあったようです。

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2015年9月27日 (日)

高天神城の西峰は武田氏が守備固めした堀切や切割がすばらしい

静岡県掛川市にある高天神城の東峰に行った前回の続きで、西峰の方に行ってきました。

二つのコブのような形になっている東峰と西峰の間の谷の部分も、かなり高いところにあります。

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↑南方を見渡すことができるので、遠州灘の風力発電のプロペラがいくつも見えます。

また、南側も急斜面であることがわかります。

西峰の方を登ると、二の丸跡があります。

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この城の攻防戦で後期はこちらの西峰が中心となったようです。

北と東と南は急斜面で、攻めづらい地形となっている中、西だけが緩傾斜の尾根が続いているのです。

そのため、西側には長い横堀が造られています。

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実際に、徳川方の城を武田軍は、1574年(天正2年)の戦いでは西から攻めて、奪いました。

そのため、武田軍は西がこの城の弱点であることがわかっていたため、この横堀(空堀)を整備しました。

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空堀と通常書きますが、ここにある標識によると「隍堀(からぼり)」と書いてありました。

西の斜面を覗き込んでみると、十分に急斜面のように感じられます。

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ここを武器を持って駆け上がってくるのは、かなりきつそうに思われます。

この横堀を突破されたことも想定されています。

深い堀切があります。

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尾根上を進んでくる敵の攻撃を阻むため、尾根を切り開いて造られました。

発掘調査の結果によると、この上部を繋ぐ橋が架けられていたそうです。

普段は橋で行き来し、攻め込まれてきたら、橋を壊してたのでしょう。

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↑西の丸跡周辺は、高天神社となっています。

東峰にあったものが江戸時代になってから、こちらに移転されたものです。

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さらに西側に進むと、深い切割があります。

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2015年9月20日 (日)

武田徳川が争い、難攻不落の名城といわれた高天神城跡に行く

高天神城は、静岡県掛川市にある標高132mの鶴翁山を中心に造られた山城です。

「難攻不落の名城」や「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝で、小笠山の北を通る東海道を牽制できる立地条件にある重要な城であったため、徳川氏と武田氏が争奪戦を繰り広げました。

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北側と南側に入り口があるようですが、今回は車で行ったので駐車場の数の多そうな北口から行きました。

のどかな田園風景の中に山があります。

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高天神城跡は国指定史跡となっており、山の上には高天神社があり参道として、そしてハイキングコースとしても登れるようになっています。

しかし、土曜日の夕方に行きましたが、車は数台止まっていたものの、結局、山中というか城跡内では誰ともすれ違いませんでした。

まず、搦手門跡の方から登って行きます。

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この城の北と東と南の斜面は、断崖絶壁という感じで、急な階段をハーハー息を切らせながら登っていきます。

その階段も三日月井戸のところでは、ヘアピンカーブのように曲がっており、いかにも攻めにくそうです。

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室町時代に今川氏により築かれたとされ、今川氏の滅亡後、徳川家康の持ち城となり、小笠原長忠が城主となりました。

武田信玄が1571年(元亀2年)に攻めますが落とせず、1574年(天正2年)、信玄の息子・勝頼が二万の大軍で攻め、ついに開城させ、まず徳川方から武田方の城になりました。

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↑少し平らなところがあり、かな井戸のある井戸曲輪跡に到着です。

ここを境に東峰と西峰に分かれています。

それぞれが独立した城のようになってますが、東峰と西峰を合わせて1つの城を形成する一城別郭式の縄張りとなっています。

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では、東峰に登っていきましょう。

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2015年2月22日 (日)

全国に4つしかない現存する城郭御殿の一つである掛川御殿

御殿というと、身分の高い人やお金持ちの邸宅のことをいいます。

近世の城にあっては、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設のことをいいます。

静岡県掛川市にある掛川城御殿は、現存する数少ない城郭御殿です。

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本丸御殿は川越城と高知城、二の丸御殿は京都二条城とここ掛川城にしか、現存した城郭御殿は無いそうです。

先週ご紹介した天守閣は再建したものでしたが、こちらの御殿は江戸時代後期の建築物で、国重要文化財にも指定されています。

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旧御殿が嘉永7年(1854年)安政の大地震で倒壊したため、時の城主太田資功によって、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたものです。

 安政2年から明治2年(1869年)までの14年間は掛川藩で使われましたが、廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附され、聚学校、掛川町役場、市庁舎などに使用されました。

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建築様式としては7棟からなる書院造で、畳敷きの20もの部屋が連なり、各部屋はふすまによって仕切られています。

江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物です。

天守閣との共通入館券(410円)で中に入れます。

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屋根組みだって、同じ木造とはいえ再建された天守閣よりも、古い渋い良さがあります。

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御殿から出て、振り返って正面玄関を見てみると、やはり美しい。

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2015年2月15日 (日)

日本初の木造で復元された掛川城天守閣

東海道新幹線に乗ると、左右どちらの窓側に座るか悩んでしまいます。

進行方向左側3人掛けの窓からは、海が見られます。

右側2人掛けの窓からは、富士山が見られます。

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結局、右です。雲のかかっていることもありますが、この日は良く見えました。

新幹線から写真を撮るのは初めてでしたが、防音壁や電線や架線柱などがあり、意外と難しいものでした。

さて、この日は所用があって、静岡県掛川市に来ました。

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昭和39年(1964年)開通から20数年間、静岡駅と浜松駅の間に新幹線の駅はありませんでしたが、昭和63年(1988年)に、掛川駅にもこだま号が止まるようになりました。

南口はどこにでもよく見かける、いかにも新幹線の駅という雰囲気ですが、こちらの北口は木造駅舎です。↑

昭和15年(1940年)に建てられたもので、新幹線停車駅としては唯一の木造駅舎だそうで、木造駅舎保存運動により、元の資材を活用して耐震化工事を行い、平成26年(2014年)1月26日に供用開始したとのことです。

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ところで、電車で旅をするときは車窓を見ていて、様々な新しい建物が建ったりするのを楽しみに見ていますが、東海道新幹線に乗っていて、ある日当然、城が建ってびっくりしたことがありました。

これまでも、鉄筋コンクリート造で復元された城はありましたが、平成6年(1994年)に日本で初めて木造で復元されたという、掛川城天守閣です。

140年ぶりに再建されました。

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戦国時代に駿河の守護大名であった今川氏が、遠江支配の拠点として重臣朝比奈氏に築かせたといわれています。

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれると、永禄11年(1568年)義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠もりました。

徳川家康がここを攻めましたが、この時、井戸から立ち込めた霧が城を包み、攻撃から城を守ったという「霧吹き井戸」です。↓

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長期にわたる攻防の末、和睦により開城され、家康領として重臣石川氏が入り、武田氏侵攻の防御の拠点となりました。

天正18年(1590年)豊臣秀吉が全国平定し、徳川家康が関東に移されると、掛川城には秀吉配下の山内一豊が入りました。

山内一豊の妻が有名ですが、その一豊が天守閣をつくったのです。

では、そこに入ってみます。(入館料410円でした。)

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