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51埼玉県

2024年5月19日 (日)

村社越生神社だが越生ではなく鹿下の方の越生神社と学頭沼

埼玉県越生町の鹿下にある越生神社に行きました。

石柱には村社越生神社とありますし、Googleマップの表示も越生神社です。

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しかし、一般的には越生神社というと、越生町の越生にある方が中心市街地近くですし有名です。

鹿下(カノシタ)は町の北方で、ときがわ町との境界に近いところです。

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↑北に向けての石段を登ると少し広い空間があり社殿があります。

元は根本神社と言われていたそうで、天平年間(729〜48)に行基が東国遊行の時に越生法恩寺を創立して、学寮を当地に選び神事を行なったということです。

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その後も応永年間(1394〜1427)や延徳2年(1490)に再興や再営されたと伝えられています。

寛文8年(1668)に社地が寄付され再修され、明治5年(1872)村社となりました。

明治40年(1907)に日枝神社を合祀して根本神社は越生神社となりました。

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二つの越生神社問題を知るため調べてみると、越生町は明治22年(1889)に9ヶ村が合併しています。

そこには越生村も鹿下村も入っていますから、ここ越生神社の元の根本神社は鹿下村の村社だったということのようです。

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↑ 神社西側の坂道を下ると「学頭沼」があります。

名前に興味を惹かれますが、江戸時代初めの頃の話のようです。

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2024年5月 5日 (日)

妙見菩薩や平将門についてwikiにも資料引用されている円泉寺は久邇宮とも関係があり久邇カントリーの隣り

圏央道狭山日高インターの西、飯能市平松に円泉寺があります。

弘法大師が開いたと寺の縁起にありますが、延享5年(1748)の石塔に書かれていることより以前のことについては、詳細についてはよくわからないようです。

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↑参道左には六地蔵、右には十三重塔があります。

また、円泉寺は武蔵野七福神の福禄寿の札所となっています。

武蔵野七福神は飯能市、所沢市、入間市の六寺院、一神社にあるということです。

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↑本堂は天保15年(1844)に再建されたものです。

円泉寺で最も古い石仏・六地蔵石幢には延宝9年(1681)と彫られています。

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↑本堂の西には石段があり小さな山となっており、妙見堂があります。

平安時代に平将門が妙見菩薩に危機を救われ像を受け、その二代目妙見像があるということです。

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弘化五年(1847)妙見菩薩像を、京都神祇官統領伯王殿公文所より円泉寺境内に祀ることが許可されたものです。

その際、土を村民総出で高く盛り上げて、お堂を建立し祀りました。

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↑妙見堂に向けては、先ほどの東側の石段だけでなく、南側の正面からも石段があります。

妙見菩薩は北極星、北斗七星の神格化された姿であり、その信仰は奈良・平安時代かなり盛んだったといいます。

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2024年3月31日 (日)

越辺川の大川堤、鶴見線の大川駅や大川町の由来と横沼白髭神社

越辺川右岸の坂戸市側の土手のところに「大川堤遺跡」という石碑が立っています。

遺跡という名に惹かれて調べてみましたが、私が勝手に勘違いした古い時代の「遺跡」ではないようです。

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前回見た郷土の偉人大川平三郎の功績の一つです。

生誕の地である坂戸市横沼の辺りは、大雨が降ると越辺川の氾濫により水害が発生する状況でした。

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大川平三郎は私財を投じて南へ1150メートルの堤防を築き、大川堤と呼ばれるようになりました。

ここに架かる橋は道場橋といい、剣術家であった祖父平兵衛英勝の道場であり、平三郎の生家である大川道場から名付けられているようです。

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碑のある右岸下流側を見てきましたが、右岸上流側も同じような景色です。

奥に見えている高架は圏央道です。

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大川について調べていて驚いたのですが、JR鶴見線の大川駅や地名の大川町も大川平三郎に因んだ名前だったのです。

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2024年3月24日 (日)

坂戸の偉人である大川平三郎とロシアから移設されてきた頌徳碑

圏央道坂戸インターから降りると、「大川平三郎翁生誕の地」という大きな看板が目に付きます。

日本の製紙王・郷土の偉人とも書かれた坂戸市によるものです。

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前から気にはなっていたので、失礼ながら大川平三郎という人のことをよく知りません。周辺を見てまわりました。

郷土の偉人を訪ねてという地図が、坂戸市教育委員会による案内板があります。

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ここには、大川平三郎翁記念公園があります。

公園は7番となっており、大川道場のあったところで、平三郎の生家でもあったところです。

剣術家大川平兵衛英勝の孫として川越藩三芳野村(現在の坂戸市横沼)で生誕しました。

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叔父である渋沢栄一を頼って上京し、明治5年(1872)抄紙会社(現在の王子製紙)に入社しました。

毎日早朝から出社して製紙技術を学び、日本人初の製紙技師になり多くの会社経営に携わり、日本の製紙王と呼ばれるほどになったということです。

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↑公園内に頌徳碑があり、昭和9年(1934)に恵須取町民によって恵須取神社に建立されていたものが移設されたものです。

恵須取はエストルという岬が長く伸びているところを意味するアイヌ語だといいますが、北海道ではありません。

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2024年2月11日 (日)

松風公園という高坂ニュータウンにある谷戸公園

前回見た東松山市はにわの丘は、関越自動車道を渡るひきのみちの東側にありましたが、それを西に向かうと「松風公園」があります。

「むさし緑園都市高坂ニュータウン」として住宅都市整備公団により開発されたこのエリアは歩車分離されています。

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岩殿丘陵の東端にあたり、この辺りから高くなっていきます。

昭和50年(1975)に関越道の川越東松山間が開通した後の、昭和59年(1984)に入居開始となる街開きでした。

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国土地理院の過去の航空写真を見てみると、松風公園のところは谷戸のようで、池があったようです。

↑公園入り口からすぐのところに大きめの池があり、地獄坊池といいます。

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↑西の上流側から水が流れてきます。

地獄坊池とはおどろおどろしい名前ですが、灌漑用ため池であり、古い開発前の航空写真でも直線の堰堤が見られました。

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↑さらに西へ上流側に行くと、菖蒲田があります。

ここにあった谷戸は呉器谷と呼ばれていたそうです。

ニュータウンらしく公園はいくつか整備されていますが、そのうちの二つの大きな公園の一つです。

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↑公園として整備されているので、橋が架けられていたり、東屋があったりもします。

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2024年2月 4日 (日)

はにわの丘はちょっと微妙なところだけど桜山窯跡群はすごいところ

いつものように地図を眺めていたら、はにわの丘というところが東松山市にありました。

関越自動車道の東松山サービスエリアの少し北東になります。

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↑「ひきのみち」と名付けられた歩行者自転車用道路の弁天山橋から、南の練馬方面を見たものです。

ひきのみちを東に進むと、「はにわの丘」があります。

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古墳時代後期である1450年前の須恵器や埴輪の窯の跡が見つかっています。

平成14年(2002)の東松山市教育委員会による説明板ですから、552年頃ということになります。

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日本に仏教が伝来したのが538年とか552年とか言われますから、その頃のものかと思うとやっぱり悠久の昔です。

昭和55年(1980)に行われた発掘調査で、ここに須恵器の窯跡2基があったということです。

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土器の中で、須恵器というものがよくわかっていませんでしたが、青灰色の1200度ほどの高い温度で焼かれた焼き物だということです。

それまでの縄文土器や弥生土器、土師器のように野焼きで作れるものではないところが大きな違いです。

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↑斜面に沿って舟底型に長さ7メートル、深さ1メートルほどに穴を掘り、その上に天井を付ける登り窯です。

低い方に焚き口、高い方に煙道があり、高温にできるため硬く引き締まった土器ができるようになりました。

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2024年1月28日 (日)

治水橋の由来となった斎藤祐美の出身地である飯田新田のびん沼と対岸の萱沼の読み

橋の名前には地名が付けられたものが多いですが、荒川の治水橋はそうではなく、前から疑問に思っていました。

今回はその由来を調べてみました。

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前々回に取り上げた飯田新田の出身である斎藤祐美という人が関係していました。

名前からはじめ女性かと思いましたが明治時代の男性でユウビと読みます。

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厳密には江戸時代末期の慶応2年(1866)に、飯田新田で代々続く外科医の次男として生まれました。

明治23年(1870)荒川の氾濫で自宅付近が水没するのを見て、埼玉県議員となって水害から故郷を守ろうとしました。

↑当時の荒川の流れである、びん沼川を挟んで飯田新田の反対岸から見たところです。

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ちょうど前々回見た、荒川で分断された馬宮地区の、さいたま市消防団馬宮西分団のある辺りになります。

↑下流側を見ると、大きく左に曲がっていて、かつて暴れ川だった名残りが感じられます。

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旧荒川であるびん沼川が市境となっているので、さいたま市飯田新田と違い、こちら側は川越市萱沼になります。

大正15年(1926)に荒川が現在の流路として整備されましたが、市境はそのままとなっているからです。

↑萱沼びん沼公園として整備されており、沼というか池や芝生の広場があります。

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現在の荒川沿いの道路からの入り口が分かりづらいこともあり、あまり人がいないところが魅力です。

富士見市のびん沼自然公園が駐車場も含めて混雑しているのとは対照的です。

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2024年1月14日 (日)

荒川の東だけでなく西岸にもあるさいたま市西区の馬宮にある飯田新田

11月に荒川の東側にあるさいたま市西区の馬宮地区に行きました。

その馬宮は荒川西側にもあるようです。

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↑さいたま市立馬宮西小学校です。

屋上に「創立148年」との看板がありますから歴史は古く、明治8年(1875)からあるということです。

校舎の右側、東方になりますが見えているのは荒川の堤防になります。

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ここは荒川の西側になり、富士見市か川越市のどちらかだと思っていましたが、大宮市であって今はさいたま市西区です。

もともと荒川が境界で、その流れの東側にあったため大宮側であったものが、荒川を直線化したため地区が分断されてしまいました。

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↑さいたま市消防団馬宮西分団もこの近くにあります。

比較的新しく平成28年(2016)にできたということで、それまでは荒川東側の馬宮分団しかなかったそうです。

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↑裏の林の木々の奥に見える水の流れがかつての荒川でした。

びん沼川となっているところが、かつての荒川本流であったため、旧馬宮村は荒川で分断されて治水橋でしか行き来できないようになってしまいました。

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2023年12月31日 (日)

水没する前提の狭山台図書館駐車場と狭山台団地の広い調整池

狭山市にある狭山台図書館は体育館やプールも併設されており、すぐ横には久保川が流れています。

通常流れている水はごく少量です。

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久保川は川越市を通り不老川へと流れる準用河川です。

駐車場があり、出入り口にはブースと遮断棒がありますが今は使われていないようです。

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ただし、入ってすぐのところには、ちょっと気になる看板が立っていました。

駐車場は下へのスリープで降りていくのですが、地形のためか半地下構造です。

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奥にはグラウンドのような広い空間が広がっています。

そちらから建物と駐車場を振り返れば、地下とは思えない一階部分です。

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駐車場から図書館や体育館へ行く階段には多くの警告板があります。

降雨時水没注意、この駐車場は降雨時水没しますなどと書かれています。

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狭山市ホームページによると、雨水調整池を利用した駐車場だということです。

その際は緊急放送するから車を移動させろとのことです。

場内には最高水位と記された表示があります。

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2023年12月17日 (日)

さいたま市西区にあるプラザという多摩プラーザのように有名にはならなかったカタカナ地名

多摩プラーザは東急田園都市線の有名な駅名ですし、街としても有名です。

さいたま市西区にプラザという地名があるので行ってみました。

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↑住居表示版にもカタカナで「プラザ」と表示されています。

数週間前に見た馬宮や西優馬のすぐ近くで、失礼ながら、あまりプラザというイメージとは違うところです。

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↑郵便局も大宮プラザ郵便局という名です。

昭和59年(1984)にプラザという大宮市内で唯一のカタカナ地名になったということです。

当時の大宮市だけでなく今に比べてカタカナ地名は珍しかったはずです。

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↑スーパーのマルエツも大宮プラザ店です。

この地区は総面積31万2600平方メートルは、昭和46年(1971)から東急不動産が「大宮プラーザ団地」として販売をしました。

プラザではなく、プラーザです。

田園都市線の多摩プラーザ駅で聞き覚えのあるプラーザです。

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↑区域内の公園はプラザ中央公園となっていますが、マルエツの写真の右の三段目の看板にはプラーザ商店街という表示が残っています。

昭和44年(1969)に赤坂東急プラーザを竣工した時から東急ではプラーザという呼称を使っていたそうです。

それも、今では赤坂東急プラザです。

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↑看板四段目にあった自治会館は見当たりませんでしたが、少し離れたところに大宮プラザ自治会館として建て替えられているようです。

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