東久留米市指定史跡4つのうち2つや有形民俗文化財もある柳窪と登録有形文化財
東久留米市内には、まず東京都指定文化財(史跡)として新山遺跡、下里本邑遺跡、米津家大名墓所があります。
東久留米市指定文化財(史跡)は4つあります。
その一つが柳窪5丁目にある筆子塚です。
筆子とは江戸時代から明治期にかけて、寺子屋などで手習を受けた人たちのことで、その師匠を偲んで造ったそうです。
この筆子塚は、安永4年(1775)に造立された市内最古のものです。
墓地の中にこうしたものがあるとは知りませんでしたが、お参りさせていただきました。
↑墓地入口には市指定有形民俗文化財もありました。
地蔵菩薩石像で、宝永3年(1706)造立の市内では2番目に古いものだそうです。
柳久保村とも書かれていますが、柳窪と柳久保の両方が使われていたようです。
↑史跡の方のもう一つは柳窪4丁目にある柳窪梅林の碑です。
江戸時代終期の安政4年(1857)に造られた石碑で、梅の植樹をしたことが記されています。
↑何回か来たことのある柳窪天神社の境内にあります。
碑に、「来梅ノ荘の里」や「来梅川」と書かれており、東久留米の「くるめ」の名称が初めて登場します。
神社の目の前は、くるめの由来と言われる黒目川は流れています。
ここは東京の名湧水57選の一つです。
枯れていることも多いですが、さすがに梅雨時なので水がありました。
ここには紫陽花がキレイに咲いています。
ここには更に市指定有形民俗文化財が3つもあります。
右にあるのは庚申塔で明和元年(1764)のもの、中央は石橋供養塔で明和6年(1769)の黒目川の石橋の安全を祈願したものです。
左の地蔵菩薩石像は年代は正確には分かりませんが江戸時代後期のもののようで、こちらにも柳久保村と刻まれています。
この3つは150メートルほど北の、同じく柳窪4丁目の路傍にあったものが、開発による宅地化に伴い平成28年(2016)に、この天神社横の長福寺前に移設されました。
ところで、このすぐ近くには、指定文化財と紛らわしい登録文化財があります。
村野家住宅は唯一市内に現存する江戸時代の茅葺民家で、主屋等7件が国登録有形文化財となっています。
↑ その一つの薬医門は、明治14年(1881)建築の総欅造りの門です。
国や都や市が指定する文化財ではなく、自ら申請して国に登録されるのが国登録有形文化財です。
「指定」制度を補完するものとして、「登録」制度は生まれたものです。
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