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遺跡・古墳

2019年4月21日 (日)

現代の古墳となっている昭和天皇陵と大正天皇陵のある武蔵陵墓地と新しい陵のあり方

平成31年4月23日に天皇皇后両陛下は、昭和天皇陵に参拝して4月30日に譲位することを報告するといいます。

その直前に昭和天皇陵のある武蔵陵墓地に行ってきました。

国道20号線の高尾駅少し手前の北側へ自転車ではなく車で行きました。

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↑ここには4つの御陵があります。

西の奥から多摩陵、多摩東陵、武蔵野陵、武蔵野東陵となります。

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↑西に向けて、北山杉の間の参道を進みますが、カーブとなっていて先が見えないことが不思議なところへ行くという感覚にさせてくれます。

昭和天皇陵へは途中の新参道を北に向かった正面です。

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鳥居の向こうに武蔵野陵、昭和天皇陵があります。

「むさしののみささぎ」と読みます。

古くないから「古墳」とは言わないのでしょうが、上円下方墳となっています。

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昭和天皇武蔵野陵と記されています。

広そうですが、帰って調べてみたら、2500平方メートルの面積があるそうです。

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↑その右には香淳皇后武蔵野東陵があります。

こちらも上円下方墳となっていますが、少し小ぶりのようです。

面積は1800平方メートルということです。

警備のための詰所らしき建物も趣きがあります。

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2019年1月 6日 (日)

国指定史跡の武蔵国府跡で見るVRとオリンピックロードレースの最初の10キロの意味

武蔵国の国府があったため、府中という地名となったということですが、その武蔵国府跡が国指定史跡になっているようなので見てきました。

大國魂神社のすぐ東側にあります。

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この区画のみが国府跡なわけではなく、南北約300メートル、東西約200メートルという現在の大國魂神社全域やその東側という広い範囲に国衙があったということで、「武蔵国衙跡地区」とされています。

展示施設があり、横には朱色の柱が複数本立っているのが特徴的です。

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この展示施設の側面はミラーガラスの映り込みを利用し、当時の建物の規模を表現しているそうです。

国府の中でも中枢施設として市内で最大規模の建物で、この朱色の柱は、発掘で見つかった当時の国衙の中枢にあった建物の柱の位置を示しています。

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大化の改新後、奈良時代初期から平安時代中期にかけて、各国を治める国司が政務を行う施設(国庁)が全国60数ヵ所に置かれていました。

その国庁が置かれた都市は国府と呼ばれ、政治、経済、文化の中心として栄えていました。

ややこしいですが、「国衙」は国府の中でも政務の中心となった施設である国庁を含む役所群(エリア)のことです。

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この施設内よりも、大國魂神社境内?かというところにある府中市「ふるさと府中歴史館」にある大型画面のCGによる「国府百景バーチャルツーリング」などで、詳しく知ることができます。

その建物は外壁工事中で分かりづらいですが、営業しており、2階には宮前図書館もあります。

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↑国史跡の指定範囲は、大國魂神社境内やその西側にも広げられ、2018年11月25日には「国史跡武蔵国府跡(国司館地区)史跡広場」が、「国司館と家康御殿史跡広場」としてオープンしました。

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2018年12月 2日 (日)

立川ではなくて所沢にある国指定重要文化財の砂川遺跡と砂川の源泉

砂川遺跡という名前を聞くと、砂川事件を連想するので、立川の周辺にあるのかと思ってしまいます。

在日米軍立川基地拡張に関する事件の裁判ですが、東京都北多摩郡砂川町、現在の立川市の話だったはずです。

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しかし、この砂川遺跡は埼玉県所沢市三ヶ島にあります。

所沢市で最初に発見された旧石器時代の遺跡だそうです。

畑の間のあまり広くない道路沿いで、案内板が無ければ気付かずに通り過ぎてしまうようなところです。

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ナイフ形石器を含む769点もの石片が出土し、1万3000年前のものといいます。

いつもながら、こうした遺跡の年代を聞くと、気の遠くなるくらいの時間の長さを感じます。

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ここは「砂川遺跡都市緑地」として整備されています。

調査では、石器類の出土地点の全記録と出土した石器類の接合という作業が初めて試みられ、ナイフ形石器等の製作工程が明らかとなりました。

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石器類が集中しA地点↑とF地点↓から出土したということで、そこはブロックで囲い表示してあります。

出土した石器類は、「埼玉県砂川遺跡出土品」として国の重要文化財に指定され、明治大学博物館等に所蔵されているそうです。

ここには展示施設はありません。

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また調査により、当時の人々が常に石を携行して移動し、そこで石器を作ったり、他の場所で作ったものが持ち込まれたり、他の場所へ持ち去ったりするなど、人々の生活や動きが実証されました。

日本の旧石器時代研究に大きな成果をあげたそうです。

ここはのどかな田園風景で、昔を感じさせてくれるいいところです。

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でも、遠くに見える小手指駅前のタワーマンションが現在とのミスマッチ感を出しています。

ところで、立川ではないのに砂川という名が付いているのは、砂川という川が流れているからです。

久しぶりに、砂川で川の源泉探しをしてみました。

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2018年11月 4日 (日)

多摩ニュータウン遺跡群に盛り土した縄文の村にある3種類の住居跡を見て改めて縄文時代の長さを思う

多摩ニュータウンは総面積3000ヘクタールという広大な場所ですから、開発により1000カ所もの遺跡があったそうです。

その中の多摩センター駅近くの縄文時代の集落跡は、東京都埋蔵文化財センターとなっています。

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↑そのうち南側の半分は現状のまま盛り土をして保存されています。

縄文時代前期の住居跡2軒、中期の住居跡5軒のほか、落とし穴なども発掘されたそうです。

盛り土の上は遺跡庭園「縄文の村」となっています。

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↑縄文時代前期の竪穴住居です。

発掘調査当時の位置に復元されたといい、床は長軸7m、短軸4.5mの長方形で、面積約30平方メートルとかなり広く、5~6人くらいは十分に住めたようです。

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6500年前のものですが、中の様子です。

焦げ臭いようなにおいがしますが、火焚きを各住居で順番にしているからのようです。

住居の棟の上には、屋根が浮き上がらないように土で押さえ、さらに草が植えられているそうです。

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↑縄文時代中期後半の住居跡で、こちらは4500~5000年前(両方の表示がありました)のものです。

敷地内に現在ある高圧鉄塔の東側に発見された住居をモデルに復元した住居です。

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壁沿いの5本の柱で屋根が支えられていて、床は長径5.3m、短径4.8mの楕円形で、面積約15平方メートルと縄文時代中期の標準的な大きさだそうです。

周囲は「縄文の森」となっています。

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2018年10月28日 (日)

天皇陵ではないけど百舌鳥古墳群の中で最も美しいニサンザイ古墳と日本最古の木造洋式の境燈台

日本で7番目の大きさの前方後円墳であるニサンザイ古墳は、堺市を訪問するまで知りませんでした。

○○天皇陵という呼び名がついておらず、ニサンザイという言葉も聞き慣れないものです。

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↑ファミレスや自動車ディーラーの多い大阪府道28号線の百舌鳥八幡南交差点から少し南東に入ると別世界の光景です。

濠に古墳が映り、きれいです。

↑この古墳は方墳部が南を向いていますから、北西端から見ると左奥が円墳部です。

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↑方墳部の南西端に来たので右奥が円墳部です。

古墳西側には堤に通路があり、南側には道路があるので美しい古墳がよく見えます。

南東端は住宅があり通れなくなっていますが、北東端で再び古墳の濠沿いに行くことができます。

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↑ここには閉鎖されていますが、円墳部に繋がったところがあり、水鳥たちがのんびりしています。

墳丘は宮内庁が反正天皇の空墓という位置付けで「東百舌鳥陵墓参考地」として管理しているため、ここには拝所はありません。

反正天皇陵古墳のほぼ4倍の大きさで、建造時期も5世紀後半とほぼ同じなので、こちらを反正天皇陵と考えている説もあるそうです。

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↑先程通れなかった南東端に向けて濠沿いに通路があります。

たまたま犬の散歩をしていた男性が親切に教えてくれましたが、この通路を一周回れるように全通させようかという話は地元自治会でも話題になったようです。

しかし、そうなると住宅の表も裏も通路になってしまう方もいることから難しいとのことでした。

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↑北東から見た、左が円墳部、右が方墳部になりますが、間に造り出しがあるのがはっきりわかります。

墳丘の規模は全長約300m、後円部径約170m、高さ約24.6m、前方部幅約224m、高さ約25.9mです。

百舌鳥古墳群の中で最も精美といわれ、かつ最も新しいものです。

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↑堺市役所展望ロビーからですが、右から順に履中天皇陵、大仙公園、仁徳天皇陵大仙陵古墳が見えますが、その奥に小さく見えているのがニサンザイ古墳です。

気になっていたニサンザイとは陵(みささぎ)が語源と考えられています。

かなり離れているので小さく見えますが、全国でも7番目の規模です。

そしてそれを見ているここも、大きな立派な建物です。

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2018年10月21日 (日)

築造の順序が不可思議な履中天皇陵と方違神社から見る反正天皇陵は前方後円墳の形が感じられる

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は大き過ぎて、しかも三重の濠があるため、カギ穴型の前方後円墳の特徴的な形が実物を見ても実感できませんでした。

大仙陵古墳の南側の大仙公園のさらに南にある履中天皇陵古墳はどうでしょう。

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↑堺市役所の21階展望ロビーから見ると、中央の塔のようなものより左が仁徳天皇陵、右が大仙公園と履中天皇陵です。

現地に行ってみると、北側から後円墳部分が見られる場所があり、しかも見やすいようにちょっとだけ高い位置から見ることが出来るようになっています。

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↑南西側の濠を見ていますが、円墳らしさがわかります。

墳丘の全長約365m、後円部径205 m、高さ約27.6m、前方部幅約235m、高さ約25.3mの規模の日本で3番目に大きい前方後円墳です。

↓南東側を見ても同様に円墳らしいです。

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時計の反対回りで一周してみます。

西側の面には濠に沿って道路がありますが、濠の周りが少し盛土されているため常に古墳が見えているわけではありません。

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↑この辺りがくびれ部と思われますが、この西側のくびれ部には造出しがあるようです。

仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られたといいますから不思議です。

履中天皇は仁徳天皇の第一皇子ですから、親子で古墳築造年次が逆転してしまっています。

こういったことから、学校の時に仁徳天皇陵古墳と習ったものが今では大仙陵古墳と表記されるようになっているようです。

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↑南西端では濠の内側に前方部の四角形の角を感じることができます。

一重の盾形周濠と堤がめぐっていますが、元々は外側に10メートルほどの二重目の周濠もあったそうです。

ここから古墳南側には沿った道路がありませんから、少し離れて住宅街を通ることになります。

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↑やがてかなり道幅の広い大阪府道34号線に出て少し進むと拝所があります。

アプローチの道は仁徳天皇陵よりもかなり狭いですが、道路に大きな看板があるので見落とすことはありません。

宮内庁としての正式名称は百舌鳥耳原南陵(もずみみはらのみなみのみささぎ)です。

この先も古墳の南側に沿った道はありませんが、住宅街を北に向かう道路から、南東端を見ることはできます。

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2018年10月14日 (日)

仁徳天皇陵といわれる大仙陵古墳は近くで見ても地上80メートルの21階から見ても大き過ぎる

歴史の教科書に載っていた日本最大の仁徳天皇陵古墳のカギ穴型の写真は、今でも覚えていて頭に浮かびます。

近年、大仙陵古墳と教科書には表記されるようになったといいます。

本物をぜひ一度見てみたいと思っており、大阪府堺市に行って来ました。

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堺市役所の21階に展望ロビーがあり、地上80メートルという高いところからから見ることが出来るということなので、まずはカギ穴の形を見ようと行きました。

↑右が前方部で中央付近が後円部となりますが、残念なことに木が鬱蒼とした小山にしか見えません。

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↑では間近で見てみようと、レンタサイクルで行くことにしました。

さかいコミュニティサイクルといい、堺市内に8カ所のサイクルポートがあってどこへも返却することができ、300円で1日利用もできるシステムです。

ただし、市役所前のサイクルポートは無人なので、1日利用者は手続きのため、300メートル程離れた有人のサイクルポートに行く必要がありました。

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10月とは思えないような暑い日でしたから、快適なサイクリングとも言えませんでしたが、仁徳天皇陵の後円部のある北端に到着です。

↑国道319号線が中央環状線から高野街道に分岐する交差点の歩道橋があるので、その歩道橋の上から古墳の東側に沿って見ています。

↓こちらは西側に沿って見たものです。

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仁徳天皇陵古墳には濠があり、かつ大き過ぎて形がよく分かりません。

しかも、台風の影響により木が北に向けて倒れているため、余計見づらくなっています。

エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓の一つといわれ、5世紀中頃に約20年をかけて築造されたといいます。

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↑周回できる自転車歩行者道があるので時計と反対周りスタートしてしばらく進むと、正面まで左に1600メートル、右に1250メートルと表示されています。

一周3キロ近くあるのですから、やはり大きいのだと改めて感じます。

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↑南西端に着くと、前方部の四角形の角を見ることができ、初めて古墳の形を実感出来ました。

南側に通っている御陵通りの向こう側には大仙公園があり、園内の堺市博物館では無料シアターで百舌鳥古墳群の解説映像を見ることができます。

12分ほどの2種類の映像が30分ごとに上映されていますので、両方とも見て勉強しました。

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2018年9月 9日 (日)

4世紀後半に造られたことがわかった東松山市の野本将軍塚古墳

埼玉県東松山市に将軍塚古墳があります。

国道254号線と407号線の交差点に近く、その間の県道にも案内板があり、かつその道路からすぐのところです。

右の碑には「埼玉県指定史跡将軍塚古墳」と書かれており、その説明板があります。

左の2本の柱には「利仁山」「無量寿寺」と書かれています。

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↑この小山が将軍塚古墳という前方後円墳で、地名から野本将軍塚古墳とも言われています。

左に向かっては奥にある無量寿寺への参道ともなっています。

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↑古墳は右側(北側)が前方部で、高さは8メートルあり、階段で登ることができます。

陸軍大臣金谷範三氏の書による忠魂碑が立っています。

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↑平らな少し広い空間があります。

南側の後円部分の方を見てみると、くびれ部分に向かい下り坂があり、その先の後円墳への階段も見られます。

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ここを通らず一旦前方部分から階段を下り、参道から改めて後円部分を見ると鳥居が立っています。

この上には利仁神社があり、墳丘の高さは13メートルあります。

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将軍塚古墳は想像していた以上に大規模で、前方後円墳全体の長さは115メートルもあります。

5年前に見に行った、埼玉県の地名の由来にもなった行田市にある埼玉古墳群にあった138メートルの二子山古墳、120メートルの稲荷山古墳に次ぐ3番目の規模です。

しかも120メートルを超える可能性もあるということです。

ところで、利仁という名前と将軍という名称の関係も気になります。

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2018年7月 1日 (日)

負けたから白旗を揚げたのではない白旗塚のある小手指ヶ原古戦場跡と誓詞橋

小手指といえば、西武池袋線の行先としてよく見聞きする名前で、昭和45年(1970年)に小手指駅と車庫ができました。

小手指行きの電車が走り始めた時は、まだ子どもだったので「こてさし」とは読めずに何て読むのだろうと思っていました。

小手指というと、もう一つ歴史上有名なのが小手指ヶ原古戦場です。

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小手指駅からはだいぶ離れていて、国道463号線所沢入間バイパスの少し南側にあります。

小手指ヶ原は元弘3年(1333年)に鎌倉に攻め込むため目指す新田義貞軍とそれを迎え討つ鎌倉幕府軍が最初に衝突した古戦場と伝えられています。

↑ここには小手指ヶ原古戦場碑が建てられています。

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鎌倉街道が通っていたため、この辺りではこの一回だけでなくしばしば合戦が行われており、小手指ヶ原というはここだけでなく周辺一帯のことのようです。

↑碑の西に向けては、林の中のいい感じの小道があり、その60m程先には白旗塚があります。

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白旗というと、負けた時に掲げる旗というイメージがありますから、ここで敗戦した軍の話かと思ってしまいます。

しかし、白旗塚は新田義貞がこの塚上に源氏の旗印である白旗を掲げたということから名付けられています。

でも、新田義貞は鎌倉幕府を倒したのに源氏なのかという疑問が次に湧きました。

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調べてみると、新田義貞の正式名は源義貞と言うのだそうです。

確かに、当時の鎌倉幕府は源氏というより、執権である北条氏の幕府というものですから、幕府を攻める方が源氏でも構わないということでしょうか。

でも、やはり混乱します。

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↑塚の頂上には白旗塚碑とともに、石祠の浅間神社がありました。

塚が富士山みたいですから江戸時代以降の富士講の富士塚として、頂上に浅間神社が設けられているのでしょうか。

さらに、この周囲の様子を見てみます。

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2018年4月 8日 (日)

多摩市にある稲荷塚古墳は全国的にも珍しい八角墳でおしゃれな名の神社が上にある

桜は散ってしまいましたが、木々が芽吹いてきれいな若葉色が見られる季節となりました。

ただ今回はそれより少し前に、多摩市東寺方、和田周辺に珍しい古墳を見に行った時の話になります。

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↑7世紀の前半頃に造られたとみられる稲荷塚古墳があり、この古墳の形は全国的にも珍しい八角形の八角墳です。

古墳の全長は38mあり、一番外側に幅2mほどの周溝とよばれる空堀がめぐっていました。

その内側に長さ34mの墳丘が二段に築かれていたといいます。

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↑(クリックすると拡大します。)

墳丘一段目は周溝の内側に6mでめぐる低い段で、地上から見て現在は2mの高さで残っている部分は、長さ22mの二段目にあたると説明板に書かれていました。

つまり、一段目は土に埋もれて見えていないということでしょうか。

裏側から見てみます。

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明治時代までは4mほどの高さがあったものの、上の方を削って神社が建てられたことから、半分ほどの高さとなっているそうです。

芝丸山古墳もそうでしたが、当時は考古学など考えられていないので、古墳は単なる小山としか思われていなかったのでしょう。

東京都指定史跡となっています。

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墳丘二段目には横穴式石室がありました。

全長約7.7mで、一番手前が通路である羨道、真ん中が前室、一番奥が玄室という部屋になっていました。

↑稲荷塚古墳の石室は、以前は木造の覆屋で露出公開されていたものの、傷みが激しくなり埋め戻して保護することになり、位置はブロック舗装で示してあります。

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↑古墳の周辺は公園になっていますが、ここは江戸時代の18世紀には黄檗宗の資福院という寺があったそうです。

古墳上の神社は恋路稲荷神社という、おしゃれな名前となっています。

この周辺には他にも古墳があるようです。

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