武蔵国分寺創建期の瓦が焼かれていた40キロも離れた鳩山窯跡群の登り窯
前回、街の幸福度ランキング1位の鳩山町のことを書きましたが、その鳩山町には南比企窯跡群と呼ばれる東日本最大級の窯跡群があります。
鳩山町を中心に嵐山町、ときがわ町、東松山市に広がり、6世紀初頭から10世紀前半頃まで、須恵器や瓦を製造していました。
鳩山町の農村公園南側の辺りでは7世紀後半から8世紀中頃にかけて大量の瓦が焼かれました。
天平13年(741)の聖武天皇による国分寺建立の詔により各国に建てられた国分寺ですが、武蔵国のものは東京都国分寺市にありました。
↑ここには埼玉県指定史跡の「石田国分寺瓦窯跡」があります。
遥か40キロメートルも離れていますが、ここで焼かれた瓦が使われたといいます。
当時は運搬だって大変だったでしょうから不思議です。
焼き物作りには大量の粘土と水、燃料となる薪が必要だそうです。
鳩山町周辺では良質の粘土が採れ、丘陵には豊かな森と窯をつくるのに適したなだらかな斜面があったからということです。
発掘調査によると3〜5基の瓦窯跡が並んでありました。
武蔵国国分寺創建期の屋根瓦を焼いた最大規模の窯跡で8割は鳩山窯跡群産だということです。
やはり、なぜこの距離なのにいうモヤモヤは解消しませんが。
↑さらに数十メートル北には「石田1号窯跡」があります。
須恵器と瓦を焼いていた7世紀後半の瓦陶兼業窯跡で、鳩山町では最古のものです。
窯跡だといっても、どんなものかイメージが湧いてこなかったのですが、ここの案内板の写真でようやく少しわかりました。
坂戸市にあったという武蔵国最大規模の古代寺院である勝呂廃寺創建をきっかけとして操業を開始したといいます。
8世紀中頃には、武蔵国分寺創建期の瓦を生産し、10世紀初頭には衰退したと考えられています。
もともと須恵器や勝呂廃寺の瓦を焼く登り窯があったからこそ、武蔵国分寺から遠いここの瓦が使われたとしてモヤモヤも晴れてきました。
↑窯については、案内板の写真から想像するしかありませんでしたが、さらに100メートルほど北へ行ったものは違います。
「赤沼古代瓦窯跡」があり、こちらも県指定史跡になっています。
窯跡が屋根に覆われており、発掘されたものが保存されています。
昭和25年(1950)に発掘調査した時から県指定史跡となっていますが、当時は武蔵国分寺の瓦窯と考えられていました。
平成5年(1993)の再調査により、7世紀後半から8世紀初頭の窯跡であることがわかりました。
勝呂廃寺の窯跡で、さらに町内の小用廃寺や東松山市の山王裏廃寺・大西廃寺などの周辺寺院にも供給されたそうです。
先程見た石田1号窯も石田と付いていますが、こちらの赤沼古代瓦窯跡の方に入るようです。
戦後間もない混乱期とは科学の発展具合が違うから、年代想定の違いはやむを得ないのでしょう。
いずれの年代にしても、すごいことですから。
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