足利尊氏と新田義貞の子義宗の決戦が行われていた鎌倉街道の笛吹峠
笛吹峠は、埼玉県鳩山町と嵐山町の境になっている峠です。
かつては鎌倉へと続く「鎌倉街道上道(かみつみち)」がここを通っていました。
鳩山町ホームページには、「眼下に須江地区の集落が広がる、眺望のすばらしい笛吹峠は鎌倉街道で一番の難所で」とあります。
一番の難所は否定しませんが、眺めは全く見えません。
↓南に向けての鳩山町方面です。
また、この峠は、鎌倉時代以降広まる坂東札所めぐりの中で、九番ときがわ町の慈光寺と十番東松山市の正法寺を結ぶ巡礼街道との交差点にもなっています。
↓東に向けての正法寺方面です。
正法寺は、2年前に見た岩殿観音で岩殿の名の通り、岩の壁と樹齢700年の大銀杏はインパクトがありました。
林の中を進む道ですが、鎌倉街道も当時はこんな感じだったのでしょう。
西に向けての慈光寺方面は民家への入り口のように見えますが、少し先からやはり林の中の細い道があります。
↓ 東の正法寺方面への入り口右の石碑には「史蹟笛吹峠」と書かれています。
ここが史蹟とされているのは、室町時代初期の南北朝時代に足利尊氏と新田義貞の子義宗が決戦をしたところだからです。
鎌倉幕府を滅ぼすのに活躍して有名な新田義貞ですが、室町時代になってからの日本史ではあまり話題になりません。
実は北朝方の足利尊氏に対し、新田義貞は南朝の後醍醐天皇方につきました。
↑北に向けての嵐山町方面です。
この戦いでその南朝の宗良親王が月明かりに吹いた笛の音に心を慰めてたことから、笛吹峠と言われています。
正平7年(1352)の小手指ヶ原などでの武蔵野合戦では、最終的に笛吹峠で足利尊氏側が勝利しました。
↑峠からはどの方向にも景色は見られませんでしたので、南に旧鎌倉街道(現在は笛吹通り)を下り西側から見てみました。
須江大沼という農業用水のため池がありましたので、そこからの眺めです。
↑笛吹峠から南へ2キロ程の埼玉県道171号ときがわ坂戸線と41号東松山越生線の大橋交差点の近くには、埼玉県による鎌倉街道(上道)の案内地図があります。
ここから北に笛吹峠方面を振り返って見てみました。
特にここに旧道らしい名残りのあるところがあるから設置されたわけでもなさそうです。
それにしても、山川の日本史にも載っていなかった、こうした歴史があったとは、まだまだ勉強していかなければなりません。
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