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51埼玉県

2019年12月 1日 (日)

八高線から見える越生総社の春日神社と諸般の事情でたどり着くことが出来なかった赤坂沢

JR八高線の越生駅から少し高崎方面に向かうと、車窓からは右に神社が見えます。

車でその前を通ったので立ち寄りました。

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↑高麗川から先は電化されていないため架線がないので、八高線も写っている写真を撮ろうかとしました。

しかし、この辺りは1時間に1本程度しか走っていないため、列車とのセット写真は撮れませんでした。

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↑越生総社春日神社と刻まれています。

延暦元年(782年)創建とされ、内裏山獅子岩の傍に祭祀されていたものを、征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷征伐の際に、この地に宮殿を築いて内裏大明神を祀ったといいます。

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↑随神門もあります。

さらに、平将門が当地に内裏を置いたとされ、延喜年中に将門の伯父である平国香が修繕したともいいます。

社伝にしても、有名人がずらりと出てきます。

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↑左は拝殿、右は神楽殿ではなく舞殿と書かれていました。

松山城主上田能登守の再建を経て、寛政10年(1798)に内裏大明神春日大明神を改め、春日神社として越生十六郷総鎮守と定められました。

これにより、越生総社と書かれていたようです。

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↑拝殿の奥にある本殿も趣のあるいい建物です。

ところで、本日の目的地は標高70メートルのここではなく、もっと山奥なのでそちらに向かいます。

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2019年11月10日 (日)

さいたま市にある秋葉神社は関東総社で1250年も前に創建という

秋葉神社といえば、遠州静岡県にある火除けの神という印象があります。

さいたま市内を車で走っていたら、その秋葉神社の関東総社という看板があったので行ってみました。

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JR埼京線指扇駅の北、国道16号線西大宮バイパスの北で、県道57号さいたま鴻巣線からの秋葉通りという道沿いです。

秋葉神社公園という広い公園の奥に駐車場があり、その向こうに境内はあります。

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江戸時代に江戸で火事が多発していたため、秋葉信仰が広まったということなので、この秋葉神社もその頃のものかと思っていました。

ところが、境内にある案内板によると、聖武天皇の世、天平年間創建とありますから、729年から749年の間ということになります。

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↑西側から入ってきましたが、鳥居は社殿の南側にあります。

調べてみると、秋葉神は山岳信仰から発したものが神仏習合により秋葉山大権現として信仰されるようになったといいます。

一に剣難、二に火難、三に水難に神徳があったため、武士の信仰を集めていたものが、江戸時代に火除けの神として人気となったようです。

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↑東側から見た、冬の午後の日差しの中の手水舎越しの神社です。

この秋葉神社は、江戸時代には旗本山ノ内家に守護神として崇敬され、社殿が改築されたといいます。

また、紀州徳川家の御祈願所ともなり、火災・盗難防護、延命長寿、家内安全の霊神として関東一円より多くの人に崇敬尊信されたそうです。

ということは、関東総社となるのは、江戸時代だったのでしょう。

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2019年11月 3日 (日)

所沢市と三芳町に跨がる三富地域の総鎮守である神明社と教科書にもあった人々の名

所沢市に中富と下富が、三芳町に上富という地名があります。

これは江戸時代の上富村、中富村、下富村の名残です。

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↑所沢市中富にある「村社 神明社」です。

元禄9年(1696年)に川越城主であった柳沢吉保がこの辺りを新田開発し、上富村、中富村、下富村の三ヶ村を開いたといいます。

三富新田といわれています。

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↑手水舎と神楽殿の向こう側は、引き続き多聞院の敷地になります。

開村の際、ここに一寺一社の制に基づき、鎮守の宮として毘沙門社と多聞院を創立したといいます。

宝暦11年(1761年)(入間郡誌では宝暦8年)には境内に神明社を勧請しました。

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↑その神明社の拝殿です。

明治時代になって神仏分離令により、神明社と多聞院に敷地が分けられるようになっています。

明治45年には、享保年間には幕府直轄領として開発された所沢新田等の富岡地域の七社も合祀されたといいます。

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↑本殿は比較的最近に再建されたようでキレイです。

この神社は三富地域、富岡地域の総鎮守ですから、結構な範囲です。

また、この辺りは「川越いも」特に「富の川越イモ」ともいわれるサツマイモの名産地で、境内には「いも神社」もありました。

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2019年10月13日 (日)

入間市宮寺にひっそりと鎮座する出雲祝神社が延喜式神名帳の入間郡5座か

多摩湖や狭山湖のある狭山丘陵の北を通る県道所沢青梅線を西に向かい、所沢市を抜けると入間市宮寺です。

県道からは奥まった小高い丘の上に出雲祝神社があります。

北側からの参道は通行できなくなっていました。

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表参道は東側にあるようです。

村社出雲祝神社と書かれています。

説明板には、延喜式内社で第十二代景行天皇の時に創建され、大宝2年(702)に再建されたとあり、その棟札もあるようです。

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平安時代の延喜式神名帳にある入間郡5座のうちのひとつということです。

しかし、階段を数段上ると一ノ鳥居があり、そこには寄木宮と書かれています。

鳥居の奥の参道の右には旗竿と思われる長い木が屋根付きで置かれています。

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延喜式内社の出雲イワイ神社は、いくつかの論社があるようです。

2年前に行った毛呂山町にある出雲伊波比神社も論社の一つです。

参道を進むと、さらに階段があり、二の鳥居へと続きます。

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↓二の鳥居の奥に拝殿があります。

右には境内社の八雲神社、左には護国神社があります。

その右には社務所らしい建て替え中の建物がありました。

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出雲伊波比神社の本殿は室町時代の建築で重要文化財にも指定されていましたが、出雲祝神社の方は歴史的なそういった建築物はないようです。

しかし、こちらには戦国時代の弘治3年(1557)の北条氏康からの朱印状が残されており、そこに「出雲祝神社」と記されています。

その他の状況はどうでしょう。

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2019年10月 6日 (日)

自転車で浦所バイパスの所沢インター周辺を右側歩道に迂回しないとどうなるのか

浦和所沢バイパスを西行きに進むと、国道254号線との英インターを越えた「坂の下交差点」の歩道上に案内板があります。

「歩行者自転車のみなさまへ」とあり、図の通り「迂回願います」と書かれています。

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関越自動車道の所沢インター出入口があるところは、多くの車が左へ高速道路に入っていきますし、逆に左からバイパスに合流してきます。

自転車は車道走行が原則とはいえ、そのまま車道を直進するのは危険なのはわかります。

しかし、右側歩道を自転車で走行することをいやがるサイクリストもいそうなものです。

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左側歩道を通ってでも迂回すれば、それで良さそうなものですが無理なのでしょうか。

↑試すために、そのまま西へ左側歩道を走行していくと、700メートルの結構長い登り坂の先に所沢インターの入口があります。

そのさらに左には歩道が続いているように見えますが、40キロ制限の標識があることから自動車も通れる道路です。

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↑そのすぐ横にある所沢インターは、バイパスの東行き西行きの両側からの入口車線と出口車線、インターチェンジの料金所もある広い敷地となっていますから、先程の道路は大きく左に南西へと逸れていきます。

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↑やがてこの道は下り坂となり、インターチェンジ施設は擁壁の上で見えなくなっていきます。

そして関越自動車道の東京方面行きに沿って南に向かい、さらにこの道は東向きとなってしまいます。

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このままでは浦所バイパスに戻れなくなりますから、この関越自動車道をアンダーパスで潜ることとします。

↑右奥から来たので、ここでUターンして西に向かいます。

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↑高速道路を潜って振り返って見ています。

二本トンネルがあるのは、手前は下りの所沢インターへの出口車線で、奥のものが本線です。

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この道を先に進むと、下り車線の出入口のインターチェンジ施設に沿って、時計回りに北へと向きを変えながら登り坂となっています。

↑振返ると、掘割下が左の新潟方面への本線で、下り車線の出入口が本線を跨いでいくのが見えます。

もうそろそろ浦所バイパスに戻れそうです。

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2019年9月15日 (日)

石田堤が破堤したという地点と鴻巣市の史跡公園にある堤の断面

石田三成による忍城水攻めの際に築かれたという石田堤の行田市の現存しているところを見てきました。

新忍川の堀切橋が鴻巣市(合併前の吹上町)との境界ですが、その堀切橋は土木学会選奨土木遺産となっています。

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↑北の行田市方向を振り返って見ていますが、親柱頂部に尖頭半球が施されています。

この高欄には三角形の空間があるデザインとなっています。

昭和8年(1933)に竣工しましたが、屋外アート風の橋であることから土木遺産に選奨されたそうです。

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↑南の鴻巣市側を見てみると、幾何学模様が描かれているのもわかります。

高欄の影に三角形があるのも面白いです。

忍城水攻めの時は、この堀切橋のところで石田堤が破堤して、石田三成率いる豊臣軍に多数の犠牲者が出たということです。

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↑堀切橋から南の約300メートルも石田堤が保存されており、鴻巣市指定史跡として石田堤史跡公園となっています。

東屋や説明板などが整備されていますが、堤が途中でバッサリと切断されています。

ここには上越新幹線が通っているのです。

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その高架橋の下も広場となっています。

様々な説明板がありますが、櫓のシンボルモニュメント下では石田堤の音声案内を聞くことが出来ます。

感知器があって、人が下に立つと音声が流れてきます。

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音声は2パターンあるようですが、東屋のところにあった説明板によると、上を新幹線が通過するときにその別バージョンが聞くことができると書かれていました。

聞いてみると、解説だけでなくドラマ仕立てとなっており、石田三成役は大和田伸也さんです。

このブログを見ている方は分かりづらいでしょうから、国土交通省HPにある石田堤のイメージ地図です。

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2019年9月 8日 (日)

石田三成による忍城水攻め時に陣のあったところからの眺めとその時に築かれた石田堤

戦国時代末期、豊臣秀吉は関東地方に勢力を持つ小田原北条氏と戦うことで関東を平定して、天下統一することを目指していました。

小田原城の支城であり、行田市にある成田氏の忍城への攻撃を石田三成が命じられました。

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↑石田三成は、同じく行田市にある埼玉古墳群の丸墓山古墳に本陣を構え、忍城付近を眺め、その地形から水攻めをすることを決めたと言われていました。

しかし、実際には石田三成が考えたというよりも、豊臣秀吉の強い意向により水攻めは行われたようです。

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↑丸墓山古墳は高さ19メートルありますから、確かに忍城周辺の地形はよく見ることが出来ます。

忍城を取り囲むように堤を築いて、利根川、荒川の水を引き込み水攻めをしようとしたものでした。

天正18年(1590)に石田三成らは城を包囲し水攻めをすることとし、そのために築いた堤は後に「石田堤」と言われています。

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↑丸墓山古墳古墳から南へ向かう道も石田堤の一部とのことです。

全長28キロメートルに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています。

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↑古墳への通路となっているため、あまり堤の面影はありません。

当時、堤が完成し、利根川や荒川の水を引き入れましたが、地形的に忍城や城下町よりも現在の下忍や堤根方面に水が溜まってしまいました。

遂には堤が決壊し、水攻めは失敗に終わりました。

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↑2.5キロメートルほど南にある行田市堤根には、この石田堤が残されています。

ここは行田市により、「石田堤歴史の広場」として駐車場と広場が整備されています。

ここの堤は延長282メートルあり、埼玉県指定史跡にもなっています。

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2019年9月 1日 (日)

利根川の水を東京都の水道水に利用できる仕組みとしての利根大堰

東京都の水道水というと、都内にある奥多摩湖や多摩川のイメージが強いですが、実際には違っています。

多摩川水系は全体の2割ほどで、荒川や利根川水系が8割ほどを占めています。

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↑その利根川の水を利用するために利根大堰があります。

埼玉県行田市と群馬県邑楽郡千代田町の境界にあります。

太平洋の利根川河口からは154キロの地点と言います。

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確かに以前は多摩川に大きく依存していた東京の水ですが、昭和の高度経済成長期から増えていく水需要に応える必要が生じていました。

そこで昭和38年(1963)に利根導水路計画により、利根川の水を利用することとなりました。

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↑利根川右岸側にある取水口を堰の下から上流に向けて見てみると、川幅も取水口も広いです。

この計画により、昭和40年(1965)に武蔵水路が完成し、昭和43年(1968)に利根大堰も完成しました。

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↑堤防となっている土手の下を潜って、それぞれの水路に流れていきます。

これの無かった、前回の東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)は、東京砂漠と言われるほどの渇水に東京は直面して大変だったそうです。

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↑奥に見えていた水路を横断する道路から取水口の方を振り返って見ると、「須加樋管」と書かれています。

↓ここから南に向けてはいくつもの水路に分かれていきます。

水資源機構の利根導水総合事業所のHPによると、利根導水路事業の目的は大きく3つあります。

右から「見沼代用水路、武蔵水路、埼玉用水路、邑楽用水路」と書かれています。

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2019年8月11日 (日)

大和時代はどうかとしても平安時代にはあった狭山市の廣瀬神社と樹齢400年のねじれた梅の木

狭山市にある廣瀬神社は、社伝によれば創建は古く、3世紀の大和時代の景行天皇の御代、日本武尊東征の折だといいます。

ここを流れる入間川が大和国広瀬の地によく似ていることから、廣瀬神社から分社したとのことです。

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しかし、元の大和国の廣瀬神社の創建が天武天皇の頃といいますから、ちょっとあり得なさそうな話でです。

そうは言うものの、嘉祥3年(850年)の文徳天皇実録には、武蔵国廣瀬神社が記載されているといいます。

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これまでもいろいろ見てきた延喜式内の神社では、中氷川神社のようにいくつかの候補があるケースも多いようですが、ここは違うようです。

廣瀬神社は入間郡五座の一つですが、ここ以外にはないようです。

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延長5年(927年)に延喜式神名帳は書かれていますから、平安時代にはこの神社はあったということです。

↑拝殿の御神号額は明治の三筆といわれた野村素介によるものです。

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↑御神木の大欅二本も古く、樹齢900年と1000年といい、高さ30メートルです。

埼玉県指定天然記念物となっています。

そして、ねじれた不思議な松の木もありました。

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2019年8月 4日 (日)

北本市の石戸城とそれを攻める北条氏邦が一夜にして築いたという一夜堤

石戸城は天神山城ともいわれる北本市石戸宿にある城跡です。

室町時代長禄年間(1457~60年)頃の城といいます。

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↑荒川沿いの河川敷にある天神下駐車場から見上げていますが、荒川の堤防にもなっている桜堤通りに沿って石戸城はありました。

扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が築城し、北上する北条氏に備えるため、岩付城、松山城、川越城を結ぶ防衛ラインの一部を担っていました。

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↑その桜堤通りを南に向かい北を振り返ると、一の郭があったところを道路が分断して通っています。

一の郭の左側が荒川になりますから、西側は要害となっています。

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↑さらに南に行くと、五の郭のあった辺りに北本市教育委員会による説明板があります。

奥の方が三の郭になります。

永禄6年(1563)北条、武田連合軍が松山城攻めした時には、援軍のため上杉謙信が上越越えをして石戸城に逗留したといいます。

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↑そこにある地図になります。

埼玉県選定重要遺跡となっています。

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↑この道を挟んで左側が四の郭になります。

一の郭(左)と二の郭(右)間は急な下り坂で、トンネルに入って行くような感じです。

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ここまで風景では戦国の城跡の印象がありませんでしたが、奥に入って行くと別世界になります。

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