古くからの盛衰のあった岩殿観音への長い参道と比企能員の判官塚
東松山市にある岩殿観音には3年前にも来ており、その正法寺や岩壁を見てきました。
あの時に境内石段の上から見た、こちらに向かい真っ直ぐ進む参道、あそこを通ってみたくて来てみました。
今回も、東からは埼玉県道212号岩殿観音南戸守線、西へは県道343号岩殿岩井線沿いにある駐車場からです。
つまり、標高では120メートル辺りの県道から凝灰岩の岩壁の高さに相当する階段を下ってきました。
↑この観音堂などのあるところで標高100メートルです。
前回は涼しい秋の日なのに行くのを躊躇した石段の昇り降りを、この猛暑日にするとは不思議なものです。
↑まずは石段を下り、700メートル先の参道の入り口まで行きました。
惣門橋という橋が九十九川に架かっており、その名の看板もありました。
この交差点のところには「岩殿観音参道絵図」というのがあります。
参道には五十戸が門前町を形成しそれぞれに屋号があったと書かれています。
建物は建て替えられて昔ながらの街並みは残っていませんが、屋号の看板が各戸に付けられています。
参道を歩いていくと途中左手に判官塚入り口と書かれています。
比企大神ともいいますから坂を登って行ってみました。
比企能員を追福するために造られたもので、比企能員の官職である判官(右衛門尉)から「判官塚」と呼ばれているそうです。
判官贔屓という時の判官です。
源義経が浮かびますが、義経が左衛門府の三等官、左衛門少尉で判官(ホウガンまたはハンガン)であったことから言われている言葉です。
同じ鎌倉時代初期ですが、比企能員も判官だったということになります。
↑参道に戻ると右手には熊野神社があります。
行ってみましたが、こちらも石段の上にあり、この周囲は岩殿丘陵でアップダウンの多い地形です。
参道の惣門橋が標高50メートルで、岩殿観音石段の手前では75メートル程です。
参道は緩やかな坂道だったので昇り坂であることは感じませんでした。
仁王門には運慶作の仁王像があったということですが消失してしまい、江戸時代文化年間(1804〜18)に再建されました。
岩殿観音は源頼朝が妻北条政子の守り本尊とするために、比企能員に命じて再建されたといいます。
室町時代には観音巡礼が盛んになり、門前町も賑わい、戦国時代末期には門前に僧坊六十六を有する関東、北国でも並びなき規模だったそうです。
しかし、永禄年間(1558〜70)の松山城合戦の際、七堂伽藍は消失してしまいました。
↑観音堂の前には3年前にはなかったはずの、着物の女性のパネルがありました。
北条政子かと思いましたが、「比企局」と書かれていますから比企尼、源頼朝の乳母のようです。
この間に「鎌倉殿の13人」のテレビ放映があったからでしょう。
江戸時代には観音巡礼により再び大きく栄えたということです。
↑改めて樹齢700年という大銀杏を見ました。
門前町の盛衰も見てきたのでしょう。
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