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遺跡・古墳

2020年9月 6日 (日)

県内最大級方墳であった穴八幡古墳と八幡神社のある小川町

小川町という、まず思いつくのは千代田区にあり、新御茶ノ水駅や淡路町駅への乗換駅でもある都営新宿線の小川町駅でしょうか。
それとも、東武東上線の終点の行き先としてよく見かける小川町駅でしょうか。
まあ、実際には東上線の終着駅はもっと先の寄居駅ですが。
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↑東上線の小川町駅のある埼玉県小川町に、古墳時代後期の古墳があり、南東から見ると高台になっています。
なお、この小川町駅はJR東日本の八高線の駅でもあります。
穴八幡古墳といい、昭和34年(1959)に埼玉県の指定史跡になりましたが、当初は円墳と考えられていたものが試掘調査で方墳とわかりました。
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↑ここは巨大な横穴式石室があることが特長です。
全長8.2メートルもあり、南に向いてその入口が開いています。
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前回見た川崎市の馬絹古墳と同じ7世紀後半の古墳ですが、大きく違うのは、この石室入口は見ることができることです。
覗き込むと、奥行きは8メートル以上あるようには見えません。
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内部は前室と後室に分かれているといいます。
石室は、小川町下里地域で採掘される緑泥石片岩など結晶片岩の一枚石を組み合わせて、造られたものです。
大きな一枚石を運ぶのは、当時としては大変だったでしょう。
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墳丘は高さが5.6メートル、一辺28.2メートルあります。
調査では、周囲には二重に周堀が巡っており、埼玉県内でも最大級の方墳であることも明らかになりました。
↑内堀らしきものが見ることができます。

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2020年8月30日 (日)

7世紀後半の神奈川県指定史跡の古墳や富士塚もあり貨物ターミナルも見渡せる馬絹神社の高台

川崎市にある宮前区や宮前台、宮崎平の由来となった馬絹神社境内の続きですが、ここには富士塚もあります。
そして、さらにはすぐ隣に古墳もあります。
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↑馬絹という地名の由来ともいわれる、源頼朝が馬の袖衣を掛けた「御神木千年松の祠」があるところには、富士塚の入口があります。
祠のところから右上に上がっていけるようになっています。
石段の手前には、「参明藤開山 富士浅間大神」と刻まれた石柱があります。
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↑上がっていくと途中には、富士講碑、二十三夜塔、地神塔などがあります。
やがて広い空間に出ると、馬絹神社本殿の屋根も見渡せるのですが、富士塚らしき祠などが見当たりません。
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探していると、折り返したもう少し高いところがありました。
頂上に着くと、石碑があり注連縄などが雨で濡れないように、保護されています。
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この富士塚はあえて山を築いたというよりは、元々あった矢上川沿いの台地を利用しているようです。
そして、先程の広くなったところから東側をみると、そちらにも小山があります。
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↑ 馬絹古墳といい、矢上川の沖積低地を望む標高43メートルほどの台地の南縁辺に立地している7世紀後半に築造された古墳です。
つまり、飛鳥時代の大化の改新以降、天智・天武・持統天皇の頃といういことになります。
こちらの敷地は、馬絹古墳公園となっています。

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2020年8月16日 (日)

久保沢跨線橋という跨道橋と川尻石器時代遺跡という縄文時代の遺跡

インターチェンジなどで複雑な重層構造の形状をした道路がよくありますが、一般道でも興味をそそられるところがたまにあります。
神奈川県道508号厚木城山線の終点近くにもありました。
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↑相模原市緑区久保沢の山王神社前交差点付近です。
西の方に直進すると、国道413号線と合流して城山ダムのある津久井湖方面に行きます。
↑左の道を下っていくと、道路標識表示にあるように小倉橋へ向かいます。
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↑さっきの交差点から右に下っていく道があり、こちらはすぐ先が県道510号長竹川尻線となり、反時計回りにまわりこんで、508号線の下をくぐっていきます。
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↑くぐるところから東向きに、道路と山王神社を見上げれば、今いる右(この写真では左)に下っていく道も小倉橋に行くという道路標識があります。
この道路が北向きからぐるっと南向きに変わるため、最初に左に向かった道と合流して同じ小倉橋に向かうのです。
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↑地図を載せますが、アップにしているのでわかりにくいことに、510と表記されているのは南北に下を通る道で、東西に上を通る508号線の数字表記はありません。
こうした道路形状の美?は楽しむことができましたが、ここでもう一つの謎があります。
久保沢跨線橋とありますが、跨線橋なのでしょうか。
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↑上を通る508号線の橋梁を西に見上げると、ここから徒歩で上がって行けるようになっています。
跨線橋は線路を跨ぐ橋、道路を跨ぐ橋は跨道橋なのではないでしょうか。
ここには鉄道は通っていませんが、上に行ってみると遺跡がありました。

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2020年2月23日 (日)

川越にある山王塚古墳は近代の天皇陵と同じ上円下方墳でしかも最大

川越市大塚の関越自動車道川越インターの近くで、国道16号線から200メートル程しか離れていないところに「山王塚古墳」はあります。

川越市指定史跡となっています。

7世紀後半といいますから古墳終末期に造られた古墳です。

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645年の大化の改新、672年の壬申の乱を経て、日本が律令国家となっていった時期です。

古墳というとイメージしやすい前方後円墳は築造されなくなっており、この山王塚古墳は上円下方墳です。

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↑現在は古墳上部には山王祠があり、参道入口には山王社の鳥居があります。

上円部というように、上に円形の小山があるのはわかります。

下方部のほうの下の正方形は崩れていて分かりづらいですが、よく見るとなんとなく見えてきます。

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7年前に見た武蔵府中熊野神社古墳も上円下方墳でしたが、あちらは葺石も含めて復元されていましたから、形がわかりやすいものでした。

この山王塚古墳はもともと葺石は無かったそうです。

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↑4.5メートルの高さのあるところには山王社の祠があります。

上の方から下の鳥居方向を見てみると、それほどの高いわけではありませんが、大きさはすごいんです。

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2019年4月21日 (日)

現代の古墳となっている昭和天皇陵と大正天皇陵のある武蔵陵墓地と新しい陵のあり方

平成31年4月23日に天皇皇后両陛下は、昭和天皇陵に参拝して4月30日に譲位することを報告するといいます。

その直前に昭和天皇陵のある武蔵陵墓地に行ってきました。

国道20号線の高尾駅少し手前の北側へ自転車ではなく車で行きました。

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↑ここには4つの御陵があります。

西の奥から多摩陵、多摩東陵、武蔵野陵、武蔵野東陵となります。

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↑西に向けて、北山杉の間の参道を進みますが、カーブとなっていて先が見えないことが不思議なところへ行くという感覚にさせてくれます。

昭和天皇陵へは途中の新参道を北に向かった正面です。

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鳥居の向こうに武蔵野陵、昭和天皇陵があります。

「むさしののみささぎ」と読みます。

古くないから「古墳」とは言わないのでしょうが、上円下方墳となっています。

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昭和天皇武蔵野陵と記されています。

広そうですが、帰って調べてみたら、2500平方メートルの面積があるそうです。

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↑その右には香淳皇后武蔵野東陵があります。

こちらも上円下方墳となっていますが、少し小ぶりのようです。

面積は1800平方メートルということです。

警備のための詰所らしき建物も趣きがあります。

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2019年1月 6日 (日)

国指定史跡の武蔵国府跡で見るVRとオリンピックロードレースの最初の10キロの意味

武蔵国の国府があったため、府中という地名となったということですが、その武蔵国府跡が国指定史跡になっているようなので見てきました。

大國魂神社のすぐ東側にあります。

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この区画のみが国府跡なわけではなく、南北約300メートル、東西約200メートルという現在の大國魂神社全域やその東側という広い範囲に国衙があったということで、「武蔵国衙跡地区」とされています。

展示施設があり、横には朱色の柱が複数本立っているのが特徴的です。

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この展示施設の側面はミラーガラスの映り込みを利用し、当時の建物の規模を表現しているそうです。

国府の中でも中枢施設として市内で最大規模の建物で、この朱色の柱は、発掘で見つかった当時の国衙の中枢にあった建物の柱の位置を示しています。

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大化の改新後、奈良時代初期から平安時代中期にかけて、各国を治める国司が政務を行う施設(国庁)が全国60数ヵ所に置かれていました。

その国庁が置かれた都市は国府と呼ばれ、政治、経済、文化の中心として栄えていました。

ややこしいですが、「国衙」は国府の中でも政務の中心となった施設である国庁を含む役所群(エリア)のことです。

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この施設内よりも、大國魂神社境内?かというところにある府中市「ふるさと府中歴史館」にある大型画面のCGによる「国府百景バーチャルツーリング」などで、詳しく知ることができます。

その建物は外壁工事中で分かりづらいですが、営業しており、2階には宮前図書館もあります。

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↑国史跡の指定範囲は、大國魂神社境内やその西側にも広げられ、2018年11月25日には「国史跡武蔵国府跡(国司館地区)史跡広場」が、「国司館と家康御殿史跡広場」としてオープンしました。

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2018年12月 2日 (日)

立川ではなくて所沢にある国指定重要文化財の砂川遺跡と砂川の源泉

砂川遺跡という名前を聞くと、砂川事件を連想するので、立川の周辺にあるのかと思ってしまいます。

在日米軍立川基地拡張に関する事件の裁判ですが、東京都北多摩郡砂川町、現在の立川市の話だったはずです。

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しかし、この砂川遺跡は埼玉県所沢市三ヶ島にあります。

所沢市で最初に発見された旧石器時代の遺跡だそうです。

畑の間のあまり広くない道路沿いで、案内板が無ければ気付かずに通り過ぎてしまうようなところです。

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ナイフ形石器を含む769点もの石片が出土し、1万3000年前のものといいます。

いつもながら、こうした遺跡の年代を聞くと、気の遠くなるくらいの時間の長さを感じます。

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ここは「砂川遺跡都市緑地」として整備されています。

調査では、石器類の出土地点の全記録と出土した石器類の接合という作業が初めて試みられ、ナイフ形石器等の製作工程が明らかとなりました。

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石器類が集中しA地点↑とF地点↓から出土したということで、そこはブロックで囲い表示してあります。

出土した石器類は、「埼玉県砂川遺跡出土品」として国の重要文化財に指定され、明治大学博物館等に所蔵されているそうです。

ここには展示施設はありません。

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また調査により、当時の人々が常に石を携行して移動し、そこで石器を作ったり、他の場所で作ったものが持ち込まれたり、他の場所へ持ち去ったりするなど、人々の生活や動きが実証されました。

日本の旧石器時代研究に大きな成果をあげたそうです。

ここはのどかな田園風景で、昔を感じさせてくれるいいところです。

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でも、遠くに見える小手指駅前のタワーマンションが現在とのミスマッチ感を出しています。

ところで、立川ではないのに砂川という名が付いているのは、砂川という川が流れているからです。

久しぶりに、砂川で川の源泉探しをしてみました。

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2018年11月 4日 (日)

多摩ニュータウン遺跡群に盛り土した縄文の村にある3種類の住居跡を見て改めて縄文時代の長さを思う

多摩ニュータウンは総面積3000ヘクタールという広大な場所ですから、開発により1000カ所もの遺跡があったそうです。

その中の多摩センター駅近くの縄文時代の集落跡は、東京都埋蔵文化財センターとなっています。

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↑そのうち南側の半分は現状のまま盛り土をして保存されています。

縄文時代前期の住居跡2軒、中期の住居跡5軒のほか、落とし穴なども発掘されたそうです。

盛り土の上は遺跡庭園「縄文の村」となっています。

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↑縄文時代前期の竪穴住居です。

発掘調査当時の位置に復元されたといい、床は長軸7m、短軸4.5mの長方形で、面積約30平方メートルとかなり広く、5~6人くらいは十分に住めたようです。

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6500年前のものですが、中の様子です。

焦げ臭いようなにおいがしますが、火焚きを各住居で順番にしているからのようです。

住居の棟の上には、屋根が浮き上がらないように土で押さえ、さらに草が植えられているそうです。

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↑縄文時代中期後半の住居跡で、こちらは4500~5000年前(両方の表示がありました)のものです。

敷地内に現在ある高圧鉄塔の東側に発見された住居をモデルに復元した住居です。

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壁沿いの5本の柱で屋根が支えられていて、床は長径5.3m、短径4.8mの楕円形で、面積約15平方メートルと縄文時代中期の標準的な大きさだそうです。

周囲は「縄文の森」となっています。

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2018年10月28日 (日)

天皇陵ではないけど百舌鳥古墳群の中で最も美しいニサンザイ古墳と日本最古の木造洋式の境燈台

日本で7番目の大きさの前方後円墳であるニサンザイ古墳は、堺市を訪問するまで知りませんでした。

○○天皇陵という呼び名がついておらず、ニサンザイという言葉も聞き慣れないものです。

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↑ファミレスや自動車ディーラーの多い大阪府道28号線の百舌鳥八幡南交差点から少し南東に入ると別世界の光景です。

濠に古墳が映り、きれいです。

↑この古墳は方墳部が南を向いていますから、北西端から見ると左奥が円墳部です。

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↑方墳部の南西端に来たので右奥が円墳部です。

古墳西側には堤に通路があり、南側には道路があるので美しい古墳がよく見えます。

南東端は住宅があり通れなくなっていますが、北東端で再び古墳の濠沿いに行くことができます。

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↑ここには閉鎖されていますが、円墳部に繋がったところがあり、水鳥たちがのんびりしています。

墳丘は宮内庁が反正天皇の空墓という位置付けで「東百舌鳥陵墓参考地」として管理しているため、ここには拝所はありません。

反正天皇陵古墳のほぼ4倍の大きさで、建造時期も5世紀後半とほぼ同じなので、こちらを反正天皇陵と考えている説もあるそうです。

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↑先程通れなかった南東端に向けて濠沿いに通路があります。

たまたま犬の散歩をしていた男性が親切に教えてくれましたが、この通路を一周回れるように全通させようかという話は地元自治会でも話題になったようです。

しかし、そうなると住宅の表も裏も通路になってしまう方もいることから難しいとのことでした。

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↑北東から見た、左が円墳部、右が方墳部になりますが、間に造り出しがあるのがはっきりわかります。

墳丘の規模は全長約300m、後円部径約170m、高さ約24.6m、前方部幅約224m、高さ約25.9mです。

百舌鳥古墳群の中で最も精美といわれ、かつ最も新しいものです。

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↑堺市役所展望ロビーからですが、右から順に履中天皇陵、大仙公園、仁徳天皇陵大仙陵古墳が見えますが、その奥に小さく見えているのがニサンザイ古墳です。

気になっていたニサンザイとは陵(みささぎ)が語源と考えられています。

かなり離れているので小さく見えますが、全国でも7番目の規模です。

そしてそれを見ているここも、大きな立派な建物です。

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2018年10月21日 (日)

築造の順序が不可思議な履中天皇陵と方違神社から見る反正天皇陵は前方後円墳の形が感じられる

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は大き過ぎて、しかも三重の濠があるため、カギ穴型の前方後円墳の特徴的な形が実物を見ても実感できませんでした。

大仙陵古墳の南側の大仙公園のさらに南にある履中天皇陵古墳はどうでしょう。

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↑堺市役所の21階展望ロビーから見ると、中央の塔のようなものより左が仁徳天皇陵、右が大仙公園と履中天皇陵です。

現地に行ってみると、北側から後円墳部分が見られる場所があり、しかも見やすいようにちょっとだけ高い位置から見ることが出来るようになっています。

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↑南西側の濠を見ていますが、円墳らしさがわかります。

墳丘の全長約365m、後円部径205 m、高さ約27.6m、前方部幅約235m、高さ約25.3mの規模の日本で3番目に大きい前方後円墳です。

↓南東側を見ても同様に円墳らしいです。

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時計の反対回りで一周してみます。

西側の面には濠に沿って道路がありますが、濠の周りが少し盛土されているため常に古墳が見えているわけではありません。

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↑この辺りがくびれ部と思われますが、この西側のくびれ部には造出しがあるようです。

仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られたといいますから不思議です。

履中天皇は仁徳天皇の第一皇子ですから、親子で古墳築造年次が逆転してしまっています。

こういったことから、学校の時に仁徳天皇陵古墳と習ったものが今では大仙陵古墳と表記されるようになっているようです。

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↑南西端では濠の内側に前方部の四角形の角を感じることができます。

一重の盾形周濠と堤がめぐっていますが、元々は外側に10メートルほどの二重目の周濠もあったそうです。

ここから古墳南側には沿った道路がありませんから、少し離れて住宅街を通ることになります。

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↑やがてかなり道幅の広い大阪府道34号線に出て少し進むと拝所があります。

アプローチの道は仁徳天皇陵よりもかなり狭いですが、道路に大きな看板があるので見落とすことはありません。

宮内庁としての正式名称は百舌鳥耳原南陵(もずみみはらのみなみのみささぎ)です。

この先も古墳の南側に沿った道はありませんが、住宅街を北に向かう道路から、南東端を見ることはできます。

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