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2021年1月10日 (日)

萌芽に期待する三本榎と引又街道と拡幅されていく新青梅街道

武蔵村山市の新青梅街道には「三本榎」という交差点があります。

ここは都道5号線と55号線の交差点です。

3本の榎の木があるのだろうと思い、辺りを見てみると「三本榎史跡公園」はあるものの、ちょっと様子が変です。

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「三本榎(乙幡榎)」と書かれた標柱や説明板があるものの肝心な木がありません。

武蔵村山市指定史跡の三本榎のうちの乙幡榎は、平成28年強風により幹の一部が折れ、保護措置を行いました。

しかし、令和元年5月には樹医より枯死した可能性が高いとされ、さらに令和2年6月には幹上部が折れ落下したため、止む無く幹本体を伐採したそうです。

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ただし、残存する根系部から後継樹となるよう萌芽更新による育成を行っているそうです。

萌芽更新とは、広葉樹の切り株から伸び出すのでその萌芽を育て、樹木の若返り(再生)を図ることです。

三本榎の由来としては、やはり、3本の榎はあるのようで、もう一本は都道55号線の向かい側にある加藤榎です。

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枯れた乙幡榎とこの加藤榎は、樹齢二百余年と推定されています。 

それぞれの榎に付いているのは何の名前なのかと思いましたが、昔、弓の遠矢競争で矢が落ちた場所にそれぞれの名の榎が植えられたそうです。

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↑3本目は東京都水道局学園配水場敷地内にある奥住榎で、こちらは大正時代末期に植え替えられ樹齢は60年ほどです。

三本榎の南を東西に走る道路は、引又街道(市街道)といい、江戸時代から明治時代にかけて重要な道路で、三本榎はここを往来する人々の休憩所でした。

2枚目の写真の乙幡榎の塚にあった庚申塔は、寛政11年(1799)に造立されたものです。

その引又街道の様子を見てみます。

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↑現在は引又街道という通りの名前さえ残っていないくらいですから、奥住榎から東の方を見てみると、普通の住宅街の道です。

引又は、江戸時代に川越藩により制定された新河岸川の引又河岸のあったところで、現在では埼玉県志木市になります。

今度は、乙幡榎のあったところから西を見てみると、引又街道のあったはずの斜めに向かう道路が閉鎖され、位置を付け替えているようです。

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空き地には「武蔵村山都市核土地区画整理事業」と書かれた看板が立っています。

調べてみると、市の中心核として相応しい「魅力あふれるやすらぎの街」を目指し、30.9ヘクタールもの広さで区画整理事業が行われているようです。

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新青梅街道で見ていくと、東は都道55号線の三本榎交差点から西は都道59号線の本町一丁目交差点までで、南はイオンモールむさし村山の手前までの範囲です。

都市計画道路としては立川3・2・4号線である新青梅街道も、幅員18メートルから30メートルに拡幅されます。

ここに限らず、拡幅空間は道路沿いに大分確保されてきています。

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これは武蔵村山市がずっと要望してきた多摩都市モノレール延伸の導入空間と言われています。

唯一鉄道の通っていない都内の市だといいますが、現在でも既にスターバックスがあります。

スタバのない市よりは進んでいるのだと言い張ってもいいのではないのでしょうか。

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