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城跡

2019年9月15日 (日)

石田堤が破堤したという地点と鴻巣市の史跡公園にある堤の断面

石田三成による忍城水攻めの際に築かれたという石田堤の行田市の現存しているところを見てきました。

新忍川の堀切橋が鴻巣市(合併前の吹上町)との境界ですが、その堀切橋は土木学会選奨土木遺産となっています。

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↑北の行田市方向を振り返って見ていますが、親柱頂部に尖頭半球が施されています。

この高欄には三角形の空間があるデザインとなっています。

昭和8年(1933)に竣工しましたが、屋外アート風の橋であることから土木遺産に選奨されたそうです。

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↑南の鴻巣市側を見てみると、幾何学模様が描かれているのもわかります。

高欄の影に三角形があるのも面白いです。

忍城水攻めの時は、この堀切橋のところで石田堤が破堤して、石田三成率いる豊臣軍に多数の犠牲者が出たということです。

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↑堀切橋から南の約300メートルも石田堤が保存されており、鴻巣市指定史跡として石田堤史跡公園となっています。

東屋や説明板などが整備されていますが、堤が途中でバッサリと切断されています。

ここには上越新幹線が通っているのです。

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その高架橋の下も広場となっています。

様々な説明板がありますが、櫓のシンボルモニュメント下では石田堤の音声案内を聞くことが出来ます。

感知器があって、人が下に立つと音声が流れてきます。

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音声は2パターンあるようですが、東屋のところにあった説明板によると、上を新幹線が通過するときにその別バージョンが聞くことができると書かれていました。

聞いてみると、解説だけでなくドラマ仕立てとなっており、石田三成役は大和田伸也さんです。

このブログを見ている方は分かりづらいでしょうから、国土交通省HPにある石田堤のイメージ地図です。

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2019年9月 8日 (日)

石田三成による忍城水攻め時に陣のあったところからの眺めとその時に築かれた石田堤

戦国時代末期、豊臣秀吉は関東地方に勢力を持つ小田原北条氏と戦うことで関東を平定して、天下統一することを目指していました。

小田原城の支城であり、行田市にある成田氏の忍城への攻撃を石田三成が命じられました。

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↑石田三成は、同じく行田市にある埼玉古墳群の丸墓山古墳に本陣を構え、忍城付近を眺め、その地形から水攻めをすることを決めたと言われていました。

しかし、実際には石田三成が考えたというよりも、豊臣秀吉の強い意向により水攻めは行われたようです。

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↑丸墓山古墳は高さ19メートルありますから、確かに忍城周辺の地形はよく見ることが出来ます。

忍城を取り囲むように堤を築いて、利根川、荒川の水を引き込み水攻めをしようとしたものでした。

天正18年(1590)に石田三成らは城を包囲し水攻めをすることとし、そのために築いた堤は後に「石田堤」と言われています。

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↑丸墓山古墳古墳から南へ向かう道も石田堤の一部とのことです。

全長28キロメートルに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています。

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↑古墳への通路となっているため、あまり堤の面影はありません。

当時、堤が完成し、利根川や荒川の水を引き入れましたが、地形的に忍城や城下町よりも現在の下忍や堤根方面に水が溜まってしまいました。

遂には堤が決壊し、水攻めは失敗に終わりました。

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↑2.5キロメートルほど南にある行田市堤根には、この石田堤が残されています。

ここは行田市により、「石田堤歴史の広場」として駐車場と広場が整備されています。

ここの堤は延長282メートルあり、埼玉県指定史跡にもなっています。

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2019年8月 4日 (日)

北本市の石戸城とそれを攻める北条氏邦が一夜にして築いたという一夜堤

石戸城は天神山城ともいわれる北本市石戸宿にある城跡です。

室町時代長禄年間(1457~60年)頃の城といいます。

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↑荒川沿いの河川敷にある天神下駐車場から見上げていますが、荒川の堤防にもなっている桜堤通りに沿って石戸城はありました。

扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が築城し、北上する北条氏に備えるため、岩付城、松山城、川越城を結ぶ防衛ラインの一部を担っていました。

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↑その桜堤通りを南に向かい北を振り返ると、一の郭があったところを道路が分断して通っています。

一の郭の左側が荒川になりますから、西側は要害となっています。

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↑さらに南に行くと、五の郭のあった辺りに北本市教育委員会による説明板があります。

奥の方が三の郭になります。

永禄6年(1563)北条、武田連合軍が松山城攻めした時には、援軍のため上杉謙信が上越越えをして石戸城に逗留したといいます。

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↑そこにある地図になります。

埼玉県選定重要遺跡となっています。

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↑この道を挟んで左側が四の郭になります。

一の郭(左)と二の郭(右)間は急な下り坂で、トンネルに入って行くような感じです。

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ここまで風景では戦国の城跡の印象がありませんでしたが、奥に入って行くと別世界になります。

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2018年8月12日 (日)

県指定史跡である毛呂氏館跡を廻りながら毛呂山町の由来を考えてみる

埼玉県毛呂山町にある毛呂氏館跡に行って来ました。

JR八高線毛呂駅から1kmも離れておらず、県道30号線から毛呂山霊園の案内板のところを曲がれば行ける、分かりやすいところにあります。

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↑金嶋山長栄寺の山門から入っていきます。

ここ長栄寺と裏山が毛呂氏館のあったところです。

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↑埼玉県指定史跡となっており、毛呂顕季が館を廃し寺を建てたと、ここにある埼玉県・毛呂山町教育委員会の標柱には書かれています。

しかし、埼玉県HPの史跡・名勝の紹介には毛呂顕重により創建と書かれています。

まあいずれにせよ、毛呂氏がその館跡を長栄寺としたようです。

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↑長栄寺から北側の裏山に向けて坂道を登ったすぐ先には毛呂氏墓があります。

↓ここには毛呂氏供養塔があり、説明板もありました。

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毛呂氏の祖である季光(すえみつ)は、治承4年(1180年)源頼朝挙兵以来その側近としてつかえ、毛呂郷地頭職の外、豊後の国守なども歴任していました。

頼朝の死後起きた重臣間の争いを避け、職を辞して毛呂郷に帰ったといわれています。

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↑長栄寺と背後の石尊山の中腹までが毛呂氏の館跡と考えられており、その分岐点には標識があり、ここから山中に入っていきます。

城跡めぐりに夏は向いておらず、踏み分け道にも雑草の下草は多く、歩きづらいしヘビの心配もしなくてはいけません。

クモの巣をかき分けながら進んでいきます。

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2018年5月 6日 (日)

伊達市にある伊達氏の梁川城は一時期には奥州の政治的中枢となっていた

独眼竜政宗として伊達氏は有名であり、場所としては東北地方の中でも、仙台をイメージする人が多いと思います。

福島県には伊達市がありますが、あの伊達氏とは関係ないと思われてしまうでしょう。

しかし、奥州攻めの手柄として源頼朝から伊達郡を領地として与えられたことから、伊達氏を名乗るようになったのですから、こちらが本家です。

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↑鎌倉時代に築城されたという伊達市の位置する梁川(やながわ)城は、南に広瀬川、北には塩野川が流れる平山城で、11代伊達持宗から14代稙宗まで伊達氏の本拠として整備されました。

城跡は梁川小学校、中学校、高等学校の敷地となっていますが、一部保存されています。

上の案内図もある北東側の入口から攻め込もう?とすると、かなりの急斜面の上にあることがわかります。

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↑ここはGoogleマップでは梁川城跡と表示されるところで、少し前までの梁川小学校の入口にあたりますが、ロープが張られて立入禁止になっているようです。

そこで、南側にまわり城跡を見てみます。

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↑こちらには、梁川城本丸跡、庭園「心字の池」との案内板が立っています。

低い微妙な位置にはロープがありますが、「ここをまっすぐ」とも書かれています。

ロープは車止めの意味であると解釈して中に行ってみました。

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やはり人が入ってくることが想定されており、福島県教育委員会による案内板もあります。

福島県指定史跡であり、名勝ともなっています。

中世の城郭内庭園では、梁川城のように本丸に庭園が現存する例は少なく、この心字の池は極めて貴重といいます。

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梁川城の築城年は明確にはわかっていませんが、少なくとも嘉吉元年(1441年)に、11代持宗が梁川に輪王寺を創建した記録から、その前には梁川城に居城していたことは間違いないといいます。

石垣も見られます。

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大永2年(1522年)に14代稙宗が室町幕府から陸奥国守護に任命されたことから、梁川が奥州の政治的中枢の位置を占めるようになったと伊達市HPにありました。

↑奥の少し高くなったところに建物らしきものがあるので城と関係するのか見てみましょう。

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2018年4月29日 (日)

福島城のあった場所とその名残と福島という名前の由来、そして日銀東北初の出張所

かつて藩の城が位置していたところに明治維新後、県庁があるところが日本中に数多くあります。

福島県も同様で、福島県庁のあるところに福島城があったようです。

しかし、そこは県庁周囲に堀があるわけでもないし、そもそも福島城ってあまり聞き覚えがありません。

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↑県庁前の案内板を見ると、やはりここに福島城があり奥州街道も通っていたようです。

城郭どころか、本丸、二の丸、三の丸などの区画さえ今では残っていません。

福島県の城というと、会津城の方がずっと有名です。

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↑わずかにある福島城の名残りとしては、県庁駐車場隣りにあるこの紅葉山公園です。

ここは「二の丸御外庭」という江戸時代の福島藩主板倉重寛により設けられた庭で、ケヤキの大木も当時のものだたそうです。

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また、ここには県指定有形文化財の宝塔があります。

大佛城跡出土宝塔で、弘安六年と刻まれており、1283年のものとなりますから、鎌倉時代のものです。

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この辺りにはかつては杉妻(すぎのめ)寺があったということです。

この宝塔は厳密には、県庁西庁舎南の位置から出土したといいます。

そこには、もう一つある福島城の名残である土塁がありました。

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案内板には、平安時代末に信夫庄司佐藤氏一族の杉目太郎行信が居住した杉妻城があったとありました。

また、福島市HPによると、文治5年(1189年)、初代伊達朝宗が奥州攻めの手柄として源頼朝から伊達郡を領地として与えられ、伊達家を名乗り住むようになり、信夫の里の杉目(すぎのめ)郷と呼ばれたここに応永20年(1413年)ころ、当時の伊達盆地の支配者である伊達持宗が城を築いたとあります。

杉妻(すぎのめ)寺の大仏堂があったため杉妻(杉目)城、または大仏城と呼ばれていました。

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城の南東には阿武隈川が流れていますから、こちらは天然の要害となっています。

↑江戸時代の寛文年間に、幕府に命じられた河村瑞賢が江戸までの年貢米の輸送する「東回り航路」を開発して、ここ福島河岸は福島藩、米沢藩の御米倉専用の船着場となり、それが復元されています。

右の壁に何か表示があるのが気になります。

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2018年3月18日 (日)

北条氏から河越城を奪還するための柏原城なのに何で守りに力を入れているのかの疑問

城郭の縄張りの完成度が高いといわれる狭山市の柏原城の続きです。

守りやすさから舌状台地に築かれた城は、裏側の方は平坦な土地であるはずです。

その北西側からの様子を見てみます。

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↑こうして見る限りは、やはり予想通りに攻めやすそうに感じられます。

しかし、すぐ近くまで行って、同じく北西方向から本郭を見ると、手前には空堀があります。

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その向こうには土塁がありますから、さらに高くなっています。

東側を除く本郭周囲には空堀が巡っていますが、その深さは平均で約3メートルとなっています。

幅はもっとも広い所で7メートル、狭い所で3メートルあり、平均は約4メートルです。

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↑空堀の中に入ってみると、やはり周囲は高く、当時としてはさらに2メートル深かったとのことなので、攻め上がるどころか這い上がるのも難しかったことでしょう。

この北西側からも柏原城というか城山砦跡への入り口があります。

前回も触れたように、ここにはいくつもの名称がありますが、なぜか統一されていないのが不思議です。

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↑左側にあるのが、先程下にも行った空堀で、左奥が本郭です。

さらに、発掘調査によると、この空堀の外側にも深さ3メートルの空堀があったといいます。

ここは現在では道路になっているので面影は残っていませんが、二つの空堀の間には1メートル程の土塁上の高みが残っています。

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ところで、そもそもこの柏原城は、扇谷上杉氏の居城であった河越城が北条氏に落とされたものを、再び奪還するための拠点だったはずです。

攻め込むための城なのだから、そんなに守りの重点を置く必要があったのでしょうか。

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2018年3月11日 (日)

城山砦、上杉砦、柏原城といろいろな名で呼ばれる山内上杉氏の城郭の完成度の高さ

狭山市柏原には市内唯一である中世城郭の跡があります。

戦国時代の城は天守閣などの飾りつけはなく土の城で、まさに戦いの城という感じがいいものですが、位置的には新狭山駅から北西方向に向かい、入間川を渡った先になります。

その面積は約7000平方メートルあり、狭山市による案内表示板では「城山砦跡」と書かれていますが、別名を上杉砦ともいい、さらには地名から柏原城とも呼ばれています。

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↑狭山市駅からのバスの行き先にもなっている大規模に住宅開発された西武狭山ニュータウンの住宅地のすぐ横に沿うように、その砦跡というか城跡はあります。

ここも戦うための城によくあるパターンで、入間川に迫り出した舌状台地の端部に位置し、10メートルほどの河岸段丘上にあります。

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↑山城というか丘城ですが、登っていくとやはり結構急斜面です。

ここは天文14年(1545年)9月から半年近くにわたり、関東管領の山内上杉憲政が陣を敷いたことから、江戸時代後期には「上杉砦」と言われていたと案内板にありました。

坂を進んでいくと空堀の中に入っていきます。

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↑敵がこの城を攻めようとすると、上から弓矢で攻撃して防御するでしょう。

憲政がここに着陣したのは、天文6年(1537年)に河越城が小田原の後北条氏に奪われたものを再び奪い返すためでした。

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↑案内板にあった地図ですが(クリックすると拡大します)、この下の方から登ってきました。

東に本郭、西に二ノ郭があり、この図にはありませんが、さらにその西には三ノ郭もあったようです。

本郭への入口である虎口から中に入り、振り返って見ると両側には高さ3mほどの土塁があります。

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この虎口さえ守れば、それ以外からは敵は易々とは攻め入ることのできない作りになっています。

陣を構えて城を守る立場にたって山城を見るといろいろ面白いものです。

さらに、そのスタンスで見て回りましょう。

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2017年7月16日 (日)

川越にある国指定史跡になっている河越館跡は土塁や空堀もある芝生の広い公園

こんなに暑くなっていない、しばらく前の話になりますが、川越市にある河越館跡に行きました。

川越城は川越市街地からそれほど遠くない1.5km程度のところにあり、先日利用した自転車シェアリング駐輪場もありましたが、こちら河越館跡にはありません。

本川越駅からは3km以上北西に離れていており、入間川を渡った先ですから、シェアサイクルで来ることは想定されていないようですが、車で来ることは考えられていて、無料駐車場はありました。

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国指定史跡である河越館跡は「河越館跡史跡公園」として整備されており、空堀や土塁も保存されています。

1969(昭和44)年に国指定に向けた検討が開始され、1984年(昭和59年)には指定されましたが、調査、発掘などを経て、2009年(平成21年)史跡公園としてようやくオープンしました。

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この場所に居を構えていた河越氏は、平安時代末(12世紀後半)から南北朝時代(14世紀中頃)にかけて、武蔵国で勢力を誇った武士です。

1184(元暦元)年、河越重頼の娘は源義経の正妻として嫁ぐなど隆盛を極めましたが、義経の縁者として源頼朝に滅ぼされ、勢力を失いました。

鎌倉時代中期以降、武蔵国の筆頭格となるなど回復しましたが、1368(応安元)年に平一揆(へいいっき)を組織した河越直重が、鎌倉府に河越館の戦いで敗れ、歴史の表舞台から姿を消しました。

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↑当時の井戸跡ですが、武蔵国では素掘りの井戸が多く、このように板材で囲った井戸は珍しかったようです。

↓ここには周囲を溝に囲まれて盛土に礫を葺いた塚状の遺構があったようです。

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おそらく霊廟や納骨堂だったと推測されています。

河越氏の屋敷地を区画していた堀があり、その外側の道路跡があります。

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河越氏がいなくなった以降も、ここは戦いの拠点でした。

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2017年6月11日 (日)

岡城のある城山公園は戦国時代らしい遺構が残っているけど、誰の築城かはわからない城

小平霊園から北東へと流れていく黒目川を下流へと向かうと、東武東上線も越えると流れが東から南東へと向きが変わります。

その右岸沿いには小高い丘のようなところがあり、城山公園となっています。

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ここには「岡城」とか「岡の城山」と呼ばれる城があったといいます。

黒目川に沿って駐車場があり、その先の南面は児童遊園のようになっています。

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↑ちょっと期待はずれだったかなと思っていましたが、案内板によると一の郭、二の郭、三の郭という広場はあるようなので行ってみます。

丘を登っていくと、今では公園として階段がありますが、如何にも戦国時代の山城という感じの斜面になっています。

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ところで、岡と丘の両方で書いてしまっていますが、ここの地名は「朝霞市岡」です。

まずは三の郭を目指します。

左右が高く中央部が低い、空堀らしいところがあります。

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公園入口にあった案内板によると、調査の結果、この岡城は南北朝時代、室町時代、戦国時代の中世の平山城ではありますが、誰によって築かれたのか、はっきりしないようです。

太田道灌によって築かれたという説もあるようですが、よくわからないみたいです。

ここが三の郭広場です。

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そう名付けられていますが、特に説明板等は見当たりません。

続いて二の郭へと向かおうとすると、茅ヶ崎城や高天神城でもよく見かけた形になっています。

階段を下に降りて、再び登るようになっています。

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