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2021年1月24日 (日)

小金井市貫井の辨財天にある枯れてしまった池と下弁財天広場と大澤氏一族

小金井市にある上宮大澤神社の由緒には、前回見たように「大澤の池」とありましたが境内には無いので探してみました。

Googleマップを見ると、神社のすぐ裏には辨財天があるのでそこに行きました。

直接真っ直ぐに行くことは出来なく、北か南に迂回しなくてはいけませんでした。

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池らしきものがありますが、水はありませんでした。

「辨財天由来」というと案内板があります。

創立は慶長10年(1605)で、時期は不明だがこの貫井に移り住んだ大澤隼人守一族が、この清水の湧き出る地に水の神を御招きし、氏神様として辨天様を祀ったといいます。

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また、中世のいつからか貫井神社を上辨財天、この社を下辨財天と言うようになったとのことです。

江戸時代初期の創立と中世との時間の逆転がよく分かりません。

上宮大澤神社の方では、大澤氏は平安時代にここに来て神社を創始したとされていました。

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↑辨財天由来は貫井神社によって立てられています。

上辨財天は、明治2年(1869)神仏分離令により、厳島神社と改称し、明治33年(1900)大澤一族の下辨財天と小長久保の八雲神社がその貫井神社に合祀となったようです。

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池のことも書かれていました。

昭和29年(1958)から36年頃の間、池の湧水が止まり、それ以来下辨財天の池も枯れてしまいました。

隣は下弁天子供広場となっていますが、そこに碑があり大澤家との関係が書かれていました。

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ここは古くから貫井南町地域に住む14軒の大澤家が代々共有し、維持管理をしてきた土地とのことです。

約40年前から小金井市が借りて下弁天子供広場として開放し平成27年には寄付されました。

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↑この広場には東に向けて水は流れていませんでしたが、水の流路が作られています。

上宮大澤神社にもあった大澤氏の子孫がこの辺り一帯に住んでいたようです。

ただし、上宮にとっての下宮が辨財天のことなのかは分かりません。

辨財天によれば、上辨財天は1キロメートル近く西にある貫井神社となっています。

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↑広場から流路とは逆の方向に行くと、いかにも旧河川敷であったと思える道があります。

このすぐ近くには河川改修工事された野川が流れています。

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先程の水路跡は旧野川の流れの一部なのでしょうか。

あの道は、貫井南町と前原の境界となっていることを考えると有り得ることです。

いずれにしても、大澤の池にしろ、辨財天の池にしろ、この辺りは湧水のある土地だったようです。

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