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51埼玉県

2019年10月 6日 (日)

自転車で浦所バイパスの所沢インター周辺を右側歩道に迂回しないとどうなるのか

浦和所沢バイパスを西行きに進むと、国道254号線との英インターを越えた「坂の下交差点」の歩道上に案内板があります。

「歩行者自転車のみなさまへ」とあり、図の通り「迂回願います」と書かれています。

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関越自動車道の所沢インター出入口があるところは、多くの車が左へ高速道路に入っていきますし、逆に左からバイパスに合流してきます。

自転車は車道走行が原則とはいえ、そのまま車道を直進するのは危険なのはわかります。

しかし、右側歩道を自転車で走行することをいやがるサイクリストもいそうなものです。

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左側歩道を通ってでも迂回すれば、それで良さそうなものですが無理なのでしょうか。

↑試すために、そのまま西へ左側歩道を走行していくと、700メートルの結構長い登り坂の先に所沢インターの入口があります。

そのさらに左には歩道が続いているように見えますが、40キロ制限の標識があることから自動車も通れる道路です。

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↑そのすぐ横にある所沢インターは、バイパスの東行き西行きの両側からの入口車線と出口車線、インターチェンジの料金所もある広い敷地となっていますから、先程の道路は大きく左に南西へと逸れていきます。

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↑やがてこの道は下り坂となり、インターチェンジ施設は擁壁の上で見えなくなっていきます。

そして関越自動車道の東京方面行きに沿って南に向かい、さらにこの道は東向きとなってしまいます。

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このままでは浦所バイパスに戻れなくなりますから、この関越自動車道をアンダーパスで潜ることとします。

↑右奥から来たので、ここでUターンして西に向かいます。

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↑高速道路を潜って振り返って見ています。

二本トンネルがあるのは、手前は下りの所沢インターへの出口車線で、奥のものが本線です。

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この道を先に進むと、下り車線の出入口のインターチェンジ施設に沿って、時計回りに北へと向きを変えながら登り坂となっています。

↑振返ると、掘割下が左の新潟方面への本線で、下り車線の出入口が本線を跨いでいくのが見えます。

もうそろそろ浦所バイパスに戻れそうです。

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2019年9月15日 (日)

石田堤が破堤したという地点と鴻巣市の史跡公園にある堤の断面

石田三成による忍城水攻めの際に築かれたという石田堤の行田市の現存しているところを見てきました。

新忍川の堀切橋が鴻巣市(合併前の吹上町)との境界ですが、その堀切橋は土木学会選奨土木遺産となっています。

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↑北の行田市方向を振り返って見ていますが、親柱頂部に尖頭半球が施されています。

この高欄には三角形の空間があるデザインとなっています。

昭和8年(1933)に竣工しましたが、屋外アート風の橋であることから土木遺産に選奨されたそうです。

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↑南の鴻巣市側を見てみると、幾何学模様が描かれているのもわかります。

高欄の影に三角形があるのも面白いです。

忍城水攻めの時は、この堀切橋のところで石田堤が破堤して、石田三成率いる豊臣軍に多数の犠牲者が出たということです。

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↑堀切橋から南の約300メートルも石田堤が保存されており、鴻巣市指定史跡として石田堤史跡公園となっています。

東屋や説明板などが整備されていますが、堤が途中でバッサリと切断されています。

ここには上越新幹線が通っているのです。

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その高架橋の下も広場となっています。

様々な説明板がありますが、櫓のシンボルモニュメント下では石田堤の音声案内を聞くことが出来ます。

感知器があって、人が下に立つと音声が流れてきます。

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音声は2パターンあるようですが、東屋のところにあった説明板によると、上を新幹線が通過するときにその別バージョンが聞くことができると書かれていました。

聞いてみると、解説だけでなくドラマ仕立てとなっており、石田三成役は大和田伸也さんです。

このブログを見ている方は分かりづらいでしょうから、国土交通省HPにある石田堤のイメージ地図です。

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2019年9月 8日 (日)

石田三成による忍城水攻め時に陣のあったところからの眺めとその時に築かれた石田堤

戦国時代末期、豊臣秀吉は関東地方に勢力を持つ小田原北条氏と戦うことで関東を平定して、天下統一することを目指していました。

小田原城の支城であり、行田市にある成田氏の忍城への攻撃を石田三成が命じられました。

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↑石田三成は、同じく行田市にある埼玉古墳群の丸墓山古墳に本陣を構え、忍城付近を眺め、その地形から水攻めをすることを決めたと言われていました。

しかし、実際には石田三成が考えたというよりも、豊臣秀吉の強い意向により水攻めは行われたようです。

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↑丸墓山古墳は高さ19メートルありますから、確かに忍城周辺の地形はよく見ることが出来ます。

忍城を取り囲むように堤を築いて、利根川、荒川の水を引き込み水攻めをしようとしたものでした。

天正18年(1590)に石田三成らは城を包囲し水攻めをすることとし、そのために築いた堤は後に「石田堤」と言われています。

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↑丸墓山古墳古墳から南へ向かう道も石田堤の一部とのことです。

全長28キロメートルに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています。

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↑古墳への通路となっているため、あまり堤の面影はありません。

当時、堤が完成し、利根川や荒川の水を引き入れましたが、地形的に忍城や城下町よりも現在の下忍や堤根方面に水が溜まってしまいました。

遂には堤が決壊し、水攻めは失敗に終わりました。

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↑2.5キロメートルほど南にある行田市堤根には、この石田堤が残されています。

ここは行田市により、「石田堤歴史の広場」として駐車場と広場が整備されています。

ここの堤は延長282メートルあり、埼玉県指定史跡にもなっています。

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2019年9月 1日 (日)

利根川の水を東京都の水道水に利用できる仕組みとしての利根大堰

東京都の水道水というと、都内にある奥多摩湖や多摩川のイメージが強いですが、実際には違っています。

多摩川水系は全体の2割ほどで、荒川や利根川水系が8割ほどを占めています。

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↑その利根川の水を利用するために利根大堰があります。

埼玉県行田市と群馬県邑楽郡千代田町の境界にあります。

太平洋の利根川河口からは154キロの地点と言います。

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確かに以前は多摩川に大きく依存していた東京の水ですが、昭和の高度経済成長期から増えていく水需要に応える必要が生じていました。

そこで昭和38年(1963)に利根導水路計画により、利根川の水を利用することとなりました。

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↑利根川右岸側にある取水口を堰の下から上流に向けて見てみると、川幅も取水口も広いです。

この計画により、昭和40年(1965)に武蔵水路が完成し、昭和43年(1968)に利根大堰も完成しました。

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↑堤防となっている土手の下を潜って、それぞれの水路に流れていきます。

これの無かった、前回の東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)は、東京砂漠と言われるほどの渇水に東京は直面して大変だったそうです。

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↑奥に見えていた水路を横断する道路から取水口の方を振り返って見ると、「須加樋管」と書かれています。

↓ここから南に向けてはいくつもの水路に分かれていきます。

水資源機構の利根導水総合事業所のHPによると、利根導水路事業の目的は大きく3つあります。

右から「見沼代用水路、武蔵水路、埼玉用水路、邑楽用水路」と書かれています。

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2019年8月11日 (日)

大和時代はどうかとしても平安時代にはあった狭山市の廣瀬神社と樹齢400年のねじれた梅の木

狭山市にある廣瀬神社は、社伝によれば創建は古く、3世紀の大和時代の景行天皇の御代、日本武尊東征の折だといいます。

ここを流れる入間川が大和国広瀬の地によく似ていることから、廣瀬神社から分社したとのことです。

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しかし、元の大和国の廣瀬神社の創建が天武天皇の頃といいますから、ちょっとあり得なさそうな話でです。

そうは言うものの、嘉祥3年(850年)の文徳天皇実録には、武蔵国廣瀬神社が記載されているといいます。

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これまでもいろいろ見てきた延喜式内の神社では、中氷川神社のようにいくつかの候補があるケースも多いようですが、ここは違うようです。

廣瀬神社は入間郡五座の一つですが、ここ以外にはないようです。

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延長5年(927年)に延喜式神名帳は書かれていますから、平安時代にはこの神社はあったということです。

↑拝殿の御神号額は明治の三筆といわれた野村素介によるものです。

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↑御神木の大欅二本も古く、樹齢900年と1000年といい、高さ30メートルです。

埼玉県指定天然記念物となっています。

そして、ねじれた不思議な松の木もありました。

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2019年8月 4日 (日)

北本市の石戸城とそれを攻める北条氏邦が一夜にして築いたという一夜堤

石戸城は天神山城ともいわれる北本市石戸宿にある城跡です。

室町時代長禄年間(1457~60年)頃の城といいます。

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↑荒川沿いの河川敷にある天神下駐車場から見上げていますが、荒川の堤防にもなっている桜堤通りに沿って石戸城はありました。

扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が築城し、北上する北条氏に備えるため、岩付城、松山城、川越城を結ぶ防衛ラインの一部を担っていました。

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↑その桜堤通りを南に向かい北を振り返ると、一の郭があったところを道路が分断して通っています。

一の郭の左側が荒川になりますから、西側は要害となっています。

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↑さらに南に行くと、五の郭のあった辺りに北本市教育委員会による説明板があります。

奥の方が三の郭になります。

永禄6年(1563)北条、武田連合軍が松山城攻めした時には、援軍のため上杉謙信が上越越えをして石戸城に逗留したといいます。

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↑そこにある地図になります。

埼玉県選定重要遺跡となっています。

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↑この道を挟んで左側が四の郭になります。

一の郭(左)と二の郭(右)間は急な下り坂で、トンネルに入って行くような感じです。

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ここまで風景では戦国の城跡の印象がありませんでしたが、奥に入って行くと別世界になります。

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2019年7月28日 (日)

富士見市の武蔵野台地の端に突き出た氷川神社とそこにある湧水

国道254号線バイパス沿いに沿っては、ららぽーと富士見、またすぐ隣には市役所もあります。

この辺りは、武蔵野台地が舌状台地となって突き出た部分との間の高低差を見ることが出来ます。

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↑鶴瀬駅のある南西方向に向けては、道路も登り坂となっており、高さの差は10メートルほどになっています。

奥に見える木々の生い茂ったところは、氷川神社の鎮守の杜となっています。

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道路を挟んで、諏訪神社とこの氷川神社は向かい合っています。

どちらも、古代の住居址が数多くあるところに建立された神社です。

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↑狛犬は溶岩の上にいて迫力があります。

獅子山というそうです。

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↑拝殿にはネコが昼寝していましたが、割とこれは日常的な風景だそうです。

創建は不明ですが、江戸時代の正徳元年(1711)に社殿が再建されたという棟札が現存しています。

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↑参道の途中には、下に向けて降りて行く階段があり、「雲居の瀧」と書かれています。

本当に滝があるのでしょうか。

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2019年6月30日 (日)

越生町にある新日本観光地百選の越辺川の黒山三滝と予想外の森林の所有者

東京都からそう遠くない白鳥飛来地ということで、埼玉県川島町の越辺川に5ヶ月ほど前の冬には白鳥を見に行ったところです。

越辺川と書いて「おっぺがわ」と読む川の源流の一つであり、滝もあるという黒山川に行きました。

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↑梅林で有名な越生町にあり、滝に行くための駐車場横を流れている川でも既に源流感があります。

3つの滝があり、黒山三滝とされています。

車で来たのですが、駐車車両も多く予想以上に観光客がいました。

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↑坂道を10分近く歩いたでしょうか、左に天狗滝への入口があります。

周辺の地層が美しいです。

滑らないように注意しながら登って行くと、すぐに到着です。

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↑落差13.6メートルという天狗滝(てんぐだき)です。

周囲の石は珍しい赤色チャートだそうです。

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↑元の道に戻り、残り二つの滝を目指しますが、昔ながらの土産物店があります。

写真左側が川の流れ、右側が店を見ながらの道になっています。

この手前にも、川魚を焼いている店やカフェなどもありました。

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↑そして、いよいよ「黒山三滝」と書かれた看板があります。

なんと、黒山三滝は1950年(昭和25年)に毎日新聞社主催による「新日本観光地百選」という十種類の分類でベスト10を決める際に、瀑布(滝)の部で第9位に選ばれているという人気者でした。

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2019年6月 2日 (日)

所沢市三ヶ島にある中氷川神社の方が延喜式に記載されている神社なのか

前回は、平安時代の延喜式にも載っていたという所沢市山口にある中氷川神社に行って来ました。

ところが同じ所沢市内に同じ中氷川神社があり、こちらも延喜式に記載されていたという神社であるというので、2週連続で所沢市に向かいました。

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埼玉県道179号所沢青梅線沿いの早稲田大学所沢キャンパスの近くにあります。

鳥居の横にはやはり「延喜式内中氷川神社」と書かれており、住宅の間に西に向けて細長い参道が続きます。

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拝殿前の案内板には「延喜式」神名帳に記載される「武蔵野国四十四座の一つ中氷川神社」と伝える古社であると書かれていました。

境内が、北東から南西にかけて、非常に細長い形をしているところからかつて当社は長宮とも称されていたといいます。

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↑拝殿向背には虎の彫刻、光背柱には獅子と龍、水を吐いている龍、花の彫刻等も多数あります。

覆殿の隙間から本殿を見ることが出来ます。

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本殿は一間造りで、側面や扉をはじめ、柱や梁などに至るまで、龍や獅子などの細かな彫刻が施されています。

江戸時代の建築美を今に伝える貴重な文化財となっているといいます。

左側からの方がよく見ることが出来ました。

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2019年5月26日 (日)

GHQも来たという所沢市山口にある中氷川神社は三氷川の中乃社という

以前から前を通る時にちょっと気になっている神社の案内板がありました。

埼玉県道55号所沢武蔵村山立川線沿いの所沢市山口にある中氷川神社です。

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「武蔵国三氷川中乃社」とあります。

3つの氷川神社の真ん中にある中氷川神社ということでしょうか。

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↑一ノ鳥居を抜け、南から北に向かう参道の階段を上り、ニノ鳥居も抜けると、参道は西に向かう階段となります。

約3500坪の狭山丘陵の杜ということですから、小高い山すべてが境内となっているようです。

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「延喜式内祈年國弊社」とも書かれていましたから、平安時代の延喜式に記載されていた神社ということになります。

入間・多摩二郡にまたがる92ヶ村の総鎮守とうことで、かなり広範囲の総鎮守です。

本殿は大社造で、昭和22年(1945年)に造営されたものですが立派で、心の御柱25尺です。

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本殿造営の少し前である、終戦直後の昭和20年(1945年)11月に連合国軍総司令部(GHQ)が、ここ中氷川神社の臨時例大祭を視察しました。

なぜここが選ばれたのかの経緯は分かりませんでした。

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