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55神奈川県

2020年8月30日 (日)

7世紀後半の神奈川県指定史跡の古墳や富士塚もあり貨物ターミナルも見渡せる馬絹神社の高台

川崎市にある宮前区や宮前台、宮崎平の由来となった馬絹神社境内の続きですが、ここには富士塚もあります。
そして、さらにはすぐ隣に古墳もあります。
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↑馬絹という地名の由来ともいわれる、源頼朝が馬の袖衣を掛けた「御神木千年松の祠」があるところには、富士塚の入口があります。
祠のところから右上に上がっていけるようになっています。
石段の手前には、「参明藤開山 富士浅間大神」と刻まれた石柱があります。
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↑上がっていくと途中には、富士講碑、二十三夜塔、地神塔などがあります。
やがて広い空間に出ると、馬絹神社本殿の屋根も見渡せるのですが、富士塚らしき祠などが見当たりません。
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探していると、折り返したもう少し高いところがありました。
頂上に着くと、石碑があり注連縄などが雨で濡れないように、保護されています。
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この富士塚はあえて山を築いたというよりは、元々あった矢上川沿いの台地を利用しているようです。
そして、先程の広くなったところから東側をみると、そちらにも小山があります。
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↑ 馬絹古墳といい、矢上川の沖積低地を望む標高43メートルほどの台地の南縁辺に立地している7世紀後半に築造された古墳です。
つまり、飛鳥時代の大化の改新以降、天智・天武・持統天皇の頃といういことになります。
こちらの敷地は、馬絹古墳公園となっています。

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2020年8月23日 (日)

川崎市宮前区の地名の由来となった馬絹神社は宮崎台の由来でもある

川崎市には宮前区が、そして東急田園都市線には宮前平駅があります。
神社つまり宮の前だから宮前でしょうが、思い当たる神社がありませんでした。
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↑地元の方は当然に知っているのかも知りませんが、この馬絹神社が地名の由来のようです。
国道246号線から東名自動車道の川崎インターに向かう、尻手黒川道路との交差点名として、「馬絹」という名前は聞いたことがありました
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室町時代末期の永禄年間(1558~1570)に、稲毛庄馬衣郷を分割して馬絹村、梶ヶ谷村、土橋村の三村ができました。
そして、明治22年(1889)の町村制施行により馬絹、土橋、有馬(当時有間)、野川、梶ケ谷の5村と溝口村の飛び地が合併して、宮前(みやさき)村ができました。
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馬絹神社は、創建年は江戸元禄以前で詳細は不明で、元は女躰権現社と称していました。
明治43年(1910)に近隣の八幡、三島、熊野、白山神社の4社を併合して神明神社に改称し、馬絹村の村社となりました。
昭和61年(1986)に本殿を新築するとともに、社名を神明神社から馬絹神社へと改称しました。
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宮前の地名になった由来としては、馬絹村のほぼ中央に位置した女躰権現社(現在の馬絹神社)が「馬絹村字宮ノ前(みやのまえ)」にあり、この付近に村役場が設置されたことによります。
そこから名付けられ、地名の「みやのまえ」から「みやまえ」になり、現在の宮前区や宮前平へとなっています。
調べていくと驚いたことに、宮崎台の由来もこちらのようです。

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2020年8月16日 (日)

久保沢跨線橋という跨道橋と川尻石器時代遺跡という縄文時代の遺跡

インターチェンジなどで複雑な重層構造の形状をした道路がよくありますが、一般道でも興味をそそられるところがたまにあります。
神奈川県道508号厚木城山線の終点近くにもありました。
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↑相模原市緑区久保沢の山王神社前交差点付近です。
西の方に直進すると、国道413号線と合流して城山ダムのある津久井湖方面に行きます。
↑左の道を下っていくと、道路標識表示にあるように小倉橋へ向かいます。
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↑さっきの交差点から右に下っていく道があり、こちらはすぐ先が県道510号長竹川尻線となり、反時計回りにまわりこんで、508号線の下をくぐっていきます。
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↑くぐるところから東向きに、道路と山王神社を見上げれば、今いる右(この写真では左)に下っていく道も小倉橋に行くという道路標識があります。
この道路が北向きからぐるっと南向きに変わるため、最初に左に向かった道と合流して同じ小倉橋に向かうのです。
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↑地図を載せますが、アップにしているのでわかりにくいことに、510と表記されているのは南北に下を通る道で、東西に上を通る508号線の数字表記はありません。
こうした道路形状の美?は楽しむことができましたが、ここでもう一つの謎があります。
久保沢跨線橋とありますが、跨線橋なのでしょうか。
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↑上を通る508号線の橋梁を西に見上げると、ここから徒歩で上がって行けるようになっています。
跨線橋は線路を跨ぐ橋、道路を跨ぐ橋は跨道橋なのではないでしょうか。
ここには鉄道は通っていませんが、上に行ってみると遺跡がありました。

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2020年8月 9日 (日)

相原は予想外に八王子市ではなく町田市にあり、しかも相模原市にも相原

八王子駅からJR横浜線で橋本駅に行く間に相原駅があります。
八王子市と相模原市の間にあり、八王子みなみ野駅の隣なので、相原は八王子市内と思っていました。
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↑すぐ先にある交差点は、東京都道47号線、通称町田街道の「相原十字路」という交差点です。
ここにある境川の橋が東京都と神奈川県の都県境になっており、手前が神奈川県相模原市で、奥は東京都です。
ただし、都の八王子市ではなく、予想外に町田市で、町田市は北西に向けて入り込んだような形となっているようです。
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↑これは交差点近くにあった「町田市地区案内図」です。
左側が北向きの地図なので、上方つまり東にある相原駅も町田市相原町になります。
もう一つ驚くことに、右側にも「相原一丁目、二丁目、六丁目」とあり、こちらは相模原市となっています。
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↑その相原六丁目に「相原総鎮守 相原八幡宮」があり、そこに「相原起番地之碑」があります。
明治時代初めの地租改正に際して、ここが相原1番地とされたことによります。
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相原八幡宮の創建年代は不詳ですが、平安時代の中期に小野妹子の子孫という小野孝泰が岩清水八幡宮を迎え祀ったといわれています。
御神木であるケヤキの木は平成8年(1996)に上の方が倒れてしまいましたが、樹齢600年だったと言いますから、長い歴史のある神社のようです。
相原が東京都と神奈川県にある謎もわかりそうです。

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2020年2月16日 (日)

歴史を振り返りながら秀吉が築いた石垣山一夜城を見る(後編)

小田原にある石垣山城を馬屋曲輪(二ノ丸)、井戸曲輪、展望台と見て回ってきました。

この先は本丸もありますから、ちょっと歴史を振り返りながら見ていきます。

二ノ丸からさらに一段高いところにある本丸にも石垣があります。

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この石垣は20メートルを超える高さで築かれており、石垣を築いた穴太衆の技術の高さが窺えるものだそうです。

ただし、今はかなり崩れてしまっており、石垣というよりも、所々に石があるという感じです。

本丸跡は本城曲輪とも言われていますが、やはり広いです。

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天正13年(1585)に関白となった豊臣秀吉は四国攻め、15年には九州攻めを行い西国は平定し、残るは関東、東北という状況でした。

そこで、大名同士の領土の取り合いなどがあれば、関白として征伐するという趣旨の私戦禁令『関東・奥両国惣無事令』を発しました。

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↑本城曲輪のさらに一段高いところに天守台跡があります。

ここが石垣山で一番高いところとなり、標高は261.5メートルとなります。

16年4月には後陽成天皇を京都の「聚楽第」に招き、全国の諸大名は参列を命じましたが、北条氏政、氏直父子は列席せず、秀吉の怒りの矛先が北条氏に向くことになりました。

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↑本城曲輪のところには物見台があり、前回の北の端の展望台以上に小田原市街や相模湾が見渡せます。

こちらからは更に三浦半島や遠く房総半島まで見ることができます。

アップにすれば、やはり北条氏の小田原城も見ることが出来ます。

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北条氏が攻められるトリガーとなったのは、天正17年(1589)10月に上野国(現群馬県)沼田城代であった北条氏側の猪俣邦憲が、隣接する名胡桃城(なぐるみじょう)を奪取したことでした。

これを惣無事令違反として、秀吉は11月24日に宣戦布告したのです。

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2020年2月 9日 (日)

豊臣秀吉が一夜にして築いたという石垣山城の石垣を見る(前編)

小田原にある城といえば小田原城が当然有名ですが、もう一つあります。

小田原北条氏の小田原城を攻めるために豊臣秀吉により築かれた石垣山城です。

小田原厚木道路の小田原西インターを出て直進し、東海道新幹線ガードの手前を右折し、70メートル先でもう一度右折して、1.8キロほどひたすら山道を進みます。

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↑無料駐車場があり、道路を挟んだすぐ前の斜面に石垣があります。

石垣山は国指定史跡となっており、国立公園の区域内です。

石垣山一夜城歴史公園として整備されています。

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石垣山といいますが、元々は笠懸山と呼ばれていました。

天正18年(1590)豊臣秀吉が関東では最初の総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。

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↑城の縄張内に入り、急な坂を登っていくと途中から北に向けての通路が整備されており、再び石垣が見られます。

馬屋曲輪石垣といい、延長67メートル、高さ6メートル、勾配60°で比較的良好に築城当時の形態が保たれているそうです。

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↑石垣の上には馬屋曲輪があります。

馬屋があったのでしょうが、ここは二の丸とも呼ばれています。

石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を貼って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を切り倒し、一夜で城が出来たように見せたからです。

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↑櫓台跡と書かれていました。

あまり櫓台には見えませんが、以前はもう少し高かったようです。

次に、石垣山と言うに相応しい石垣を見るために、せっかく登ってきましたが階段を下ります。

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2020年2月 2日 (日)

小田原北条氏が寄進した石垣の上に建ち相模国総社となっている六所神社

2月になりましたが初詣の旗が国道1号線沿いに立てられています◦

大磯町国府本郷にある六所神社です。

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↑この国道沿いの鳥居をくぐり参道を北に進むと、まず東海道本線の電車が通るのが見えます。

以前は踏み切りだったのでしょうが、今はアンダーパスです。

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神社に行くためには人も車もここを通り抜けます。

戸惑う人もいるかもしれませんが、先に進むと「相模国総社 六所神社」があると表示されています。

参道が地下を通っている神社は珍しいのではないでしょうか。

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↑その向こうの道路というか参道には大きな木があります。

大ケヤキで、神社の御神木です。

樹齢は600年といいますから、1400年頃からあったということになります。

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↑神社境内の入口にはニ之鳥居はなく、奥の少し高いところに社殿があります。

第十代崇神天皇の頃、出雲から移住した氏族が櫛稲田姫命を守護神とし、柳田大神として創建されました。

大化の改新後、相模国八郡の中心たる、相模国総社としてここに遷座したといいます。

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↑社殿を支える石垣は野面積みとなっています。

1500年代前期に小田原北条氏に寄進されて築造されたものと書かれています。

六所神社には歴史に関する多くの記録が記されているようです。

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2018年10月 7日 (日)

町田市川崎市境の尾根道を歩いてみて南北の景色を眺めるとマイコンシティというのがある

前回見てきた鶴川街道の都県境にある真光寺公園の北西端から木々の鬱蒼とした尾根道を歩いてみました。

この尾根道が東京都町田市と神奈川県川崎市の境界となっています。

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↑右方つまり鶴川街道とは反対に北東に向けて歩き始めると、すぐに尾根は東へそして南東へと向きが変わります。

また、左側の斜面は緩やかで木々ではなく畑が広がり、明るくなりました。

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↑この辺りでは北東に向けて遠くを見渡すことができます。

手前に小田急多摩線の黒川駅周辺の高架が、その先には京王相模原線の高架が見えます。

若葉台周辺の高層マンションも見ることができます。

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↑すぐにまた木々の中に入っていきます。

耳元で聞き慣れない超低音の羽音が聞こえました。

おそらくかなり大きな虫と想像されますので、スズメバチではないかと急いで歩きます。

やがて南に向けて真っ直ぐ進む道と、左方つまり東に向かう道に分かれますので、東に進みました。

戻ってから地図を見て確認してわかったのですが、南に向かう道は真光寺公園に沿っていたようです。

Yahoo!マップの地形図で見ると、どちらも尾根道のようです。

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↑東ルートでは、やがて今度は右に向けて視界が広がります。

建物の壁にはCanonと書かれていました。

そして下り階段がありました。

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↑振り返ってみると、黒川宮添特別緑地保全地区という表示板がありました。

こうして緑が残されているのは素晴らしいことです。

これで終わりかとも思いましたが、この先にも道は繋がっていました。

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2018年9月30日 (日)

池が印象的な真光寺公園と鶴川街道の都県境のごく軽い峠越えのある所

鶴川街道を西に向けて走って行くと、京王相模原線若葉台駅近くで東京都稲城市から神奈川県川崎市に入ります。

でも、標識を見なければ気づかないような、境界らしい川も山も道も何もないところです。

2km足らずで再び神奈川県から東京都に入りますが、ここはごく軽い峠越えをした気分を少しだけ感じるようなクネクネした道路となっています。

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↑それを越えたすぐ先の左側に真光寺公園があります。

バスの終点停留所名にもなっていますし、狭いながらも駐車場もあります。

この公園の東端には池があります。

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石神井公園や井の頭公園などの池を中心とした公園は数多くありますが、ここは違うようです。

ボート乗り場もありませんし、天気のせいもあるかもしれませんが、山奥の池か湖のような風景です。

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↑ただし、少し日が差すと水の色も変わり、雰囲気が全く違って見えます。

公園は、入口のある南側から北側に向けて登り斜面となっています。

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芝生の広がり、奥に向けて丘の登り斜面のある、のどかないいところです。

東側から池に沿って登っていこうとすると、池は奥まで続いておらず大きくはないようです。

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↑その奥にはトイレの他、ちょっと広い空間もあり、ここには机と椅子もありますから、のんびり弁当でも食べるのもいいでしょう。

奥には低い山があり、囲まれ感もあります。

先程の芝生の登り斜面の横の階段で上に登って行きます。

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2017年8月 6日 (日)

相模原沈殿池の水は横浜水道みちを流れてきたのではなく、相模原浄水場も関係なかった

前回見てまわった、相模原市を横断している「横浜水道みち緑道」は、明治時代に日本初の近代水道として引かれたところでした。

県立相模原公園のすぐ近くの、この水道道の近くには貯水池のようなところがあり、「相模原沈殿池」と名付けられています。

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ダム便覧にも記載されており、堤高19.5m、堤頂長255mもある立派なダムといえます。

相模原公園の北側に位置し、アースダムの美しい芝生が広がります。

北東方面を見ています。

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取水口らしきものがあります。

北西方向を見てみると、横幅の2倍程度の奥行きがあるように見えます。

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この水は横浜水道みちを流れて来た水を一旦ここに貯め、水道水としてりようするため沈殿させる施設なんだろうと思っていました。

しかし、この沈殿池ができたのは1954年(昭和29年)ですので、1887年(明治20年)にできた横浜水道よりもこちらの方がずっと新しいものとなります。

ちょっとネットで調べながら、全体の様子を見に一周歩いてみました。

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↑半時計回りに半周、北東の端まで来てみると、北西の端に水道施設らしきものがあるようです。

↓沈殿池の北側は住宅もある普通の道路となっていました。

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調べてみると、この水は津久井湖手前の沼本ダムからの取水され、地下の水道管を通って流れて来たものを貯めているようです。

津久井分水池、下九沢分水池を経由して来ており、横浜水道みちとは全く別ルートということです。

横浜市水道局公式サイトにあった「水源系統図」を見ると、津久井湖から川井浄水場まで2本のラインが引かれています。

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