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2024年1月14日 (日)

荒川の東だけでなく西岸にもあるさいたま市西区の馬宮にある飯田新田

11月に荒川の東側にあるさいたま市西区の馬宮地区に行きました。

その馬宮は荒川西側にもあるようです。

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↑さいたま市立馬宮西小学校です。

屋上に「創立148年」との看板がありますから歴史は古く、明治8年(1875)からあるということです。

校舎の右側、東方になりますが見えているのは荒川の堤防になります。

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ここは荒川の西側になり、富士見市か川越市のどちらかだと思っていましたが、大宮市であって今はさいたま市西区です。

もともと荒川が境界で、その流れの東側にあったため大宮側であったものが、荒川を直線化したため地区が分断されてしまいました。

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↑さいたま市消防団馬宮西分団もこの近くにあります。

比較的新しく平成28年(2016)にできたということで、それまでは荒川東側の馬宮分団しかなかったそうです。

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↑裏の林の木々の奥に見える水の流れがかつての荒川でした。

びん沼川となっているところが、かつての荒川本流であったため、旧馬宮村は荒川で分断されて治水橋でしか行き来できないようになってしまいました。

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↑馬宮西小学校、当時の第二馬宮尋常小学校は大正3年(1918)まではこの八幡神社に仮校舎がありました。

飯田新田は江戸時代に飯田村の人々が新たに開発したところですが、地図を見ても結構離れています。

寛永年間(1624〜44)には既に集落があったといいます。

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八幡神社に置いてあった由緒書によると、江戸時代の新編武蔵国風土記稿によると、天正年中(1573~92)に徳川家康が一株の老松の堂々とした姿に目を留め、指を差して賞美しました。

松は「御指差松」と呼ばれ、後年この旧跡に創建された真言宗西光院には東照宮を祀られ、相殿として祀ったのがこの八幡神社ということです。

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やがて各々独立して祀られこの八幡神社は明治6年(1873)村社となり、同41年(1908)には分かれていた東照宮は合祀されました。

現本殿は、大正2年(1913)に植田谷本村(現さいたま市西区植田谷本) の足立神社から譲り受けたものです。

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↑11月に馬宮の荒川東岸の堤防から見たときの景色です。

あの時は、遠くに見える治水橋の向こう岸にも同じ馬宮地区があるとは思いもしませんでした。

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